NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
ジャパンナレッジは約1900冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 歴史上の人物
  8. >
  9. 日本史上の人物
  10. >
  11. 倭の五王

倭の五王

ジャパンナレッジで閲覧できる『倭の五王』の日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

倭の五王
わのごおう

中国史料にその名が伝えられた5世紀の5人の倭国王。『宋書 (そうじょ)』と『南史』では讃 (さん)・珍 (ちん)・済 (せい)・興 (こう)・武 (ぶ)、『梁書 (りょうしょ)』では賛・彌・済・興・武と記す。しかし、讃と賛は音通、珍と彌も一見文字の違いは大きいが、珍↔珎↔弥↔彌などの字形の類似から生じた誤写にすぎず、いずれも同一の王をさすとみてよい。

 倭の五王と中国王朝との交渉は421年(永初2)の讃の宋への遣使に始まる。宋はこの遣使を喜び、讃に「除授」を賜った。このとき、讃が授けられた官爵号は史料に明記されていないが、その後の倭王の例からみると安東将軍・倭国王であった可能性が濃い。3世紀の「親魏倭王」以来、約1世紀の空白ののち、ここにふたたび「倭国王」が誕生したことになる。なお、宋は前年の王朝創建時に周辺諸国王の将軍号を進め、高句麗 (こうくり)王や百済 (くだら)王もその地位を進められたが、倭国王はこの昇進にあずからず、翌年、遣使して初めて任官された。この違いは、宋の前王朝である東晋 (とうしん)との交渉の有無と関係があり、倭国が東晋と正式な交渉をもっていなかったことを物語る。

 将軍に任じられた倭国王讃は将軍府を設置し、僚属として長史・司馬 (しば)・参軍を置くことができるようになった。このうち長史は将軍の補佐で、文官をつかさどり、司馬は長史に次ぐ地位で、軍事に携わった。425年(元嘉2)讃が宋に派遣した「司馬曹達」は、当時の外交慣例からみて、この制度を利用したものである。つまり、司馬の曹達を遣宋使の長官に任じたことになる。これは、高句麗王や百済王が長史を遣宋使に任じたのと比べると倭国外交の一大特色であり、倭国王の外交姿勢を示すものとみることができる。なお、『宋書』には430年(元嘉7)の「倭国王」の遣使を伝えているが、この遣使も讃のものと考えられる。

 讃の死後、弟の珍がたつと、438年(元嘉15)、珍は自ら「使持節、都督倭・百済・新羅 (しらぎ)・任那 (みまな)・秦韓 (しんかん)・慕韓 (ぼかん)六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」と自称し、上表してこれらの官爵号の承認を宋に求めた。当時、百済王が宋から授けられた官爵号は「使持節・都督百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王」であるから、これと比較すると倭王の要求ははるかに広範囲なものであった。つまり、珍は倭国と百済を含めた南朝鮮諸国の軍事的支配権と倭国内部の正統王権の承認を求めたことになる。しかし、宋が許可したのは安東将軍・倭国王の称号のみであった。また、珍は同時に倭隋ら13人に平西将軍などの将軍号を仮授して、その任官を希望したが、これはそのまま認められた。なお、倭隋の「倭」は当時の倭国王の「倭讃」や「倭済」などと共通するものであり、「倭」は王姓、倭隋は王族ということになる。珍は王族将軍倭隋らを支持基盤として南朝鮮の軍事的支配に臨もうとしたのである。

 443年(元嘉20)倭国王倭済が遣使すると、宋朝は前例に倣い、済をまた安東将軍・倭国王に任じた。済はこの後、451年(元嘉28)に「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号され、軍号も「安東大将軍」に進められた。また、「并 (なら)びに上 (たてま)つる所の23人を軍郡に除」せられたという。これはおそらく前王の珍に倣ったものであり、済は自己の支配体制を支えるものとして23人もの大量の任官を願ったのであろう。なお、ここに出てくる「軍郡」とは、百済の事例から「将軍・郡太守」の意味である。これらの将軍・太守が活躍する地域は倭国王の称号と関係づけて考えてよかろう。『宋書』によると、こののち460年(大明4)にも倭国から遣使があったと伝えるが、このときの倭国王は済であったと思われる。

