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  11. 徳川家斉

徳川家斉

ジャパンナレッジで閲覧できる『徳川家斉』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

徳川家斉
とくがわいえなり
一七七三 - 一八四一
江戸幕府第十一代将軍。一七八六―一八三七在職。安永二年(一七七三)十月五日江戸城一橋屋敷で生まれる。御三卿の一橋治済の長男、母はおとみの方(岩本氏、慈徳院)。徳川豊千代と称したが、天明元年(一七八一)閏五月、十代将軍家治の世子となって江戸城西ノ丸に入り、十二月家斉と名乗る。同二年四月元服して従二位、権大納言に任じ、同六年九月八日に家治が死去し、十四歳で職をつぐ。同七年四月十五日征夷大将軍の宣下あり、正二位、内大臣に転じた。寛政元年(一七八九)二月、近衛経煕の養女(実父は島津重豪)茂姫と婚姻。文化十三年(一八一六)四月右大臣、文政五年(一八二二)三月五十歳の時従一位、左大臣、さらに同十年三月に在職四十年に達して太政大臣の極官に昇った。歴代将軍の中で最長の五十年の在職を経て天保八年(一八三七)四月二日、将軍職を十二代家慶に譲って隠居した。その後も大御所として政治の実権を握り、十二年閏正月三十日没。六十九歳。諡名は文恭院。東叡山寛永寺(東京都台東区上野桜木一丁目)に葬られ、正一位を贈られた。家斉の治政は、寛政の改革の時期と、その後文化期まで、および文政・天保期の三期に分けられる。まず、田沼意次を幕閣から排除して処罰し、天明七年六月松平定信を老中首座とし、七月一日に庶政を享保の制に復する旨を令して、いわゆる寛政の改革が始まった。また家斉が若年なので翌八年三月、松平定信が将軍補佐役に就いた。以後、改革政治は、風紀取締り、文武奨励、倹約令、物価政策、囲米の制や江戸七分積金の制などの貯穀奨励、棄捐令・人足寄場・旧里帰農令などの救済策、異学の禁・昌平坂学問所の官学化による朱子学の興隆、出版統制などの主要政策を打ち出し、引き締まった政治が行われた。この間、光格天皇が実父の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈る意向を示したのに対して幕府がこれを停止させた尊号事件があり、これにからんで家斉自身も実父一橋治済に大御所の称号を与えようとしたが、松平定信らの強い拒否により実現できなかったことがあった。この尊号事件および厳しい緊縮政策に対する大奥勢力によって、松平定信は寛政五年七月、老中および将軍補佐役を辞任した。このあと、改革的要素は薄らぐが、松平信明が老中首座となり、本多忠籌・牧野忠精・戸田氏教ら「寛政の遺老」によって、低物価政策、風紀取締りなどの寛政の改革の方針は受けつがれた。文化元年朝鮮通信使を対馬で応接することに改めて迎接費を節約し、同二年関東取締出役(八州廻り)を新設した。文武奨励策では寛政七年塙保己一の和学講談所に資金援助し、同十二年昌平坂学問所へ諸士の入門を許した。また将軍の小金ケ原鹿狩り、公事裁許聴聞は享保の制を復活したものである。新たには海防問題が生じていた。寛政四年ロシア使節ラクスマンが根室へ来て通商を要求し、以来、北辺防備・江戸湾防備への対処が行われ、寛政十一年蝦夷地取締御用掛を置き、享和二年(一八〇二)蝦夷地奉行(のち箱館奉行)を置き東蝦夷を収公、文化四年西蝦夷地も収公して箱館奉行を松前奉行と改称した。同八年ロシア艦長ゴロウニン逮捕事件があり、この間イギリス船もしばしば来航して、同五年イギリス船フェートン号事件が起った。文政元年、家斉側近の筆頭者水野忠成が老中首座となって政治の様相が変わる。倹約・低物価政策は維持しながらも、頻繁な貨幣の新鋳・増鋳による益金収入で即効的な財政補填をはかった。このころには農民的商品経済が目に見えて発達しており、株仲間の市場統制機能は低下していたのである。文政十年、関東一円に組合村を組織して、治安対策とともに経済統制にも意を用いた。しかし政治は総じて弛緩し、賄賂・情実による請託政治は田沼時代にも増して公行した。将軍家斉は「雅潤謹厚にして敏慧」と評され、凡庸な人でなく、日常の公務に勤勉で騎馬・鷹狩に習熟していたが、将軍職は象徴化し、側近政治の中で政治に無頓着になり、生活は華奢・放漫に走っていた。ちなみに家斉の側室は通算四十人、正室も含めて十七人から子女五十五人をもうけた。大奥では祈祷僧日啓を盲信し、その娘を中野碩翁が養女として側室に進めて権勢をふるうなど、綱紀は乱れ、士風は緩み、浮華に流れた。他方、庶民の経済活動の発展とともに文化活動が広く都市・農村に展開して、いわゆる化政文化を現出した。天下は泰平にみえたが、支配体制の矛盾は深まっていたのである。対外関係では、ヨーロッパの動乱でロシアの南下が止まったので、文政四年蝦夷地全島を松前氏に還付して防備体制も解いた。ところが同七年イギリス船の水戸領大津浜上陸、薩摩領宝島寄港による紛争が起り、翌八年異国船打払令を出した。しかし沿岸防備などの方策はほとんど立てずに終始した。また文政十一年シーボルト事件が起り、洋学者を弾圧した。家斉が隠居して大御所になっても側近による「西丸御政事」が政治を左右したが、家斉死去ののち粛正されて天保の改革を迎える。→寛政の改革(かんせいのかいかく),→文化・文政期(ぶんか・ぶんせいき)
[参考文献]
『続徳川実紀』一・二、『徳川幕府家譜』坤(『徳川諸家系譜』一)、竹尾次春『幕府祚胤伝』七(同二)、内藤耻叟『徳川十五代史』五・六、三上参次『江戸時代史』下、北島正元『幕藩制の苦悶』(中央公論社『日本の歴史』一八)
(高沢 裕一)


