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  11. 平将門

平将門

ジャパンナレッジで閲覧できる『平将門』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

平将門
たいらのまさかど
 - 九四〇
平安時代中期の武者。桓武平氏高望の孫。父は良持。系図には父を良将、母を犬養春枝の女とするものがあり、その生年を延喜三年(九〇三)と伝えるものもある。将門は下総北部の豊田・猿島地方(茨城県西部)を地盤としており、若いころに藤原忠平に仕えたが、承平元年(九三一)に女論によって伯父良兼と対立し、同五年、常陸西部に勢力を張る前大掾源護と平真樹の争いにまきこまれ、護の子扶らや伯父国香を討ち、護の女婿であった伯(叔)父の良兼・良正や国香の子貞盛らと戦うことになる。同六年に護の訴えにより京都に召喚され、朱雀天皇元服の大赦によって帰郷すると、一族間の争いは一層激化する。天慶二年(九三九)、武蔵国の国司と郡司との紛争調停に乗り出して成功せず、介源経基に謀反として訴えられた。この問題が解決しない内に同年十一月、常陸の土豪藤原玄明と国守の紛争に介入して国府に出兵、国府を焼き払ったことから将門の行動は国家に対する反乱となり、関東の諸国に出兵して国守を追い、弟や従兵を国司に任命し、みずから新皇と称して関東の自立をはかった。しかし同三年二月、下野の豪族藤原秀郷と従兄の平貞盛・藤原為憲らの軍に攻められ、下総国猿島郡で討たれ梟首された。『将門記』によると、将門は侠気に富む人物であり、皇胤の自覚をもちながら武芸によって身を立てようとする「つわもの」であったが、その領主としての性格や当時の武力編成の理解には多くの議論がある。すなわち将門やその敵人を私営田領主の範疇で捉え、合戦の主力となる伴類を律令公民の線上におき、従兵という領主間結合に封建制の源流を求めようとする見解が強いが、伴類を農奴または農奴主と捉えてそこに封建制の展開を求めようとする見解もある。また将門を利根川氾濫原野の開墾農場主として捉える見解がある一方、その根拠地の豊田郡鎌輪と猿島郡石井(いわい)がともに兵部省の官牧大結牧と長洲牧を背後にもっていた事実を重視し、将門を官牧の牧司として捉え直そうとする見解も提出されている。新皇将門の関東支配は数ヵ月にすぎなかったが、中央派遣の国司を追放した将門の行動は関東の民衆に大きな影響を与え、将門を英雄として仰ぐ気風は時とともに強まる。十世紀末には将門の死後の霊魂説話が形成され始め、十二世紀にはその子孫説話も作られていく。茨城県岩井市の国王神社、結城郡の山川不動、東京の神田明神をはじめ、将門をまつる神社は関東に少なくない。なお、将門の乱の経緯を描いた書『将門記』があり、『日本思想大系』八、『東洋文庫』二八〇・二九一、『(新撰)日本古典文庫』などに収められている。→承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん),→将門記(しょうもんき)
[参考文献]
『大日本史料』一ノ七 天慶三年二月十四日条、福田豊彦『平将門の乱』(『岩波新書』黄一六八)、林陸朗『史実平将門』、同編『論集平将門研究』、北山茂夫『平将門』(『朝日評伝選』三)、赤城宗徳『平将門』(『角川選書』三二)、古典遺産の会編『将門記―研究と資料―』、梶原正昭・矢代和夫『将門伝説』、佐伯有清他『研究史将門の乱』、福田豊彦「王朝軍事機構と内乱」(『(岩波講座)日本歴史』四所収)、上横手雅敬「平将門の乱」(『日本中世政治史研究』所収)、竹内理三「初期の武士団」(『日本人物史大系』一所収)、大森金五郎「平将門乱の研究」(『武家時代之研究』一所収)
(福田 豊彦)


日本大百科全書(ニッポニカ)

平将門
たいらのまさかど
[?―940]