 済の死後、その世子の興が王位につき、462年(大明6)遣使すると、宋はまたこれを安東将軍・倭国王に任命した。『宋書』にはこののち、477年(昇明1)にも倭国からの遣使を伝えるが、これも興のものと思われる。興の死後、弟の武は「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王」と自称し、さらに開府儀同三司を称して、478年(昇明2)宋朝に遣使し、対高句麗戦を訴えた。宋はこの訴えに直接的にはこたえなかったが、武を「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」に任命した。この任官は従来の倭国王の最初の任官と比べれば飛躍的な発展であり、武の外交の成果とみることができる。こののち、武は479年(建元1)には南斉から鎮東大将軍に、502年(天監1)には梁 (りょう)から征東大将軍にそれぞれ将軍号を進められた。だが、これらの進号は武の直接的な外交とは関係のないもので、いずれも王朝の創立時の祝賀的任官と考えられる。したがってこれらの任官をもとにして武の在位期間を考えることはできない。

 5世紀の倭国王の対中交渉は武の遣使を最後にして史上から姿を消した。その理由はかならずしも明らかではないが、一つには倭国王が対中交渉の限界に気づいたことにある。

 なお、倭の五王を『日本書紀』の伝える天皇に比定し、讃を応神 (おうじん)・仁徳 (にんとく)・履中 (りちゅう)、珍を反正 (はんぜい)、済を允恭 (いんぎょう)、興を安康 (あんこう)、武を雄略 (ゆうりゃく)などにあてることが多い。しかし、比定の論拠となっている年時・系譜ともに問題があり、なお慎重な検討が必要である。

[坂元義種]



世界大百科事典

倭の五王
わのごおう

5世紀に中国南朝と交渉をもった5人の倭国王。倭の五王と中国南朝との交渉は,421年,倭讃が宋に使者を派遣したことから始まった。宋の武帝は倭讃の朝貢を喜び,これを任官した。任官内容は不明であるが,のちの例から見ると,倭讃はこのとき,安東将軍・倭国王という官爵号を授けられたものと思う。讃は,こののち,425年,司馬曹達を派遣して国書を送った。この司馬が官か姓か論が分かれているが,当時の東アジアの外交事例からみて,将軍の属官で軍事にたずさわった司馬と考えてよかろう。《宋書》は,430年にも〈倭国王〉が使者を送ったと記しているが,これも倭讃の遣使と考えられる。讃の死後,弟の珍が立ち,438年,使者を派遣して国書を送った。珍はこの国書の中で,使持節・都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と自称して,この官爵号を授けて欲しいと願い出た。しかし,この希望はかなえられず,安東将軍・倭国王に任じられるにとどまった。なお,珍はみずからが,官爵号を希望しただけではなく,倭隋ら13人にも平西・征虜・冠軍・輔国の各将軍号を授けて,彼らをこれらの将軍に任命して欲しいと願い,この希望は許されている。

 443年,済が遣使すると,文帝はこれを前王と同じ安東将軍・倭国王に任命した。451年,済はふたたび使者を派遣し,国書を送った。この遣使が効を奏したのか,済は使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事の官号を加えられ,《宋書》文帝紀によれば軍号も安東大将軍に進められた。なお,このとき,済が願い出た23人に対する〈軍・郡〉の要求も認められている。〈軍・郡〉とは将軍号と郡太守号のことである。《宋書》によると,460年にも倭国の遣使があったとするが,これも済の派遣したものであろう。済の死後,世子の興が立ち,使者を派遣すると,これを喜んだ孝武帝は,462年,興を安東将軍・倭国王に任命した。