日本大百科全書(ニッポニカ)

徳川家斉
とくがわいえなり
[1773―1841]

江戸幕府第11代将軍。御三卿 (ごさんきょう)の一つ一橋 (ひとつばし)家の2代治済 (はるさだ)の四男。母は岩本氏で於富之方 (おふくのかた)という。安永 (あんえい)2年10月5日誕生。幼名は豊千代。1781年(天明1)10代将軍家治 (いえはる)の養子となって西の丸に移り、家斉と命名。翌1782年従二位 (じゅにい)大納言 (だいなごん)。1787年、前年の家治の死去に伴い、わずか15歳で将軍となる。前代からの権臣田沼意次 (たぬまおきつぐ)を排して側用人 (そばようにん)政治を否定し、白河藩主松平定信 (まつだいらさだのぶ)を老中首座として、本百姓経営の再建、農村復興を中心とした寛政 (かんせい)の改革を断行した。しかし、風俗、出版、思想に対する厳しい統制と相まって、幕府内部に不満が充満し、尊号 (そんごう)事件と大御所事件を契機に定信は退陣した。かわって田沼派の側用人が台頭し、いわゆる大御所時代が出現した。大奥の華美驕奢 (きょうしゃ)な生活は文化・文政 (ぶんかぶんせい)期(1804~30)の文化を生んだが、ふたたび賄賂 (わいろ)が横行し、権力は腐敗、幕府財政はいっそう窮乏した。無宿者や博徒 (ばくと)が横行し、農村分離は進行したが、天保 (てんぽう)年間(1830~44)の大飢饉 (だいききん)に有効な対策を打てず、百姓一揆 (ひゃくしょういっき)、打毀 (うちこわし)が激発、1837年(天保8)には大塩平八郎の乱が起こった。同年家斉は将軍職を二男家慶 (いえよし)に譲ったが、なお大御所として政治の実権を握った。天保12年閏 (うるう)正月晦日 (みそか)没。69歳。東叡山 (とうえいざん)に葬る。法号は文恭院 (ぶんきょういん)。正室は近衛 (このえ)前右大臣経煕 (つねひろ)の養女、実は島津重豪 (しげひで)の女 (むすめ)(寔子 (たたこ))。勢真院以下多数の側室をもち、55人の子女を生ませたことで知られる。

[藤野 保]



世界大百科事典

徳川家斉
とくがわいえなり
1773-1841(安永2-天保12)

江戸幕府11代将軍。三卿の一橋治済(はるさだ)の長男。幼名豊千代。母は岩本氏。1781年(天明1)10代将軍家治の養子に迎えられ,86年将軍職を継いだ。将軍家治は俊才の名が高かった三卿田安家の定信に嘱望したが,田沼意次は自己の権勢を維持するため定信を田安家から白河藩松平氏の養子へ追い出し,豊千代を家治の養子にすえた。豊千代が11代将軍家斉となると松平定信はその後見を命ぜられ,その深い学殖や白河藩主としての体験を生かして補導した。