平安中期の関東の武将。桓武 (かんむ)平氏高望 (たかもち)の孫。父は鎮守府将軍良持 (よしもち)または良将 (よしまさ)とも伝え、母を犬養春枝 (いぬかいのはるえだ)の娘とするものもある。その行動は『将門記 (しょうもんき)』に詳しい。下総 (しもうさ)北部の豊田 (とよだ)・猿島 (さしま)(茨城県結城 (ゆうき)・猿島郡地方)を地盤としていたが、若いころに上洛 (じょうらく)して藤原忠平 (ただひら)に仕えた。931年(承平1)、「女論」によって伯父の下総介良兼 (しもうさのすけよしかね)と争った。この「女論」には諸説あるが、良兼の娘は将門の妻としてその家に同居しており、この婚姻にかかわるものであろう。935年以後、常陸 (ひたち)(茨城県)西部の豪族常陸大掾 (だいじょう)源護 (まもる)と平直樹との争いに巻き込まれ、護の女婿であった国香 (くにか)、良正、良兼らのおじと争う。翌年10月、源護の訴訟により京都に召喚されて禁獄。朱雀 (すざく)天皇元服の大赦によって帰郷するが、良兼らに攻められて一族紛争は激化する。939年(天慶2)、武蔵 (むさし)国の権守興世王 (ごんのかみおきよのおう)・介 (すけ)源経基 (つねもと)と足立郡司判官代 (あだちぐんじはんがんだい)武蔵武芝 (たけしば)との紛争の調停に乗り出すが失敗、経基に謀反として訴えられる。この問題が未解決のうちに同年11月、常陸国府(茨城県石岡市)に出兵してこれを焼き払い、将門の行動は国家に対する反乱となる。将門は関東を制圧して受領 (ずりょう)を追放、新皇と称して弟や同盟者を国司に任じ、関東自立の姿勢を示す。しかし940年2月、下野 (しもつけ)の豪族藤原秀郷 (ひでさと)と国香の子貞盛らの軍勢により、猿島の北山(嶋広山ともいう。茨城県坂東 (ばんどう)市)で討たれた。

 将門は侠気 (きょうき)に富む人物で、武芸によって身をたてる「兵 (つわもの)」であったが、その領主としての性格や武力編成には多くの説がある。彼を私営田領主とし、その率いる「伴類 (ばんるい)」を律令 (りつりょう)公民の線上でとらえ、「同党」「従兵」などの領主間結合を重視する見解が強いが、伴類を農奴または農奴主としてその封建的性格を強調する説もある。また彼を鬼怒 (きぬ)川氾濫 (はんらん)原の開発農場主とみる見解がある一方、その根拠地の石井 (いわい)(坂東市)、鎌輪 (かまわ)(下妻 (しもつま)市鎌庭 (かまにわ))がともに兵部省の官牧を背後にもっていた事実を重視し、官牧の牧司としてとらえ直そうとする説も提出されている。

 新皇将門の関東支配はわずか数か月にすぎなかったが、中央派遣の受領を放逐したその行動はとくに東国の民衆の共感をよび、将門を英雄として仰ぐ気風は時代とともに強まる。10世紀末には将門の死後霊験譚 (れいげんたん)が形成され、12世紀にはその子孫説話もつくられる。『今昔 (こんじゃく)物語』には地蔵 (じぞう)信仰と絡んだ蔵念・如蔵尼説話がみえ、中世になると千葉氏やその一族では、妙見 (みょうけん)信仰と絡んで将門の後継者と自称する説も育てられていく。東京の神田神社、坂東市岩井の国王 (こくおう)神社(将門の二女如蔵尼の創建と伝える)をはじめ、将門を祀 (まつ)る社寺は関東に多い。

[福田豊彦]



世界大百科事典

平将門
たいらのまさかど
?-940(天慶3)

平安中期の武将。桓武平氏上総介平高望の孫。父は鎮守府将軍,良持あるいは良将と伝える。《尊卑分脈脱漏》によると,母は犬養春枝の娘。その行動は《将門記》に詳しい。若いころ上洛し藤原忠平に仕えたが,931年(承平1)〈女論〉により伯父の下総介良兼と争う。この〈女論〉には諸説あるが,良兼の娘は将門の妻として将門と同居しているので,この婚姻にかかわるものと推察される。将門は下総北部鬼怒川水系沼沢地帯の豊田,猿島(さしま)地方を地盤としていたが,935年,常陸西部の筑波山麓地帯に勢力をはる常陸大掾源護と平真樹との争いにまきこまれ,護の女婿であった平国香,良正,良兼らおじたちと戦うことになる。936年10月,源護の訴えにより京都に召喚,禁獄されるが,朱雀天皇元服の大赦による帰郷後,良兼らの軍に攻められて,のち一族間の紛争はいっそう激化した。939年(天慶2)春,武蔵国の権守興世王,介源経基と足立郡司判官代武蔵武芝との紛争の仲介に乗り出すが,これに失敗,経基に謀叛として訴えられた。この問題が解決されないうちに,同年11月に常陸の国衙を焼き払ったことから将門の行動は国家への反乱となり,将門は〈新皇〉と称して関東の分国化をめざす。しかし将門には独自の政治構想がなく,940年2月に藤原秀郷と国香の子平貞盛らに討たれ,梟首(きようしゆ)された。享年は《将門記》にはないが,後世の所伝には39歳とするものがある。