 興の死後,弟の武が立ち,使持節・都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と自称し,478年,使者を派遣して,国書を送った。これが有名な〈武の上表文〉である。〈封国(ほうこく)は偏遠(へんえん)にして外に藩となる。昔より祖禰(そでい),躬(みずか)ら甲冑(かつちゆう)を擐(つらぬ)き,山川を跋渉(ばつしよう)して寧処(ねいしよ)に遑(いとま)あらず。東の方,毛人五十五国を征し,西の方,衆夷六十六国を服す。渡りて海北九十五国を平らぐ。王道,融泰(ゆうたい)にして,土を廓(ひろ)げ,畿(き)を遐(はるか)にす。累葉(るいよう),朝宗(ちようそう)して,歳(とし)に愆(あやま)らず〉と記していく。武は,倭国が宋の忠実な臣属国として代々朝貢を欠かさなかったと主張し,みずからも宋の藩臣として朝貢するのだという。この上表文によると,倭国の対宋外交は百済経由で行っていたが,高句麗の妨害にあって思うようにいかなくなり,倭国は対高句麗戦を計画したという。この計画は武の父の済が立て,武はこれを継承するのだという。したがって,478年の武の対宋外交は対高句麗戦を前提にしたものということになる。武が宋に求めたものは,開府儀同三司などの官号であった。宋の順帝は開府儀同三司の官号は許さなかったが,武を使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王に任命した。これは従来の倭国王が与えられた官爵号よりはるかに高位のものであった。倭の五王の中で最初の任官時に使持節・都督の加号や安東大将軍の軍号を認められたのは,この武が初めてである。武はこののち,479年に鎮東大将軍,502年に征東大将軍と,それぞれ軍号を進められているが,これらはいずれも南斉や梁の建国の年であるから,それぞれが新王朝の樹立を祝って武の将軍号を進めたものと思われる。したがってこの両年の任官をそれぞれの遣使と結び付けることは無用である。

 倭の五王の対宋外交の目的は,必ずしも明らかではないが,ほぼ一貫して認められることは宋に対する任官要請である。倭国王はみずからを宋の皇帝の忠実な藩臣と位置づけることで宋の歓心を買い,百済を中心とする南朝鮮の軍事的支配権を認めてもらおうとした。しかし,倭国王の要請は,宋側の国際的関心・認識と一致しなかったために,結局,宋の認めるところとならなかった。宋を中心とする国際社会にあっては,倭国王よりも百済王のほうが国際的地位が高く,高句麗王はさらに高かった。宋の最大の関心事は北魏との対決であり,高句麗は北魏包囲網の最重要国である。高句麗との対決を主張する倭国王の要請がそのままでは認められなかったのも当然である。倭国王は宋に依存して南朝鮮の軍事的支配権を認めてもらい,高句麗と対決するという道を捨てざるをえなかった。こうして倭国王は中国南朝との交渉を絶った。

 なお,倭の五王を,讃は仁徳,履中または応神,珍は反正または仁徳,済は允恭,興は安康,武は雄略などと諸天皇と結び付けるさまざまな試みがなされているが,年次・系譜ともに問題が多く,慎重な検討が必要である。
[坂元 義種]

[索引語]
倭国王 讃(人名) 珍 済 興 武 武の上表文
上記は、日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書サービス「ジャパンナレッジ」のサンプル記事です。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。


