NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
ジャパンナレッジは約1900冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 日本史
  8. >
  9. 日本史の時代
  10. >
  11. 南北朝時代

南北朝時代

ジャパンナレッジで閲覧できる『南北朝時代』の世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

改訂新版 世界大百科事典
南北朝時代
なんぼくちょうじだい

14世紀の半ばから末まで50余年間の南北朝内乱の時代をいう。鎌倉時代と室町時代の中間にあたるが,広義の室町時代に含まれる。通常,1336年(延元1・建武3)足利尊氏が北朝の光明天皇を擁立し,それについで後醍醐天皇が吉野に移り南朝を開いた時期をその始期とする。また政治体制だけでなく,社会構成の変化を目安とすれば,14世紀初頭ころから徐々に南北朝時代的な状況に入っている。一方,終期は一般に,南北朝合一によって事実上南朝が北朝に吸収され,室町将軍家による全国統一が名目上完成した1392年(元中9・明徳3)とする。ただし室町将軍家の権力確立にとっては,前年の明徳の乱などによる有力守護圧服,94年(応永1)の足利義満の太政大臣就任などにみられる公武権力掌握の意義は,南北朝合一に劣らず大きい。

概観

1335年(建武2)中先代の乱を鎮定して鎌倉に入った足利尊氏・直義兄弟が,同年11月後醍醐天皇にそむいたことにより,建武政権の破局は決定的になった。尊氏・直義兄弟は翌36年再度にわたり入京し,光明天皇擁立と前後して幕府の諸機関を設け,諸国に守護を派して勢力拡張を図った。後醍醐天皇を支持する諸国の南朝方は各地で足利方に抗戦したが,足利方は積極的な所領政策などにより多数の国人に支持され,南朝方はしだいに諸国の拠点を失った。しかし49年(正平4・貞和5)以来幕府諸将間の対立が露呈し,翌50年(正平5・観応1)尊氏党と直義党に分かれてはげしい内戦(観応の擾乱(じようらん))を展開するにおよび,漁夫の利を得た南朝方は延命のいとぐちをつかみ,直義の敗死後は南軍に下った旧直義党武将とともに再三京都に突入した。とくに鎌倉後期以来諸豪族の利害対立が深刻で,反幕府的風潮の強かった九州は,ほとんど南朝方の制圧下に入った。しかし幕府が守護の権限を強化し,守護勢力による国人層掌握が進展するにつれて,南朝方は再び衰退に向かった。わけても68年(正平23・応安1)将軍となった足利義満のもとで幕府機構が整備され,北朝の諸権限が幕府に漸次吸収されると,南朝存立の意義も薄れた。

 そもそもこの南北朝時代は,二毛作の普及等々にみられる生産力の発展を基礎とした根深い社会的・経済的変動の時代であり,族縁的原理による惣領制の解体期であって,内乱の長期化した基本的な要因もここに求められる。しかし,この時代は同時に惣荘・惣村(惣)の成立や国人一揆の結成にみられるような新たな地縁的結合の成長した時代でもあった。その結果,国人層の地域的支配をめざす守護級豪族や荘園支配の再建を求める権門寺社は,いずれも将軍権力への依存性を強め,結局室町幕府の主導下に,1392年南北朝合一が実現したのである。

