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  11. 藤原基経

藤原基経

ジャパンナレッジで閲覧できる『藤原基経』の日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

藤原基経
ふじわらのもとつね
[836―891]

平安前期の官僚。藤原長良 (ながら)(良房 (よしふさ)の兄)の第3子で、母は藤原乙春 (おとはる)。藤原良房の養子となり、養父を継いで氏長者 (うじのちょうじゃ)となり、いわゆる藤原摂関家隆盛の基礎をつくりあげた。851年(仁寿1)に16歳で文徳 (もんとく)天皇から加冠されて元服し、858年(天安2)に即位した清和 (せいわ)天皇のもとで蔵人頭 (くろうどのとう)となり、864年(貞観6)には29歳で参議となった。2年後の「応天門の変」では源信 (まこと)の無実を伝え、伴善男 (とものよしお)が失脚したのち、7人を抜いて中納言 (ちゅうなごん)となり、872年には正三位 (しょうさんみ)右大臣となった。ときに37歳。その政治は良房の先例を法的に整合性をもった体系として位置づけようとした点にあり、後世に先例として尊重された。基経が形式を重んじた理由もこれと無縁ではあるまい。良房の死(872)後、摂政 (せっしょう)となったとする史料もあるが、後世の付会であろう。876年陽成 (ようぜい)天皇に譲位するにあたって清和天皇は良房の例にならって摂政となるように詔 (みことのり)している。

 880年(元慶4)太政 (だいじょう)大臣に任ぜられたが、その職掌に疑義をもっていたらしく固辞し、基経の出仕しない日も多かったらしい。4年後言動に問題のあった陽成天皇を廃位し、光孝 (こうこう)天皇を擁立したが、新天皇は基経に万機をゆだねる旨の詔を出したことにより、実質上の関白となった。887年(仁和3)宇多 (うだ)天皇の即位にあたって基経に与えた関白の詔の文字をめぐって起こった阿衡 (あこう)事件は基経の政治姿勢を象徴している。890年(寛平2)准三宮 (じゅさんぐう)となる。翌年正月13日に没し、正一位・昭宣公が贈られ、越前 (えちぜん)に封ぜられた。菅原道真 (すがわらのみちざね)らとも交わり、『日本文徳天皇実録』の編纂 (へんさん)にも携わった。

[佐藤宗諄]



世界大百科事典

藤原基経
ふじわらのもとつね
836-891(承和3-寛平3)

平安初期の官人。堀河大臣とも称された。藤原長良の三子で,母は藤原乙春。のち良房の養子となり,養父のあとをうけて氏長者として藤原北家の隆盛を画した。851年(仁寿1)16歳のときに文徳天皇から加冠されて元服し,蔵人,左兵衛佐,少納言,侍従などを経て,清和天皇が即位した直後の858年(天安2)10月に蔵人頭となった。ついで864年(貞観6)29歳で参議となり,翌々年の応天門の変では,父良房とともに政敵伴善男を失脚させることに成功し,その年12月には従三位となり7人を超えて中納言となった。ついで左大将,大納言を経て,872年太政大臣藤原良房の死の直前に正三位右大臣となった。良房の死後〈摂政〉となったとする記録もあるが,後世の観念にもとづく述作であろう。しかし876年清和天皇は陽成天皇に譲位するにあたって,基経に良房の先例にならって幼主を保輔して〈摂政〉とすることを詔している。ついで880年(元慶4)12月,清和上皇の没日に,〈摂政〉に相当する官職として太政大臣に任ぜられた。しかしその職掌が不明確なこともあって,基経は固辞して出仕しない日も多かったようである。884年基経は陽成天皇を廃位して光孝天皇を擁立し,新天皇は基経に万機をゆだねる旨の詔を出し,実際には〈関白〉と同様な立場にたった。基経の言動には形式を重視したものが多いが,887年(仁和3)宇多天皇が即位にあたって基経に与えた〈関白〉の詔を契機に起こった阿衡(あこう)事件は,基経の政治意識を象徴するものとしても注目される。890年(寛平2)准三宮となったが年末には病を理由に辞表を出し,翌年正月に没し,正一位が追贈され,昭宣公と諡(おくりな)された。この間《日本文徳天皇実録》の編纂にもかかわった。
[佐藤 宗諄]