倭の五王の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 92
※検索結果は本ページの作成時点のものであり、実際の検索結果とは異なる場合があります
検索コンテンツ
1. わ の 五王(ごおう)
日本国語大辞典
中国の史書の「宋書‐倭国伝」などにみえる五人の倭の国王。五世紀中、南朝に対して使いを送り、方物を貢献したという讚・珍・済・興・武のこと。それぞれ天皇の名を中国的
2. 倭の五王
日本大百科全書
、珍↔珎↔弥↔彌などの字形の類似から生じた誤写にすぎず、いずれも同一の王をさすとみてよい。 倭の五王と中国王朝との交渉は421年(永初2)の讃の宋への遣使に始ま
3. 倭の五王画像
世界大百科事典
5世紀に中国南朝と交渉をもった5人の倭国王。倭の五王と中国南朝との交渉は,421年,倭讃が宋に使者を派遣したことから始まった。宋の武帝は倭讃の朝貢を喜び,これを
4. わのごおう【倭の五王】
国史大辞典
その確定にはなお慎重な検討が必要である。 [参考文献]笠井倭人『研究史倭の五王』、坂元義種『古代東アジアの日本と朝鮮』、同『倭の五王―空白の五世紀―』、小尾孟夫
5. 飛鳥時代
世界大百科事典
581年中国において隋による統一国家が実現し,東アジアの情勢が変化したのを契機に,日本の対外政策は転換し,倭の五王以来約1世紀の間中絶していた中国との国交が再開
6. あんこうてんのう【安康天皇】
国史大辞典
また書紀には外交関係記事のないのが特色である。いずれにせよ、五世紀半ばの在位は確実と思われる。→倭の五王(わのごおう) (平野 邦雄) 菅原伏見西陵(すがわらの
7. あんとうしょうぐん【安東将軍】
国史大辞典
請求したが認められず、昇明二年(四七八)倭王武に至って、自称のとおり安東大将軍が認められた。→倭の五王(わのごおう) [参考文献]『宋書』百官志・夷蛮伝 (末松
8. いちのべのおしはのおうじ【市辺押磐皇子】
国史大辞典
命」などとあり、即位説もあるが、この称号は後世皇子を尊んでの追号であろう。五世紀の大和朝廷は倭の五王たちが盛んに対外交渉をした時代だが、反面朝廷内部では外戚葛城
9. いんぎょう‐てんのう[‥テンワウ]【允恭天皇】
日本国語大辞典
みこと)。「古事記」によれば大和遠飛鳥宮(やまととおつあすかのみや)に都を定めた。「宋書」の倭の五王の「済」にあたるとされている。イン
10. いんぎょうてんのう【允恭天皇】
国史大辞典
年を四四三年にあてる説は、「大王」を允恭、「男弟王」を大草香皇子とするがこれは疑問である。→倭の五王(わのごおう) [参考文献]水野祐「隅田八幡神社所蔵鏡銘文の
11. 応神天皇
世界大百科事典
記されているなど,原帝紀に記載されていた可能性がつよく,現実性あるものとみなされ,《宋書》の倭の五王のはじめの讃(さん)を応神か仁徳にあてる説もあり,また応神紀
12. おうじんてんのう【応神天皇】画像
国史大辞典
いることなども考え合せて、応神朝を河内から出た新王朝とみる説も出されている。『宋書』にみえる倭の五王の最初の倭王讃を応神天皇とする説もあるが、もし讃が次代の仁徳
13. おうじんてんのう【応神天皇】
日本架空伝承人名事典
応神天皇からは諱が記されているなど、原帝紀に記載されていた可能性がつよく、現実性あるものとみなされ、『宋書』の倭の五王のはじめの讃(さん)を応神か仁徳にあてる説
14. かいこういぜん【開港以前】 : 日朝関係
国史大辞典
この間に中国では、五胡十六国・南北朝を経て、隋(五八一年)・唐(六一八年)の成立をみる。南北朝の宋には倭の五王が入貢して冊封をうけたが、五世紀後半から一世紀余り
15. かいのくに【甲斐国】山梨県
日本歴史地名大系
となっているのも、そうした史実を反映しているものかもしれない。しかしその後の一世紀、いわゆる倭の五王の時代に、ヤマトの王権の地方政権に対する優位の態勢は着々進み
16. かんじ【漢字】
国史大辞典
読書人の専有物であった漢字を、はじめて庶民が手中に収めたのである。 〔日本および周辺国家への影響〕 日本では倭の五王のころ、大和朝廷の権力を確立するために中国江
17. がいこう【外交】
国史大辞典
日本の主権者が中国皇帝から日本国王として冊封を受けて君臣の関係を結んだのは、南朝の宋に対する倭の五王の場合と明に対する足利政権の場合であるが、隋・唐に対する場合
18. 帰化人
世界大百科事典
に入ったころから,中国の南朝文化の影響を受けた百済人や任那人などが渡来するようになり,また〈倭の五王〉の南朝通好に伴って中国から直接に渡来する人,さらに6世紀中
19. きかじん【帰化人】
国史大辞典
ところがこれに対して五世紀後半から中国の南朝文化を身につけた百済・任那人などが渡来するようになり、また倭の五王の南朝通好に伴って直接に南朝からごく少数の中国人の
20. 記紀批判
世界大百科事典
一方,応神以降の帝紀の内容・系譜は,後世の籍帳などにみえる御名代(みなしろ)(王名をつけた部)の存在や倭の五王の比定などにより,信じられると考えられてきた。近年
21. 紀年論
世界大百科事典
考えられるからである。したがって那珂説で得られた神功,応神朝の年代を定点に各崩年干支を配分,倭の五王の比定とも勘案して天皇の在位年数を推定するのが,その後の紀年
22. きんせい【近世】 : 日中関係
国史大辞典
ぶんろく・けいちょうのえき),→明(みん),→邪馬台国(やまたいこく),→倭寇(わこう),→倭の五王(わのごおう)
23. 百済(くだら 朝鮮)画像
日本大百科全書
分封した。地方住民への権威づけのため、宋そう(南朝)などに、王だけでなく家臣の称号を求めた。このとき倭の五王が宋に求めた軍号は、百済王のそれよりつねに低位で、倭