政治

南北朝時代の政治情勢を通観すると,室町幕府が,多少の伸縮はあったといえ,漸次全国の支配権を掌握する過程であったといっても過言でない。まず尊氏は,建武政権への離反からわずか1年ほどで,東国から九州にいたる主要地域を制圧した。このような足利方の成功は,次のような周到かつ巧妙な戦略による点が大きい。(1)源氏の名門である足利氏の地位を利用して将軍と称し,かつ建武式目を制定し政所・侍所以下の幕府諸機関を復活させて,建武政権の公家優先の方針に失望した諸国武士に,幕府再興路線を強く印象づけた。(2)足利一門と有力被官の諸氏を守護・大将などに起用し,全国に分布する足利氏の所領などを拠点として,国人層統率の効果をあげた。(3)前代以来の有力豪族の多くをいちはやく味方とし,その国の守護などに任用して支配をゆだねた。(4)国人層のはげしい所領獲得要求にこたえて,積極的な恩賞政策を採用した。(5)大覚寺統の後醍醐天皇に対抗するため,持明院統の光厳上皇の院宣を受け,さらに光明天皇を擁立し,両皇統の分立を利用して朝敵の汚名を避け,足利方の正統性を印象づけるように努めた(両統迭立)。(6)大犯三箇条に苅田狼藉の禁圧と使節遵行権を付加して,守護の検断権を強化した。

 一方,南朝方も,足利氏に反発する新田氏以下の豪族,公家領・寺社領などの荘官の一部,山野河海や水陸交易路を活動舞台とする供御人(くごにん)・神人(じにん)集団などの根強い支持勢力を有していたが,上記のような足利方の戦略の前にしだいに劣勢に追い込まれた。しかし,南朝方の凋落傾向に一応の歯止めをかけることができたのは,足利方の内部における尊氏党と直義党の対立であった。尊氏は幕府開設当初から弟直義に評定,引付方,安堵方,禅律方および軍勢催促状,感状発給など多くの政務を委任し,主として守護以下の人事権や恩賞授与権のみを親裁した。しかし尊氏を補佐する幕府執事高師直は国人の所領要求を積極的に支持する一種の革新路線を代表し,権門寺社の荘園維持要求を支持する直義の保守路線と対立した。その結果1350年観応の擾乱がおこり,師直も直義も結局横死したが,敗北した旧直義党武将の多くは南朝方の戦列に加わり,内乱は一時激化の様相を呈した。国人層掌握の必要性をいっそう感じ取った幕府方は,国人対策に大きな変更を加えた。その一つは国人一揆の容認による地縁的結合への対応,いま一つは半済法の制定による所領要求への積極的対応である。とくに半済法は,寺社本所領の管理を守護配下の武士に分与し,年貢の半分をその武士の収益とするものであるが,配下武士の配置は守護に一任されたので,守護は国人統率権を強化して大名化の傾向を強めた。南朝方も権門寺社領の一部を朝用分と称して国人層に割譲して,幕府方の国人層対策に対抗したが,守護の権限を強めつつ実施した幕府方の国人掌握策のほうがより効果的であった。さらに,守護は在庁官人を被官として国衙領の守護領化を推進し,かつ種々の名目で公家領・寺社領の荘園にも支配の手をのばした。

 こうして幕府の主導下に観応の擾乱の余波も鎮静に向かったので,1358年(正平13・延文3)の尊氏の病没とその嫡子義詮の将軍就任も幕府に大きな動揺を及ぼさなかった。ただし守護級有力武将間の抗争は,なおときおり再燃した。義詮の任命した幕府執事細川清氏は性急な勢力拡大,職権強化をもくろんで佐々木高氏(道誉)らの武将と対立し,61年(正平16・康安1)義詮から追放され,南朝に投降した末,翌年敗死した。その後任の幕府執事斯波義将も,その父高経ほか一族とともに66年(正平21・貞治5)やはり高氏らとの対立の結果追放されたが,翌67年高経の病没とともに一族は帰参を許された。