 家斉の治世は文化・文政期(1804-30)から天保初年にかけた約50年に及び,歴代将軍中もっとも長かったが,定信の補導下にあったその初期と,家斉の親政が行われた後期とでは,幕政の緩みは時代の下るほど顕著となった。とくに1837年(天保8)家斉が将軍職を次男家慶に譲っても引き続き幕政の実権を握り,いわゆる大御所政治を実施した時期がもっともはなはだしかった。

 家斉の大奥生活を中心とした華美・驕奢に象徴されるような側近による幕政の私物化は,幕府財政の行詰りをいっそう深刻化した。貨幣悪鋳などによる安易な切抜け策は金融市場の拡大に資するところがあったが,他方,商業高利貸資本と政治との癒着に拍車を加えた。家斉はかならずしも凡庸な君主ではなかったが,幕政の退廃に有効に対処できず,大御所政治の象徴として大奥に爛熟の生活を送った。家斉の側妾は40人といわれ,このうち家斉の子を生んだのは16人で,御台所と合わせ17人の腹から55人の子が生まれた。家斉の大奥における性生活の特質を浮彫にしている。文化文政時代はまた,江戸を舞台とする町人階級の文化を成熟させたが,それは地方に波及し,郷土色豊かな郷土文化が形成されたのは民衆の活力を物語るものである。

 幕藩制の危機は19世紀30~40年代の天保期に入るといちだんと進行し,〈内憂(国内的危機)〉と〈外患(対外的危機)〉とが統一的に自覚されるようになった。天保の飢饉,百姓一揆,大塩の乱と,北方問題,アヘン戦争などとが同一の危機意識からとらえられた。しかし家斉はそうした危機感にはほとんど無関心のまま,41年69歳をもって長逝する。
[北島 正元]