 将門は俠気に富んだ人物で,武芸によって身を立てようとしたつわものであったが,その領主としての性格をどうとらえるか,またその武力構成を中世の武士団との関連でどう位置づけるかには,多くの説がある。将門を私営田領主として中世の領主と区別する見解が強いが,その率いる伴類を農奴または農奴主として中世的性格を強調する説もある。また将門を鬼怒川はんらん原の開墾農場主とみる見解が強いが,最近ではその根拠地石井と鎌輪がともに兵部省の官牧を背後にもっていたことを重視し,官牧の牧司としてとらえ直そうとする見解が提出されている。

 新皇将門の関東支配は数ヵ月にすぎないが,中央派遣の受領を放逐したその行為は,とくに関東の民衆に大きな影響を与え,将門を英雄として仰ごうとする気分は年とともに強まった。10世紀末には将門の死後霊験譚が形成されはじめ,しだいに子孫説話も整えられて,12世紀に成立する《今昔物語集》では壬生良門,地蔵小院蔵念,如蔵尼などがその子孫とされている。中世には千葉氏とその一流の相馬氏には,将門の後継者とする説話が作られるが,これには妙見信仰が深くかかわっている。近世の文芸作品には将門伝説に取材したものが多く,ここにも江戸庶民の将門びいきの感情が認められる。将門をまつる社寺は関東一帯に分布しており,その墳墓と伝えられるものも少なくない。
[福田 豊彦]

人物像の形成と展開

将門は平貞盛,藤原秀郷の軍勢のため,石井営所の近くで討たれたが,《将門記》は,そのときにわかに神罰が下り,〈馬ハ風ノゴトク飛ブ歩ミヲ忘レ,人ハ梨老ガ術ヲ失ヒ〉,神鏑に射すくめられて死んだとしている。将門の死をこのように神異と結びつけてとらえようとする風潮は古く,たとえば《今昔物語集》には,山門の僧浄蔵が叡山の横川で将門調伏のため大威徳法を修したところ,灯明の上に武装した将門の姿があらわれ,人々が驚いて見上げると,流鏑の響きが東方を指して過ぎるのを聞いたとある。同様な調伏伝説や神異譚は,当時の史書や説話集に数多く伝えられているが,千葉県成田市の成田不動や栃木県足利市の鶏足寺などのように,関東地方の社寺の中には,これに類する伝えを今に残すところがかなりある。

 将門を中国の勇将李陵や養由になぞらえ,その武勇をたたえるという風は,《将門記》にもすでに見られたが,伝説の世界に登場する将門は,鋼鉄身で,つねに6人の影武者を従え,捕捉しがたい超人ぶりを発揮する。〈その有様殊に世の常ならず,身長(たけ)は七尺に余りて,五体は悉く鉄(くろがね)なり。左の御眼に瞳二つあり。将門に相も変らぬ人体同じく六人あり。されば何れを将門と見分けたる者は無かりけり〉。御伽草子《俵藤太物語》は,その超人ぶりをこのように描き出しているが,その不死身の巨人にも,ただ1ヵ所,こめかみだけが生身であるという弱点があり,愛妾の桔梗(ききよう)の前の裏切りによって,その秘密が敵方の俵藤太(藤原秀郷)に漏れ,あえなく討ちとられるという結末になっている。ギリシア神話のアキレウスや北欧のジークフリートと同じかたちの伝承だが,将門が影武者6人を従えていたというのは,北斗七星の信仰(妙見信仰)とのかかわりの中で,この伝説がはぐくまれてきたことを示唆している。

 《将門記》は,その文末に,造悪の報いで地獄におちた将門が冥界から消息を寄せて,生存する妻子や兄弟に地獄の責め苦を訴えたという,興味深い巷説を載せているが,《太平記》や古活字本《平治物語》には,都で梟首された将門の首が瞑目せず,歯がみして復仇を誓ったという話が伝えられている。非業の死をとげた人々の怨恨が,怨霊となって世を悩ますという考えは,いわゆる御霊神としてこれを神にまつり,鎮魂慰撫する風習を生んだが,東京神田の神田神社,西多摩郡奥多摩町鳩の巣の将門神社,茨城県坂東市の旧岩井市の国王神社,千葉県佐倉市の将門明神,福島県相馬市の相馬神社など,関東から東北にかけての各地には,将門をまつる御霊社が広く分布している。