 同年,義詮は多年対立した弟の鎌倉御所基氏とも和解した。しかし義詮は幼少の嫡子義満に家督を譲って病没し,遺命を受けた細川頼之が将軍義満を後見して政務を代行した。これを機会として,それまで将軍-執事-守護あるいは将軍-侍所-守護,将軍-引付頭人-守護などと多岐に分かれていた幕命の伝達系統が,ほぼ将軍-管領-守護に統一され,管領制が成立したと判断される。かつ頼之は半済法を整備し,全国の公家領・寺社領の大部分を本所と給人との間で折半させてそれぞれを一円所領とし,国人層と権門寺社との利害を調停しうる最高の国家権力としての機能を幕府が発揮する基礎をととのえた。あたかもこのころ,公家の相続の安堵,有力寺社の訴訟裁決,洛中住民の検断,公田段銭の催徴,酒屋・土倉への課税などの権限が北朝の朝廷から幕府に移行し,幕府による朝廷の権限の吸収がいちじるしく進んだ。

 幕府権力の強化・充実を機として,頼之は河内,伊勢,越中などの南軍を攻撃するとともに,今川貞世を鎮西管領(のち九州探題)として発遣し,九州における幕府方の勢力を挽回させた。しかし管領頼之の幕府権力強化策は細川一族の重用,守護家の内紛への介入,五山統制の強化,南都北嶺の抑圧などを伴ったため,頼之の専権に対する主要守護大名諸氏の反感が強まり,ついに1379年(天授5・康暦1)斯波義将,土岐頼康,京極高秀らの諸大名は頼之罷免を要求して挙兵し,鎌倉御所氏満もはるかに呼応して西上を図ったので,将軍義満は頼之を罷免し,義将を管領とした。

 この康暦の政変は,幕府の政治体制がいっそう充実する契機となった。政所執事が二階堂氏から伊勢氏に代わるとともに,従来支配系統の分かれていた幕府直轄領(公方御料所)は政所の一括管理下に入り,かつ朝廷・山門などが分掌していた洛中の雑務沙汰(動産の売買・貸借等に関する訴訟)の裁判権も1386年(元中3・至徳3)までに幕府政所の一括審理下に入った。また朝廷の記録所または院の文殿(ふどの)で行われていた2本所間の公家裁判も1381-83年(弘和1・永徳1-弘和3・永徳3)に停止し,幕府の裁判権に移行した。このような幕府の政治権力の拡充とともに義満の官位もめざましく昇進し,83年までに従一位,左大臣,准三后,蔵人所別当,院別当,源氏長者,淳和奨学両院別当を一身に兼ね,将軍家は公武両域にわたる専制君主としての威容をととのえるようになった。

 ただし将軍の専制権力確立にとって障害となりかねないのは,国人層の組織化に成功して数ヵ国にわたる分国支配を築いた強大な守護大名の出現であった。そこで義満は89年(元中6・康応1)の美濃・尾張・伊勢守護土岐氏の内紛,90年(元中7・明徳1)の山陰・山陽等11ヵ国の守護山名氏の内紛に,それぞれ介入して,いずれも翌年鎮定した。この美濃の乱と明徳の乱の軍事的勝利を背景として,義満は南朝との講和交渉を行い,92年南北朝合一を実現して,事実上南朝を解消させることに成功したのである。
→建武新政 →南北朝内乱
[小川 信]

[索引語]
足利尊氏 後醍醐天皇 足利義満 観応の擾乱 足利直義 高師直 半済法 細川清氏 細川頼之 康暦の政変


国史大辞典

南北朝時代
なんぼくちょうじだい
建武三年(延元元、一三三六)八月、足利尊氏は持明院統の光厳上皇・光明天皇を擁立した。京都に成立したこの朝廷(北朝)に対して、同年十二月に京都を脱出した大覚寺統の後醍醐天皇は、吉野に入って朝廷(南朝)を開いた。以後五十七年間の歴史は、南北両朝の擁立を名目に掲げる貴族・武士を抗争させたのみならず、広範な民衆を動乱の坩堝(るつぼ)にまきこんで展開した。明徳三年(元中九、一三九二)に、室町幕府の主導によって南北両朝が合体するまでを南北朝時代という。なお、後醍醐天皇の開いた吉野の朝廷の動向を主軸にして歴史叙述をする場合、当該期を吉野時代と称することもある。→南北朝の内乱(なんぼくちょうのないらん)
[参考文献]
田中義成『南北朝時代史』
(佐藤 和彦)
上記は、日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書サービス「ジャパンナレッジ」のサンプル記事です。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。