[索引語]
松平定信 大御所政治 大奥 文化文政時代
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1. 徳川家斉画像
日本大百科全書
江戸幕府第11代将軍。御三卿ごさんきょうの一つ一橋ひとつばし家の2代治済はるさだの四男。母は岩本氏で於富之方おふくのかたという。安永あんえい2年10月5日誕生。
2. 徳川家斉
世界大百科事典
1773-1841(安永2-天保12) 江戸幕府11代将軍。三卿の一橋治済(はるさだ)の長男。幼名豊千代。母は岩本氏。1781年(天明1)10代将軍家治の養子に
3. とくがわ‐いえなり【徳川家斉】
日本国語大辞典
江戸幕府第一一代将軍。一橋治済(はるさだ)の長男。幼名豊千代。家治の養子。天明七年(一七八七)将軍となる。田沼意次を排して松平定信を老中首座に起用し、寛政の改革
4. とくがわいえなり【徳川家斉】画像
国史大辞典
一七七三―一八四一 江戸幕府第十一代将軍。一七八六―一八三七在職。安永二年(一七七三)十月五日江戸城一橋屋敷で生まれる。御三卿の一橋治済の長男、母はおとみの方
5. 徳川家斉
日本史年表
6・11 徳川家斉 、江戸城吹上で角力を観覧(続実紀)。 1827年〈文政10 丁亥⑥〉 3・18 徳川家斉 、太政大臣に任じられる(続実紀)。 1837年〈天
6. 德川家齊(とくがわいえなり)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 25ページ
7. とくがわ-いえなり【徳川家斉】
日本人名大辞典
1773−1841 江戸幕府11代将軍。在職1787-1837。安永2年10月5日生まれ。三卿(さんきょう)の一橋治済(はるさだ)の長男。母はお富の方(慈徳院)
8. 徳川家斉[文献目録]
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『文恭公実録 2巻2冊』-『徳川十一代将軍偉行の記』栗本鋤雲『徳川家斉と其時代』岡部精一『徳川家斉公子の諸家相続に就いて』時野谷勝『徳川家斉の教論三章と文政の関
9. 葵紋2[図版]画像
国史大辞典
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10. 徳川家斉印[図版]画像
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11. 徳川家斉花押[図版]画像
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12. 徳川家斉元服官位記(著作ID:3634035)
新日本古典籍データベース
とくがわいえなりげんぶくかんいき 補任 天明二
13. 徳川家斉葬送並法会次第(著作ID:3634137)
新日本古典籍データベース
とくがわいえなりそうそうならびにほうえしだい 文恭院様御法会次第 記録 天保一二
14. あおやまただやす【青山忠裕】
国史大辞典
文化元年(一八〇四)、先に尊号事件によって失脚した松平定信のあと老中となった。文政十年(一八二七)将軍徳川家斉が太政大臣に任ぜられた時、忠裕は謝恩使として参内し
15. あかしじょうあと【明石城跡】兵庫県:明石市/明石城下
日本歴史地名大系
以後明治維新まで越前松平家が一〇代続いた。越前松平家は家門の家柄であり、直明以来代々六万石であったが、将軍徳川家斉の子斉宜が天保一一年(一八四〇)養子となって八
16. あかしはん【明石藩】
国史大辞典
家門・城持)が六万石で入部、以後、直常・直純・直泰・直之・直周・斉韶とつづいたが、十一代将軍徳川家斉の二十五男斉宣が斉韶の養子となり、天保十一年(一八四〇)家を
17. 赤門
日本大百科全書
唯一のものである。ここはもと加賀金沢前田家の上屋敷であり、1827年(文政10)に11代将軍徳川家斉いえなりの女むすめ溶姫が13代藩主前田斉泰なりやすに輿入こし
18. あかもん【赤門】
国史大辞典
東京都文京区本郷の東京大学構内にある。文政十年(一八二七)徳川家斉の娘溶姫が前田斉泰に嫁したとき、加賀前田家の上屋敷につくられたいわゆる御守殿門。切妻造本瓦葺
19. あこぎむらしんでん【赤萩村新田】千葉県:山武郡/大網白里町地図
日本歴史地名大系
当新田は星谷野を開墾して享保二〇年(一七三五)に高入れされたという(大網白里町史)。寛政七年の将軍徳川家斉の鹿狩では勢子人足一五人を出した(「山辺郡人足控」大原
20. あさひめ【浅姫】
日本人名大辞典
1804*−? 江戸時代後期,徳川家斉(いえなり)の娘。享和3年12月10日生まれ。母はお美尾の方。文政2年越前(えちぜん)福井藩主松平治好(はるよし)の嫡子(
21. 医学館
日本大百科全書
躋寿館は1772年(安永1)江戸の大火で類焼し、元孝の子元悳げんとくは1791年(寛政3)第11代将軍徳川家斉いえなりの援助を得て官立とし、名を医学館と改めた。