 先にあげた《俵藤太物語》もその一例だが,近世に入ると,将門にゆかりの深い東国が政治・文化の中心となったことから,将門への関心はいっそう深まり,将門伝説に題材をとった多くの文芸作品がつくられた。浄瑠璃《関八州繫馬(つなぎうま)》(近松門左衛門作),読本《善知鳥安方(うとうやすかた)忠義伝》(山東京伝作)は,その代表的なものである。
[梶原 正昭]

[索引語]
将門記 将門伝説 桔梗(ききよう)の前 神田神社
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1. 平将門画像
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8. 平将門[文献目録]
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世界大百科事典
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15. たいらのまさかど‐の‐らん[たひらのまさかど‥]【平将門乱】
日本国語大辞典
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17. 平将門の乱
日本史年表
935年〈承平5 乙未〉 2・‐ 平将門、伯父の常陸大掾平国香・前大掾源護と対立.国香を殺害し、野本の戦いで護の子扶・隆・繁らを殺害、国香方の拠点を焼き打ちする
18. 平将門退治図会(著作ID:1067432)
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たいらのまさかどたいじずえ 将門退治図会 松亭金水(しょうていきんすい) 編 葛飾北斎一世(かつしかほくさい1せい) 柳川重信二世(やながわしげのぶ2せい) 歌
19. あおいじんじや【青渭神社】東京都:青梅市/沢井村地図
日本歴史地名大系
る説がある。「風土記稿」には「抑当社ハ延喜式神名帳ニ載ル所ニシテ祭神ハ大己貴尊ト云」とあり、平将門追討のため下向してきた源経基の前に藍色に変色した多摩川から現れ
20. あかぎ-むねのり【赤城宗徳】画像
日本人名大辞典
官房長官をつとめた。日ソ親善協会会長。平成5年11月11日死去。88歳。東京帝大卒。著作に「平将門」「わが百姓の記」など。【格言など】同胞相食(は)む始末になっ
21. あかはまむら【赤浜村】茨城県:真壁郡/明野町
日本歴史地名大系
われる。承和寺は承和元年(八三四)慈覚大師円仁によって創建されたが、承平五年(九三五)源護と平将門が衝突した際に焼失し、観応二年(一三五一)に河内郡黒子村(現関
22. あかぼっけむら【赤法花村】茨城県:北相馬郡/守谷町
日本歴史地名大系
[現]守谷町赤法花 小貝川南岸の平坦地に所在。南は奥山新田村。「北相馬郡志」に「平将門承平年間、森屋に城廓を築き城内より眺望するに唐土の赤壁を見るが如し、因て執
23. あきとみじんじゃ【飽富神社】千葉県:袖ケ浦市/飯富村地図
日本歴史地名大系
神とみえ、従五位上勲五等から正五位下に、さらに同八年七月一五日条では正五位上に昇叙している。平将門の乱では朱雀天皇の勅使が来て乱鎮定の祈願が行われ、太刀の献納が
24. あくみかんべ【飽海神戸】愛知県:豊橋市/飽海村
日本歴史地名大系
また建久已下古文書(神宮文庫蔵)に「新神戸二宮去天慶三年依勅願被奉寄」とあって、天慶三年(九四〇)に設定され、平将門追討の報賽にかかるものと思われる。この神戸の
25. あくみかんべしんめいしゃ【安久美神戸神明社】愛知県:豊橋市/吉田城下/神明小路
日本歴史地名大系
[現]豊橋市八町通三丁目 祭神天照大神ほか七柱。吉田神明宮とも称した。天慶三年(九四〇)平将門の乱平定に際し、朝廷は報賽のため飽海郷の一部を伊勢神宮に献じた。こ
26. 明野(茨城県)
日本大百科全書
。小貝こかい川と桜川に挟まれ、筑波つくば台地の北部に位置する。承平じょうへいの乱(935)で平将門まさかどと争った平国香くにかの居館跡がある。また、松島の瑞厳ず
27. あさくさしばざきちよう【浅草芝崎町】東京都:台東区/旧浅草区地区地図
日本歴史地名大系
往古は天台宗で了円により芝崎村に創建され、それより一〇〇余年後の承平の乱後所縁の者により同所に平将門の墳墓が築かれた。しかしその後墳墓は荒廃し、将門の亡霊が祟り