南北朝時代の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 6410
※検索結果は本ページの作成時点のものであり、実際の検索結果とは異なる場合があります
検索コンテンツ
1. けんむしんせいとなんぼくちょうきのてんのう【建武新政と南北朝期の天皇】 : 天皇
国史大辞典
〔建武新政と南北朝期の天皇〕 このような状況を打破し、天皇の君主権の完全な回復といっそうの強化をめざす企図が、後醍醐天皇の建武新政となって実現した。後醍醐は院
2. ちゅうせいなんぼくちょうむろまちじだい【中世(南北朝・室町時代)】 : 東国
国史大辞典
〔中世(南北朝・室町時代)〕 坂東八ヵ国に甲斐・伊豆を加えた十ヵ国(明徳二年(一三九一)以降、陸奥・出羽が加わる)を管轄する鎌倉府が成立し、この地域概念として
3. 南北朝時代
世界大百科事典
その始期とする。また政治体制だけでなく,社会構成の変化を目安とすれば,14世紀初頭ころから徐々に南北朝時代的な状況に入っている。一方,終期は一般に,南北朝合一に
4. 南北朝時代
世界大百科事典
代。江南では420年に宋が成立し,華北では439年に北魏が北涼を滅して華北統一をなしとげ,南北朝時代が現出。この南北対立時代に終止符が打たれたのは589年,北朝
5. なんぼくちょう‐じだい[ナンボクテウ‥]【南北朝時代】
日本国語大辞典
文芸の開花とともに、仏教や道教が流布し、後の大唐世界帝国の基礎を作った。後漢の滅亡からかぞえて魏晉南北朝時代ともいう。〔二〕日本で、中世、朝廷の皇統が南朝(大覚
6. なんぼくちょうじだい【南北朝時代】
国史大辞典
で展開した。明徳三年(元中九、一三九二)に、室町幕府の主導によって南北両朝が合体するまでを南北朝時代という。なお、後醍醐天皇の開いた吉野の朝廷の動向を主軸にして
7. 南北朝時代(中国)
日本大百科全書
5、6世紀の中国の政治的分裂の時代をさすが、3世紀初め以降とあわせて魏晋ぎしん南北朝時代としてとらえることが多い。420年、宋そうが東晋とうしんにかわって興り、
8. 南北朝時代(日本)画像
日本大百科全書
うぐんとなった。そのため南北朝時代は、別には足利時代あるいは後の幕府所在地の名をとっていう室町時代とも重なるが、広義における室町時代のうち、1392年までは南北
9. なんぼくちょうむろまちじだい【南北朝・室町時代】 : 中世
国史大辞典
南北朝・室町時代  鎌倉時代と戦国時代に挾まれた一世紀半は、建武政権の成立と消滅、南北朝の内乱、室町幕府の成立から衰退に至る激しい争乱の時代であった。この争乱
10. なんぼくちょうじだいし【南北朝時代史】
国史大辞典
田中義成著。著者は帝国大学の史料編纂官兼文科大学教授で文学博士であった。没後三年の大正十一年(一九二二)国史学第一講座の稿本を、聴講した竜粛(りょうすすむ)ら
11. 南北朝時代の勢力分布(1)[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©Shogakukan
12. 南北朝時代の勢力分布(2)[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©Shogakukan
13. 『南北朝時代史』
日本史年表
1918年〈大正7 戊午〉 11・4 田中義成没.没後、大正11年、竜粛らにより 『南北朝時代史』 出版される。
14. 魏晋南北朝時代画像