24. 呉(くれ 中国)
世界大百科事典
内容とは著しく違っているが,そこに日本の対中交渉の残像がうかがえることはほぼ誤りあるまい。→倭の五王坂元 義種 呉氏 句呉 高句麗
25. くれ【呉】
国史大辞典
るように思われるが、いずれにせよ五世紀には江南地方との通交が密であったらしい。→呉(ご),→倭の五王(わのごおう) (黛 弘道)
26. くれ【呉】 : 呉/(二)
国史大辞典
るように思われるが、いずれにせよ五世紀には江南地方との通交が密であったらしい。→呉(ご),→倭の五王(わのごおう)
27. 遣隋使画像
世界大百科事典
大和朝廷と中国の王朝との公式な交渉は〈倭の五王〉時代からあった明証が中国の史籍に見いだされる。このころの交渉には多かれ少なかれ,朝鮮半島における外交問題を伴って
28. こう【興】
国史大辞典
倭の五王(わのごおう)
29. こだい【古代】画像
国史大辞典
四一三年になると『晋書』四夷伝に倭が東晋に朝貢したことがみえ、その後『宋書』夷蛮伝に讃・珍(弥)・済・興・武の倭の五王が、相ついで南朝の宋に使節を派遣したことが
30. こだい【古代】 : 日中関係
国史大辞典
楽浪・帯方二郡の消滅や、五胡十六国時代の紛争のため、両者の関係を示す記録はないが、五世紀になるといわゆる「倭の五王」の遣使の記録が『宋書』に残されている。これは
31. こだいこっか【古代国家】
国史大辞典
四・五世紀の古墳文化をいかに位置づけるか、『宋書』夷蛮伝倭国条(『宋書倭国伝』)などに登場する五世紀の倭の五王(讃・珍・済・興・武)の段階をどう評価するか、いわ
32. さい【済】
国史大辞典
倭の五王(わのごおう)
33. さくほう【冊封】
国史大辞典
利用する傾向があった。三世紀の邪馬台国女王卑弥呼が「親魏倭王」に封ぜられたことや、五世紀のいわゆる「倭の五王」が朝鮮半島に勢力を伸ばし、高句麗・新羅・百済の三国
34. さん【讃】
国史大辞典
倭の五王(わのごおう)
35. せっつのくに【摂津国】大阪府地図
日本歴史地名大系
朝鮮や中国の進んだ文物や渡来の人々も、多くはこの津を経由して畿内の地に受入れられたであろう。また倭の五王として中国の史書に知られる王たちの使者も、主として難波津
36. 宋(中国,南朝)
世界大百科事典
宋のこの外交政策からみたとき,倭国の利用価値はうすい。倭国王の地位の低さはここに原因があろう。→倭の五王坂元 義種 Sòng(宋,南朝) 劉裕 元嘉の治 蕭道成
37. そうしゅこく【宗主国】
国史大辞典
古くは邪馬台国女王卑弥呼が「親魏倭王」の称号をうけたのをはじめとし、中国の南北朝時代の宋のとき、倭の五王がそれぞれ冊封された例と、十五世紀の明のとき、足利義満が
38. 宋書倭国伝
世界大百科事典
と諸国の交渉記事に限定されている。倭国伝もこの特色をもち,ほぼ宋朝と倭国との交渉(いわゆる〈倭の五王〉の朝貢,それをふまえた宋朝による任官)記事で占められている
39. たいがいかんけい【対外関係】 : 古代
国史大辞典
四一三年になると『晋書』四夷伝に倭が東晋に朝貢したことがみえ、その後『宋書』夷蛮伝に讃・珍(弥)・済・興・武の倭の五王が、相ついで南朝の宋に使節を派遣したことが
40. ちゅうせい【中世】 : 日中関係
国史大辞典
両国の交易をその所持者のみに限定した(勘合貿易)。足利義満が中国の皇帝から冊封を受けたことは、五世紀の倭の五王以後はじめてのことであった。これによって倭寇はいっ
41. ちん【珍】
国史大辞典
倭の五王(わのごおう)
42. ちんとうだいしょうぐん【鎮東大将軍】
国史大辞典
倭の五王(わのごおう)
43. 貞丈雑記 3 332ページ
東洋文庫
近代としてそれらを除くことにする。もっとも、文字伝来以前も一世紀以来倭の諸王がしばしば中国に使者を派し、殊に倭の五王の屡次の上表の件は史実に明らかなところであり
44. てんのう【天皇】画像
国史大辞典
か、見解が多岐に分かれている。四世紀の倭の状況は中国の正史から窺えないが、『宋書』に五世紀の倭の五王、讃・珍(『晋書』では弥)・済・興・武が順次朝貢したとの記事
45. てんのうのきげん【天皇の起原】 : 天皇
国史大辞典
か、見解が多岐に分かれている。四世紀の倭の状況は中国の正史から窺えないが、『宋書』に五世紀の倭の五王、讃・珍(『晋書』では弥)・済・興・武が順次朝貢したとの記事
46. 長原(ながはら)遺跡[考古学]
情報・知識 imidas
この工房は4世紀末~5世紀初めに築造した方墳を壊して設置し、工房建物をコ字形の溝で囲っていた。大王(倭の五王)あるいはその配下の有力者が直轄して、朝鮮半島の最新
47. 南朝
世界大百科事典
寒門層あるいは寒人層の台頭がしだいにめだち,梁末に起こった侯景の乱はその趨勢を決定的にした。倭の五王が使者を派遣して交渉をもったのは,宋,斉,梁の南朝諸王朝であ
48. にっちゅうかんけい【日中関係】
国史大辞典
楽浪・帯方二郡の消滅や、五胡十六国時代の紛争のため、両者の関係を示す記録はないが、五世紀になるといわゆる「倭の五王」の遣使の記録が『宋書』に残されている。これは
49. にっちょうかんけい【日朝関係】
国史大辞典
この間に中国では、五胡十六国・南北朝を経て、隋(五八一年)・唐(六一八年)の成立をみる。南北朝の宋には倭の五王が入貢して冊封をうけたが、五世紀後半から一世紀余り
50. 日本(にほん)画像
世界大百科事典
人,倭王,倭賊などと記している。そこで大和政権の代表者も,中国と交渉するときには,5世紀の〈倭の五王〉のように,国書に〈倭国王〉と記するようになった。しかし中国
「倭の五王」の情報だけではなく、「倭の五王」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶

倭の五王と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
日本史上の人物と同じカテゴリの記事をもっと見る


「倭の五王」は武将・大名・王・官僚・僧に関連のある記事です。
その他の武将・大名・王・官僚・僧に関連する記事
武田勝頼(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五四六-八二戦国・安土桃山時代の武将。甲斐の武田信玄の四男。母は諏訪頼重の娘。天文十年(一五四一)六月、父晴信(信玄)が武田家当主となり、翌十一年信濃国諏訪郡を攻め、諏訪頼重を誅殺した際、その娘を側室として同十五年勝頼が生誕した。四男なので諏訪氏の
松平広忠(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五二六-四九戦国時代の三河国の武将。徳川家康の父。千松丸、仙千代、次郎三郎。父は清康、母は青木貞景女。大永六年(一五二六)岡崎生まれ。天文四年(一五三五)十二月に清康が尾張守山で死んだ時は十歳。織田信秀の来襲は撃退したが、桜井松平家の信定に追われて
松平信康(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五九-七九戦国時代の武将。竹千代、次郎三郎。永禄二年(一五五九)三月六日駿府で誕生。徳川家康の長男。母は関口義広女(築山殿)。桶狭間の戦後も駿府に抑留されていたが、同五年人質交換で母とともに岡崎へ引き取られた。六年三月、織田信長の女五徳(徳姫)と
平岩親吉(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五四二-一六一一戦国時代末期徳川家康に仕えた武将で、江戸時代初頭に譜代大名となる。天文十一年(一五四二)三河国に生まれる。父は松平宗家譜代の親重。母は天野清右衛門貞親の女。幼時より徳川家康に仕え、家康が幼名竹千代のころ、人質として駿府の今川義元のも
鳥居元忠(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五三九-一六〇〇戦国・安土桃山時代の武将。天文八年(一五三九)生まれ。鳥居忠吉の子で、徳川家康が今川氏の人質となったとき駿府に随従し,のち,家康の三河統一、遠江経略の戦に従軍する。元亀三年(一五七二)の三方原の戦で負傷して跛になったという。天正十年
武将・大名・王・官僚・僧に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1900冊以上(総額850万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