[索引語]
堀河大臣(藤原基経) 応天門の変 昭宣公
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検索コンテンツ
1. 藤原基経
日本大百科全書
平安前期の官僚。藤原長良ながら(良房よしふさの兄)の第3子で、母は藤原乙春おとはる。藤原良房の養子となり、養父を継いで氏長者うじのちょうじゃとなり、いわゆる藤原
2. 藤原基経
世界大百科事典
諡(おくりな)された。この間《日本文徳天皇実録》の編纂にもかかわった。佐藤 宗諄 堀河大臣(藤原基経) 応天門の変 昭宣公
3. ふじわら‐の‐もとつね【藤原基経】
日本国語大辞典
平安前期の公卿。太政大臣。関白。通称、堀河太政大臣。父は長良。母は総継の娘。叔父良房の養子となる。応天門の変で伴善男を失脚させ、貞観一四年(八七二)良房の後をつ
4. ふじわらのもとつね【藤原基経】画像
国史大辞典
八三六―九一 平安時代前期の摂政・関白。諡昭宣公。堀川太政大臣と号す。承和三年(八三六)生まれる。藤原長良の三男、叔父良房の養嗣子。母は同総継女乙春。同母妹高
5. 藤原基経
日本史年表
882年〈元慶6 壬寅⑦〉 2・1 藤原基経 を准三宮とする(三実)。 887年〈仁和3 丁未⑪〉 11・21 藤原基経 を関白とする.翌月26日、基経、上表
6. ふじわらの-もとつね【藤原基経】
日本人名大辞典
836−891 平安時代前期の公卿(くぎょう)。承和(じょうわ)3年生まれ。北家藤原長良(ながら)の3男。叔父良房の養嗣子。右大臣をへて,元慶(がんぎょう)4年
7. 藤原基経[文献目録]
日本人物文献目録
【逐次刊行物】:5件 『藤原良房と基経』坂本太郎『藤原基経』田口卯吉『藤原基経阿衡に就て』和田英松『藤原基経の室家』角田文衛『藤原基経の廃立』和田英松『藤原基経
8. 藤原基經(ふじわらもとつね)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 1571ページ
9. 藤原基經五十賀 (見出し語:藤原基經)
古事類苑
禮式部 洋巻 第1巻 1409ページ
10. 藤原基經廢陽成光孝 (見出し語:藤原基經)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 1591ページ
11. 藤原基經建極樂寺 (見出し語:藤原基經)
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 977ページ
12. 藤原基經爲攝政 (見出し語:藤原基經)
古事類苑
官位部 洋巻 第1巻 538ページ
13. 藤原基經爲關白 (見出し語:藤原基經)
古事類苑
官位部 洋巻 第1巻 575ページ
14. 藤原基經諡號 (見出し語:藤原基經)
古事類苑
封祿部 洋巻 第1巻 59ページ
15. 藤原基經賜度者 (見出し語:藤原基經)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 1537ページ
16. 藤原基經關白萬機 (見出し語:藤原基經)
古事類苑
官位部 洋巻 第1巻 565ページ
17. 藤原基経自署[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
18. 藤原基經奉光孝天皇 (見出し語:光孝天皇)
古事類苑
器用部 洋巻 第2巻 95ページ
19. 橘廣相草藤原基經勅答文 (見出し語:橘廣相)
古事類苑
官位部 洋巻 第1巻 565ページ
20. 阿衡事件
日本大百科全書
一事件。887年(仁和3)宇多うだ天皇が即位すると、その擁立に功績のあった太政だいじょう大臣藤原基経もとつねに関白の任を与えることになった。その際、天皇の近臣で
21. 阿衡事件