世界大百科事典
華北では439年に北魏が華北を平定したので,中国は胡・漢が南北に対立する形勢となり,以後を南北朝時代という。 南北朝時代には魏・晋期の流動性がいくらか減って社会
15. ぎしんなんぼくちょう‐じだい[ギシンナンボクテウ‥]【魏晉南北朝時代】
日本国語大辞典
中国の三国、晉(東晉を含む)、五胡十六国、南北朝時代約三七〇年の総称。漢に続き、隋の統一国家が出現するまでの期間で、文化史的には六朝時代ともいう。
16. 魏晋南北朝時代 : 図-魏晋南北朝時代王朝交替表画像
世界大百科事典
17. おうもう【王猛】(Wáng Měng)
世界人名大辞典
進め,綱紀粛正に心を砕いた結果,分裂戦乱の時代にあって治安の良い稀有な一時期を現出せしめた.魏晋南北朝時代を通じて,屈指の政治家とされる.死に際して,東晋とは戦
18. きちぞう【吉蔵】(Jízàng)
世界人名大辞典
《法華義疏》《法華遊意》《法華統略》の4点もの注釈書が現存.彼の注釈は博引旁証を特色とし,南北朝時代の散逸した資料の引用が多く貴重.またその論述はきわめて論理的
19. どうあん【道安】(Dào'ān)
世界人名大辞典
〔312[永嘉6]~85[建元21]〕 中国南北朝時代初期の僧.道安②と区別して釈道安とも呼ぶ.常山県扶柳(現,河北冀州付近)の人.俗姓は衛氏.12歳で出家し,
20. どうしょう【道生】(Dàoshēng)
世界人名大辞典
〔†434[元嘉11]〕 中国南北朝時代,東晋・劉宋の仏僧.鉅鹿(現,河北平郷)の人.俗姓は魏氏.竺法汰(じくほうた)(320~87)により出家したので竺道生と
21. かぼ【富嘉謨】(Fù Jiāmó)
世界人名大辞典
長安年間[701-04]に晋陽尉,寿安尉となり,のち左台監察御史となった.唐の初めにはまだ南北朝時代の徐陵,庾信(ゆしん)の文体の影響を受けた技巧的散文が流行し
22. ふくけん【服虔】(Fú Qián)
世界人名大辞典
漢の事件に関する60条の批判に対し再批判を行った.服虔の《春秋左氏伝》の注解は広く読まれ,南北朝時代に南朝で晋の杜預の注が好まれたのに対し,北朝では服虔の注が採
23. りゅうとんてい【劉敦楨】(Liú Dūnzhēn)
世界人名大辞典
間構成・造園手法・歴史沿革の実証的研究で新たな分野を開拓.木造建築遺構が遺らない漢・三国・南北朝時代の宮殿壇廟を文献的に研究し《大壮室筆記》《東西堂史料》を著す
24. あいうちむら【相打村】青森県:北津軽郡/市浦村
日本歴史地名大系
かでない。安東氏が相内集落の東、十三湖を南に望む台地上の福島城に拠ったのは、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての頃と推定される。その北方の独立丘陵上に築城年代は確
25. 愛洲の館[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
剣術家愛洲移香あいすいこう生誕の地、南伊勢みなみいせ町にある資料館。移香をはじめ、南北朝時代にこの地を治めた愛洲氏にかかわる古文書や歴史資料を展示する。町内の考
26. あいずみちょう【藍住町】徳島県:板野郡
日本歴史地名大系
守護所の位置についても三好郡池田(現池田町)説、美馬郡岩倉城(現脇町)説などとともに勝瑞説がある。南北朝時代以後足利一門の細川氏が阿波国守護職を代々継承したが、
27. あいだぐん【英田郡】
国史大辞典