22. いけのはたなかちよう【池之端仲町】東京都:台東区/旧下谷区地区地図
日本歴史地名大系
訪問先の御用を勤め、水からくり竹細工物を献上した。清兵衛店の焼物師庄治郎も文政四―六年に将軍徳川家斉の訪問先御用を勤め、作品を買上げられた。家主の仙助も将軍の訪
23. いさごだむら【砂田村】千葉県:山武郡/大網白里町地図
日本歴史地名大系
幕府領・旗本阿部領。慶応二年(一八六六)の捉飼場五郷連印帳(渡辺家文書)でも同じ。寛政七年の将軍徳川家斉の鹿狩では勢子人足一六人を出した(「山辺郡人足控」大原家
24. いさごむら【砂村】千葉県:八街市地図
日本歴史地名大系
あり、ほか大豆一一俵余を納めていた。家数二八・人数一四二、馬一四。寛政七年(一七九五)の将軍徳川家斉による小金原での鹿狩には、五番手詰に人足二一人が徴用された(
25. いさ‐は【斑葉】
日本国語大辞典
その間に気泡があることによる場合とがある。特に観葉植物として珍重されるものもある。一一代将軍徳川家斉の好みによって流行したという。ふいり。ふいりば。*雑俳・柳多
26. いずしじょうあと【出石城跡】兵庫県:出石郡/出石町/出石城下
日本歴史地名大系
されている)。事件が老中首座松平康任に関連していたため(久寿の子小太郎の妻が康任の姪)、将軍徳川家斉は老中水野忠邦・寺社奉行脇坂安董に吟味を命じた。安董はこの仙
27. いずみのくに【和泉国】大阪府地図
日本歴史地名大系
その所領に泉州二五ヵ村を含んでいたが、寛政七年(一七九五)嗣子なく収公された。のち文政六年(一八二三)に将軍徳川家斉により復活され、大鳥郡・泉郡で三三ヵ村、約一
28. いだ-きちろく【井田吉六】
日本人名大辞典
はじめ江戸の骨董(こっとう)商。文政8年(1825)から浅草で自作の陶器「吉六焼」を販売して名をたかめ,将軍徳川家斉(いえなり)の臨席のもとで席焼きもおこなった
29. 伊東燕晋
世界大百科事典
など軍記,記録物を読んだ。謹厳な人柄と風格が多くの客の支持を受け,1806年(文化3)の将軍徳川家斉墨田川御成りの節,弘福寺御膳所で上講,寄席に高座を設けること
30. いとう-えんしん【伊東燕晋(初代)】
日本人名大辞典
伊東派の祖。江戸湯島天神境内の自宅で「曾我物語」などの軍談を講釈,湯島の燕晋とよばれた。文化3年将軍徳川家斉(いえなり)に「川中島軍記」を御前講演。翌年非人頭(
31. いなばむら【稲葉村】千葉県:八街市地図
日本歴史地名大系
以後年々上納していた。年貢は寒川蔵(現千葉市中央区)に納めた。小間子牧付村の一つ。寛政七年(一七九五)の将軍徳川家斉による小金原での鹿狩には、五番手詰に人足三人
32. いまいずみむら【今泉村】千葉県:山武郡/大網白里町地図
日本歴史地名大系
われる(「新田場村々反別覚」富塚家文書)。領主は幕末も同じ(旧高旧領取調帳)。寛政七年の将軍徳川家斉の鹿狩では勢子人足五八人を出した(「山辺郡人足控」大原家文書
33. いものくぼむら【神窪村】千葉県:八千代市地図
日本歴史地名大系
旗本小栗・富士領。各村級分はカノクホ、元禄郷帳はイモノクボと振仮名を付す。寛政七年(一七九五)将軍徳川家斉の小金牧鹿狩に際して勢子人足四人を課せられている(江野
34. 植崎九八郎上書
世界大百科事典
ている。しかし改革政治が彼の期待とは異なる方向へ展開したため,今度は1801年(享和1)将軍徳川家斉に改革政治批判をまとめた《牋策(せんさく)雑収》を上呈した。
35. うめむら【梅村】
日本人名大辞典
?−? 江戸時代後期の大奥女中。西丸大奥中臈(ちゅうろう)として徳川家斉(いえなり)の世子家慶(いえよし)につかえる。延命院住職日道と知りあって密会をかさね,享
36. うわやしんでん【上谷新田】千葉県:山武郡/大網白里町地図
日本歴史地名大系
幕府領・旗本中川領。慶応二年(一八六六)の捉飼場五郷連印帳(渡辺家文書)では中川領と鶴牧藩領。寛政七年の将軍徳川家斉の鹿狩では勢子人足四人を出した(「山辺郡人足
37. 江戸時代(年表)
日本大百科全書
測量する1802(享和2)5月 蝦夷奉行を箱館奉行と改称1804(文化1)9月 レザノフ長崎に来航、貿易要求。徳川家斉の文化・文政時代始まる1805(文化2)3
38. えどてんめいしちねんうちこわし【江戸天明七年打毀】
国史大辞典
破壊しつくしたといってよい。翌七年春には米価は若干下落したのに、飢饉と世情不穏を尻目に、四月十一代徳川家斉の将軍宣下の儀式が行われて市中の米価高騰を煽り、五月初
39. えのきどしんでんむら【榎戸新田村】千葉県:八街市地図
日本歴史地名大系
れず、佐倉藩へ檍葉を食用とすることを願出ている(佐倉厚生園文書)。寛政七年(一七九五)の将軍徳川家斉による小金原での鹿狩には、五番手詰に人足一三人が徴用された(
40. えべすむら【江弁須村】千葉県:成田市地図
日本歴史地名大系
に一揆に参加した(佐倉藩年寄部屋日記)。佐倉牧のうち内野牧付村の一。寛政七年(一七九五)将軍徳川家斉による小金原での鹿狩の時は下方村などとともに人足一五人が五の