28. あざぶさんげんやちよう【麻布三軒家町】東京都:港区/旧麻布区地区地図
日本歴史地名大系
橋名由来も目黒不動霊験譚らしい姫下坂につながる、白金・青山両長者の子息たちの邂逅説話(故郷帰の江戸噺)、平将門の乱に関する源経基通過伝説(「江戸砂子」「江戸鹿子
29. あしかがし【足利市】栃木県
日本歴史地名大系
て」贈っており、鎌倉中期より足利の染物は世に知られていた。市域には、行基の開山という浄因寺や平将門調伏を伝える鶏足寺などの古刹とともに、鑁阿寺をはじめとした足利
30. あしがらとうげ【足柄峠】静岡県:駿東郡/小山町/竹之下村
日本歴史地名大系
行する過所(手形)を必要とした(同年九月一九日「太政官符」類聚三代格)。「将門記」によると、平将門は足柄・碓氷の両関を防御して坂東に独立国をうちたてようとする構
31. 足柄関
世界大百科事典
稍絶〉と報告している。この関の通過には諸司諸国発行の過所(関所通行の許可書)が必要であった。平将門が“新皇”と称して坂東に君臨した際には,足柄・碓氷の二関が固め
32. あしがらのせき【足柄関】
国史大辞典
翌三年相模国の申請で過所によって通行を認めるように定めている。『将門記』には、天慶二年(九三九)平将門が坂東を守るには足柄・碓氷の二関を固めればよいといったこと
33. あしがらのせき【足柄関】神奈川県:南足柄市/矢倉沢村地図
日本歴史地名大系
により過所をもって通行を認めるよう定められた。「将門記」によれば天慶二年(九三九)に蜂起した平将門は坂東への朝廷軍の来攻に対して足柄・碓氷の二関の固守を命じたと
34. あしづむら【蘆津村】鳥取県:八頭郡/智頭町
日本歴史地名大系
置し、集落はおもに北岸に形成されている。葦津とも書き、枝村に倉谷・堂本などがある(因幡志)。平将門の乱後、将門に味方した大呂・綾木・寺谷・中内の四氏が落人となっ
35. あずさわむら【小豆沢村】東京都:板橋区地図
日本歴史地名大系
中山道が通る。当村の龍福寺薬師の縁起によると、かつて荒川の入江の傍らに七々子崎という湊があり、平将門が東国を押領していた頃に貢ぎ物の小豆を積んだ船がこの入江に沈
36. あずまひゃっかん【東百官】
国史大辞典
れたので、これらを令制の官名や百官名と区別して東百官と呼んだ。なお俗説に、東百官は平安時代に平将門が関東で自立を企てた時に制定したといわれ、相馬百官とも呼ばれた
37. あそじんじや【阿蘇神社】東京都:羽村市/羽村地図
日本歴史地名大系
ほかに九座の配祀がある。社記によると、推古天皇九年(六〇一)の創建と伝える。一説に承平年間(九三一―九三八)平将門が造営したとも、将門を討った藤原秀郷が再興した
38. あたごじんじゃ【愛宕神社】茨城県:北相馬郡/守谷町/守谷町
日本歴史地名大系
西林寺南方に鎮座。祭神軻遇突智命。配神奥津彦神・奥津彦姫命神。旧村社。天慶年間(九三八―九四七)平将門が創建したと伝えられる。三代守谷藩主土岐頼行が再建。毎年旧
39. あだちく【足立区】東京都地図
日本歴史地名大系
立遠元は、頼朝から足立郡郷支配を承認された(「吾妻鏡」同年一〇月八日条)。足立氏は一〇世紀の平将門の乱に登場する足立郡司武蔵武芝の後裔と推定され、古代末期から同
40. あだちぐん【足立郡】
国史大辞典
う記事である。『西角井系図』によると、西角井家は、大化改新以来代々足立郡の郡司の家であった。平将門の乱に活躍する「足立郡司判官代」の武芝は、不破麻呂の後裔である
41. あだちぐん【足立郡】埼玉県:武蔵国
日本歴史地名大系
」に記されていることも、武蔵宿禰一族が中央と深くかかわっていたことを裏付けている。一〇世紀に平将門と行動をともにする足立郡司武蔵武芝もこの一族につながり、武芝は
42. あなぼらむら【穴洞村】岐阜県:郡上郡/高鷲村
日本歴史地名大系
。明治八年正ヶ洞村など三ヵ村と合併して大鷲村となる。当地にあった白山神社は、下総国の平良忠が平将門の乱を逃れ、当地に居住して創建したという。
43. あねさきじんじゃ【姉崎神社】千葉県:市原市/姉崎村地図
日本歴史地名大系
正五位下を授けられた。同八年には正五位上となっている(同書同年七月一五日条)。天慶三年(九四〇)平将門の乱では将門降伏の祈願を修したため、朱雀天皇より剣一口が奉
44. 我孫子[市]
世界大百科事典