吉野郡小房城や竹山城(大原町)に拠った土豪であったが、天正のころは毛利氏に党して宇喜多氏に抗した。安東氏は南北朝時代のころから英多保の地頭として活躍した。その裔
28. あいづとうでらはちまんぐうながちょう【会津塔寺八幡宮長帳】
国史大辞典
んげ)町大字塔寺心清水(こころしみず)八幡神社に伝わる古記録。『塔寺八幡宮長帳』ともいう。南北朝時代観応元年(一三五〇)から江戸時代寛永十二年(一六三五)迄、約
29. あいのしょう【安威庄】大阪府:茨木市/安威村
日本歴史地名大系
庄内にあった西芳寺末寺普賢院が散在田畑を本寺より買得している(賦草案之引付)。当庄の在地武士安威氏は南北朝時代には摂津守護赤松光範の守護使となり(水無瀬神宮文書
30. あいはら-うじみつ【粟飯原氏光】
日本人名大辞典
?−? 鎌倉-南北朝時代の武将。粟飯原清胤(きよたね)の父。鎌倉幕府の9代将軍守邦親王につかえたが,のち足利尊氏にしたがう。尊氏の命をうけて,建武(けんむ)5=
31. あいはら-きよたね【粟飯原清胤】
日本人名大辞典
?−? 南北朝時代の武将。室町幕府の奉行人。貞和(じょうわ)3=正平(しょうへい)2年(1347)政所(まんどころ)執事となる。足利直義(ただよし)の高師直(こ
32. あえば-うじなお【饗庭氏直】
日本人名大辞典
1335−? 南北朝時代の武将,歌人。建武(けんむ)2年生まれ。足利尊氏につかえ,観応(かんのう)3=正平(しょうへい)7年(1352)尊氏の新田義興・義宗との
33. あおえは【青江派】
国史大辞典
そして守次・貞次・恒次の名跡は南北朝時代まで、為次・助次の名跡は鎌倉時代末期まで続いていることが遺作によって知られる。各時代を通じてこの派の刃文には小乱・直刃が
34. 青方氏
日本大百科全書
詳細に知ることができる。鎌倉幕府によってこの地の地頭職じとうしきを安堵あんどされて、鎌倉御家人となり、南北朝時代には松浦党まつらとうの一員となり、しばしば国人一
35. 青方氏
世界大百科事典
となり,はじめて青方氏と号した。モンゴル合戦の勲功の賞として,肥前国神崎荘の配分を受けた。南北朝時代には松浦一族と称し,しばしば一揆契諾状を結び,足利氏支持勢力
36. 青方文書
日本大百科全書
っとも優れた史料であるばかりでなく、中世漁業関係史料としても内容に富んだ史料である。とくに南北朝時代の国人一揆契諾こくじんいっきけいだく状が含まれていることで著
37. あおかたもんじょ【青方文書】
国史大辞典
安堵され、鎌倉御家人となり、南北朝時代には松浦一族と称したが、近世には福江藩士となる。文書内容は建久七年(一一九六)前右大将家政所下文案を最古とし、鎌倉・南北朝
38. あおきじょうあと【青木城跡】徳島県:麻植郡/山川町/瀬詰村
日本歴史地名大系
上に築かれた城で、瀬詰城あるいは喜来城ともいう。市原氏の居城と伝える。同氏は土肥氏一流で、南北朝時代に阿波にきて富岡城(現阿南市)の城主となった新開氏の一族とい
39. 青森県史[文献解題]青森県
日本歴史地名大系
八冊 青森県編 大正一五年刊・昭和四七年復刻 構成 一(王朝時代・鎌倉時代・南北朝時代・室町時代・藩政時代津軽編)、二―三(藩政時代津軽編)、四―五(藩政時代
40. あおもりし【青森市】青森県
日本歴史地名大系
「外ノ浜内末部」(諏訪大明神絵詞)を、現在の青森市西北部の内真部に比定する説が有力である。南北朝時代の外ヶ浜一帯は南部氏の支配下にあった。南朝方の南部師行が、建
41. あおやちょう【青谷町】鳥取県:気高郡