41. えり画像
日本大百科全書
いっしょに地縫いしてから襟幅に絎くけて仕上げる絎け襟にする。 女の長着の襟を外折れにする風は、11代将軍徳川家斉いえなりのころから始まった。じみな表地の長着の襟
42. おいとのかた【お以登の方】
日本人名大辞典
?−1850 江戸時代後期,徳川家斉(いえなり)の側室。文化10年本丸御次として大奥にはいり,のち中臈(ちゅうろう)。3男2女を生んだ。信仰心があつく法蓮寺の日
43. おうたのかた【お宇多の方】
日本人名大辞典
?−1851 江戸時代後期,徳川家斉(いえなり)の側室。寛政4年本丸御次として大奥にはいり,中臈(ちゅうろう)となる。2男2女を生んだ。嘉永(かえい)4年8月7
44. おうめのかた【お梅の方(3)】
日本人名大辞典
?−1794 江戸時代後期,徳川家斉(いえなり)の側室。寛政4年大奥につかえる。将軍家斉の長女淑姫の守役となり,のち中臈(ちゅうろう)。6年5月1女を生むが,同
45. おおあみむら【大網村】千葉県:山武郡/大網白里町地図
日本歴史地名大系
文書)でも領主は同じ。旧高旧領取調帳では旧久喜藩領が出羽長瀞藩領となっている。寛政七年の将軍徳川家斉の鹿狩では勢子人足二三八人を出した(「山辺郡人足控」大原家文
46. おおくぼ-きょうなん【大久保狭南】
日本人名大辞典
1737−1810* 江戸時代中期-後期の儒者。元文2年生まれ。幕臣。徳川家斉につかえる。大内熊耳(ゆうじ)に師事し,江戸聖坂(ひじりざか)に居をかまえて郷土研
47. おおくぼしんでん【大久保新田】千葉県:習志野市地図
日本歴史地名大系
文久三年(一八六三)の改増で一一石余が加わった(旧高旧領取調帳)。寛政七年(一七九五)の一一代将軍徳川家斉の鹿狩で七ノ手の勢子を出した(安川家文書)。弘化三年(
48. 大御所時代
日本大百科全書
第11代将軍徳川家斉いえなりの治世中の文化ぶんか・文政ぶんせい・天保てんぽう(1804~44)にわたる時期をいう。この時代は寛政かんせいの改革と天保の改革に挟ま
49. 大御所政治
世界大百科事典
治基調とあまりにも対比的であるからにほかならない。高木 昭作 徳川家康 徳川秀忠 徳川吉宗 徳川家斉
50. おおせきしんでんむら【大関新田村】千葉県:八街市地図
日本歴史地名大系
含め一〇人で、最高が七石余、最低が二斗余、ほかは一石以上四石未満であった。寛政七年(一七九五)の将軍徳川家斉による小金原での鹿狩には、五番手詰に人足四人が徴用さ
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一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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徳川家定(日本大百科全書・世界大百科事典)
江戸幕府第13代将軍。12代将軍家慶(いえよし)の第4子。幼名政之助、初め家祥。ペリー来航直後の1853年(嘉永6)7月家督を継ぎ、10月将軍宣下(せんげ)。内外多難であったが、病弱で老中阿部正弘(あべまさひろ)らに政務を一任した。1857年(安政4
徳川家慶(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一七九三-一八五三江戸幕府第十二代将軍。一八三七―五三在職。寛政五年(一七九三)五月十四日生まれる。十一代将軍家斉の次男。母は側室お楽の方(押田氏、香琳院)。幼名松平敏次郎。同八年十二月家慶と称す。翌九年三月元服して従二位、大納言に任ず。文化六年
徳川家斉(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一七七三-一八四一江戸幕府第十一代将軍。一七八六―一八三七在職。安永二年(一七七三)十月五日江戸城一橋屋敷で生まれる。御三卿の一橋治済の長男、母はおとみの方(岩本氏、慈徳院)。徳川豊千代と称したが、天明元年(一七八一)閏五月、十代将軍家治の世子と
徳川家治(日本大百科全書・世界大百科事典)
江戸幕府10代将軍(在位1760~86)。幼名竹千代。9代将軍家重(いえしげ)の長子。母は梅渓(うめたに)氏お幸(こう)。元文(げんぶん)2年5月22日生まれ。1760年(宝暦10)9月に将軍就任。祖父吉宗(よしむね)は家治の幼少時には、不肖の家重に
徳川家継(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一七〇九-一六江戸幕府第七代将軍。一七一二―一六在職。六代将軍家宣の第三子。生母は勝田氏(於喜世、月光院)。宝永六年(一七〇九)七月三日、江戸城内山里の別殿で誕生。幼名世良田鍋松。世良田の称は徳川氏発祥の地、上野国新田郡世良田郷(群馬県新田郡尾島町)
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