世界大百科事典
,藤原氏の勢力抑制をはかった。これら事件の経緯は,《政事要略》によって知られる。目崎 徳衛 藤原基経 橘広相 宇多天皇
22. あこう‐じけん[アカウ‥]【阿衡事件】
日本国語大辞典
仁和三年(八八七)宇多天皇即位の際、藤原基経を関白に任じた勅書中の字義の解釈が原因で起きた事件。慣例により辞退した基経に「宜しく阿衡の任を以て卿の任となすべし」
23. あこうのふんぎ【阿衡の紛議】
国史大辞典
ら翌四年十月にわたる政争。仁和三年十一月、宇多天皇は即位式をあげ、その直後、時の摂政太政大臣藤原基経に対して「それ万機巨細(中略)みな太政大臣に関白し然る後に奏
24. 阿衡の紛議
日本史年表
887年〈仁和3 丁未⑪〉 閏11・27 橘広相起草の勅答で藤原基経を再度関白とするが、勅答で用いられた「阿衡の任」には職掌がないとして基経は出仕を停め、政務
25. 在原業平画像
日本大百科全書
『伊勢物語』『古今集』によって形成される業平像の事蹟じせきや和歌として有名なものをあげると、関白藤原基経もとつねの妹で清和せいわ天皇女御にょうごになった二条后高
26. 在原業平
世界大百科事典
女のもとに通ったこと,母が長岡に住んでいたこと。阿波介として任国に下る紀利貞を送るため,また藤原基経の四十の賀のために歌をよんだこと。業平の家にいた女に藤原敏行
27. ありわらのなりひら【在原業平】
日本架空伝承人名事典
紀有常の女のもとに通ったこと、母が長岡に住んでいたこと。阿波介として任国に下る紀利貞を送るため、また、藤原基経の四十の賀のために歌をよんだこと。業平の家にいた女
28. あわた【粟田】京都市:東山区/粟田口村
日本歴史地名大系
也」とあるもので、染殿は清和院と同じで藤原良房邸、そして当地にあった藤原基経の別邸が粟田院である。また「後撰集」には、 粟田の家にて人に遣はしける 兼輔朝臣足引
29. あわたごう【粟田郷】京都市:山城国(京都市域)郡郷/愛宕郡
日本歴史地名大系
別業も平安時代初期からみられ、坂上田村麻呂は粟田別業で死去しているし(「日本後紀」弘仁二年五月二三日条)、藤原基経(「三代実録」元慶四年一一月二五日条)・藤原道
30. あわたのいん【粟田院】
国史大辞典
清和上皇の居所。はじめ藤原基経の山荘。元慶三年(八七九)上皇は清和院よりここに移って出家、寺として円覚寺と称した。翌年十二月上皇はここで没。翌五年三月同寺を官
31. 伊勢
世界大百科事典
う。父藤原継蔭は伊勢守等を歴任した受領であった。伊勢は宇多天皇の中宮温子(関白太政大臣昭宣公藤原基経の三女)に仕えた。伊勢と温子との仲は睦まじかったらしい。若い
32. 伊勢物語 119ページ
日本古典文学全集
文徳天皇女御で、清和天皇の生母。「女御」は、後宮の女官で、天皇の御寝所に侍する。中宮の下、更衣の上の地位。藤原基経。長良の子で、長良の弟良房の養嗣子。摂政関白太
33. 伊勢物語 199ページ
日本古典文学全集
本段には、昔ありける男の歌が出ず、男は天の逆手を打って呪う姿で出てくるのも特異である。〔九七〕 藤原基経。→一一九ページ注一一。「おほいまうちぎみ」は大臣。四十
34. いなの【為奈野】兵庫県:川西市
日本歴史地名大系
孝天皇)に為奈野が遊猟地として与えられ(同書同年八月一日条)、仁和元年(八八五)には太政大臣藤原基経の狩鳥野となっている(同書同年正月一三日条)。その際百姓の樵
35. いなののまき【為奈野牧】
国史大辞典
現在の兵庫県伊丹市を中心とする地域。貞観十五年(八七三)時康親王に、ついで仁和元年(八八五)太政大臣藤原基経に遊猟地として与えられたが、その際百姓の樵蘇放牧は認
36. いなののまき【為奈野牧】兵庫県:伊丹市
日本歴史地名大系