が急増している。台地に子の神山古墳群(60基)があり,湖北駅近くに将門の石井戸や将門神社など平将門に関する史跡が多い。明治~昭和初期には南に手賀沼を望むこの地を
45. あまぎゆがしまちょう【天城湯ヶ島町】静岡県:田方郡
日本歴史地名大系
伊豆国で造らせた船を枯野船といい、当町軽野神社付近で造られたと伝承される。天慶三年(九四〇)平将門の乱で功績のあった藤原為憲が駿河守に任じられ、狩野氏など子孫が
46. 荒俣宏
日本大百科全書
図鑑、読書日記……とありとあらゆるジャンルの研究成果が報告されている。 また帝都東京の大地霊平将門の怨霊を呼び覚ますことにより、東京に大崩壊をもたらそうとする魔
47. あわのくに【安房国】千葉県地図
日本歴史地名大系
紛争事件を引起すことが少なくなかったが、その最大のものは承平・天慶の乱を起こした下総国の住人平将門であろう。安房国とこの乱との関係は不明であるが、「将門記」によ
48. あんらくじ【安楽寺】茨城県:龍ケ崎市/河原代村
日本歴史地名大系
文で、四分の三は高割、残りは戸数割で河原代村全戸に割当てられている。なお当寺の近くの供養塔は平将門に敗れた平国香のものといわれる。
49. いいぶちむら【飯淵村】茨城県:西茨城郡/岩瀬町
日本歴史地名大系
その他一であった。香取前に旧村社香取神社があり、万治二年と享保一二年(一七二七)に社殿を再建。また堂の入に平将門の墓と伝える五輪塔がある。
50. いいやまむら【飯山村】栃木県:宇都宮市
日本歴史地名大系
市市)、東は篠井村、南は小池村と接する山村で、形は茄子に似て北は細く南が丸い。承平の乱に際し平将門が当地を兵糧所となしたため飯盛山と称し、これが村名となったと伝
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真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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武田勝頼(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五四六-八二戦国・安土桃山時代の武将。甲斐の武田信玄の四男。母は諏訪頼重の娘。天文十年(一五四一)六月、父晴信(信玄)が武田家当主となり、翌十一年信濃国諏訪郡を攻め、諏訪頼重を誅殺した際、その娘を側室として同十五年勝頼が生誕した。四男なので諏訪氏の
松平広忠(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五二六-四九戦国時代の三河国の武将。徳川家康の父。千松丸、仙千代、次郎三郎。父は清康、母は青木貞景女。大永六年(一五二六)岡崎生まれ。天文四年(一五三五)十二月に清康が尾張守山で死んだ時は十歳。織田信秀の来襲は撃退したが、桜井松平家の信定に追われて
松平信康(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五九-七九戦国時代の武将。竹千代、次郎三郎。永禄二年(一五五九)三月六日駿府で誕生。徳川家康の長男。母は関口義広女(築山殿)。桶狭間の戦後も駿府に抑留されていたが、同五年人質交換で母とともに岡崎へ引き取られた。六年三月、織田信長の女五徳(徳姫)と
平岩親吉(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五四二-一六一一戦国時代末期徳川家康に仕えた武将で、江戸時代初頭に譜代大名となる。天文十一年(一五四二)三河国に生まれる。父は松平宗家譜代の親重。母は天野清右衛門貞親の女。幼時より徳川家康に仕え、家康が幼名竹千代のころ、人質として駿府の今川義元のも
鳥居元忠(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五三九-一六〇〇戦国・安土桃山時代の武将。天文八年(一五三九)生まれ。鳥居忠吉の子で、徳川家康が今川氏の人質となったとき駿府に随従し,のち,家康の三河統一、遠江経略の戦に従軍する。元亀三年(一五七二)の三方原の戦で負傷して跛になったという。天正十年
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