猪名川と武庫川に挟まれた伊丹台地上の為奈野は高燥で水田開発が遅れていたと思われ、仁和元年(八八五)太政大臣藤原基経の狩鳥地となった際、百姓の樵蘇放牧は旧によって
37. 浮世物語(仮名草子集) 123ページ
日本古典文学全集
墨染桜と称され、墨染寺にあったと伝える。「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け」(古今・哀傷)。藤原基経の死を悼んだ上野岑雄の歌で、墨染桜の名の由来に
38. 宇治拾遺物語 55ページ
日本古典文学全集
延喜十五年(九一五)鎮守府将軍。さらに武蔵守を歴任。生没年未詳。摂政・関白の異称。具体的には、一説に藤原基経(八三六~八九一)が擬せられている。毎年正月に行なわ
39. 宇治拾遺物語 139ページ
日本古典文学全集
左少将滋幹と権中納言敦忠を産んだ筑前守藤原棟梁の娘をいうか。『本院侍従集』の作者の歌人とは別時代の人。藤原基経の娘、穏子(八八五~九五四)。醍醐天皇の皇后で、朱
40. 宇治拾遺物語 469ページ
日本古典文学全集
せっかくの風流の楽しみを台なしにした失敗譚。底本「堀川兼道公」とするが、『今昔』巻一四―三五話の藤原基経が史実に合う。基経(八三六~八九一)は摂政良房の養嗣子。
41. うじりょう【宇治陵】京都府:宇治市/木幡村
日本歴史地名大系
[現]宇治市木幡 木幡一帯に散在する陵墓群の総称。この地は九世紀後半に藤原基経によって一門の墓所と定められたと伝え、木幡寺鐘銘并序(政事要略)に「元慶太政大臣昭
42. 宇多天皇
日本大百科全書
887年(仁和3)光孝天皇の病があつくなったとき、天皇の意をくんだ太政大臣だいじょうだいじん藤原基経もとつねの推挙を受け、皇太子となり、ついで践祚せんそした。8
43. 宇多天皇
世界大百科事典
仁和3)親王となり,帝位を継いだ。即位の直後,これまでの政治的実権を失うことを恐れた太政大臣藤原基経との間に,阿衡(あこう)事件と呼ばれる権力争いが起こり,これ
44. うだてんのう【宇多天皇】
国史大辞典
同八年四月十三日、他の皇子女とともに臣籍に降り、源朝臣姓を賜わったが、光孝天皇崩御の直前、天皇の意を察した藤原基経の推挙で、仁和三年(八八七)八月二十五日親王、
45. うだてんのう【宇多天皇】
日本人名大辞典
貞観(じょうがん)9年5月5日生まれ。光孝天皇の第7皇子。母は班子(はんし)女王。父の死で即位。藤原基経(もとつね)を関白とする詔勅をめぐる政争(阿衡(あこう)
46. うだてんのう【宇多天皇】
日本架空伝承人名事典
八八七年(仁和三)親王となり、帝位を継いだ。即位の直後、これまでの政治的実権を失うことを恐れた太政大臣藤原基経との間に、阿衡(あこう)事件と呼ばれる権力争いが起
47. うわぐん【宇和郡】愛媛県:伊予国
日本歴史地名大系
「和名抄」所載の古代伊予国一四郡の一。流布本に「宇和」と記し、訓を欠く。郡内に石野・石城・三間・立間の四郷があった(和名抄)。江戸時代の宇和郡よりも狭く、矢野・
48. うんりんいん【雲林院】[能曲名]
能・狂言事典
世阿弥か(ただし古作の改作らしい) 四番目物・執心男物・太鼓物 前ジテ・所の老人・[着流尉出立]後ジテ・藤原基経の霊・[法被半切怪士(あやかし)出立か]後ヅ
49. 雲林院(うんりんいん 能)
日本大百科全書
美しい叙情を舞う後段が現行の形である。世阿弥自筆本が残されているが、後半に二条の后と、その兄の藤原基経もとつねが鬼の姿で現れる全然違った内容で、中世に流行した『
50. 栄花物語 155ページ
日本古典文学全集
→二五ページ注二二、三七ページ注二八。→〔一〕。彰子、妍子と、道長女が二代続けて后となった。藤原基経の女温子と穏子が宇多帝、醍醐帝の后となっているが、温子の立后
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