日本歴史地名大系
相尾あるいは相屋の誤記と考えて、相屋神社がある青谷付近に置かれていたとする説もある。鎌倉時代から南北朝時代、日置川中・下流域から気高町姫路にかけての地域は日置郷
42. あおやまし【青山氏】画像
国史大辞典
徳川氏譜代の三河武士。南北朝時代末期(元中年間)、新田氏が征東将軍尹良親王(宗良親王の第二王子)を上野国寺尾城に迎えた時、師重がこれに供奉して上野国吾妻郡青山
43. 障泥/泥障
世界大百科事典
という記述が現在でも信用されている。画像石,銅鏡,明器,壁画などの表現によると,漢・三国・南北朝時代には長方形の障泥を鞍の下方にさげており,韓国の慶州天馬塚で出
44. 赤[村]
世界大百科事典
米作のほか野菜栽培が中心である。山林が村域の約7割を占め,良質の杉を産する。東の戸城山には南北朝時代の城跡のほかアスレチック施設がある。南部の犢牛(こつとい)岳
45. あかおむら【赤尾村】奈良県:桜井市/桜井地区
日本歴史地名大系
[現]桜井市大字赤尾 鳥見山東麓の傾斜地集落。南北朝時代には南朝方の西阿が赤尾城を構えたが、暦応四年(一三四一)に細川顕氏がこれを討っている(渡辺源四郎実軍忠状
46. あかしかくいち【明石覚一】
国史大辞典
?―一三七一 南北朝時代の琵琶法師。一方(いちかた)流の始祖如一に師事して、『平家物語』の詞章の整理統一および新しい曲節の大成に務め、平曲中興の祖といわれる。
47. あかぼし-たけつら【赤星武貫】
日本人名大辞典
?−1359 南北朝時代の武士。赤星有隆の孫。菊池氏の一族。菊池武光にしたがい,征西将軍懐良(かねよし)親王を奉じて,少弐頼尚(しょうに-よりひさ)らの軍と筑後
48. あかまじんぐうもんじょ【赤間神宮文書】
国史大辞典
(一八〇七)・文政四年(一八二一)の三回分が残っている。特に元文度の分は綸旨をはじめ鎌倉・南北朝時代の文書は全文書写、毛利氏時代の分は文書の書出しと差出し・宛所
49. あかまつ‐うじのり【赤松氏範】
日本国語大辞典
南北朝時代の武将。則村の子。南朝につき、京都を攻略。後に播磨の清水に兵を起こしたが敗れ、討死。法名本光道成。元徳二~至徳三=元中三年(一三三〇~八六)
50. あかまつうじのり【赤松氏範】
国史大辞典
一三三〇―八六 南北朝時代の武将。則村の四男。弾正少弼。大力無双の勇士といわれた(『太平記』三二)。摂津中島・同国有馬・備前馬屋郷を領したが、父則村の死後、観
「南北朝時代」の情報だけではなく、「南北朝時代」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶

南北朝時代と同じ日本史の時代カテゴリの記事
鎌倉時代(国史大辞典・世界大百科事典)
〔時代概念〕幕府が相模国鎌倉に置かれた時代。終期が元弘三年(一三三三)の鎌倉幕府滅亡である点に異論はないが、始期については諸説があり、文治元年(一一八五)の守護・地頭設置に求める説が有力である。明治初期までは、皇代中心の編年的歴史叙述が優勢であったが
南北朝時代(世界大百科事典・国史大辞典)
14世紀の半ばから末まで50余年間の南北朝内乱の時代をいう。鎌倉時代と室町時代の中間にあたるが,広義の室町時代に含まれる。通常,1336年(延元1・建武3)足利尊氏が北朝の光明天皇を擁立し,それについで後醍醐天皇が吉野に移り南朝を開いた時期を
室町時代(国史大辞典・世界大百科事典)
政治権力の所在による時代区分の一つ。足利時代とも称される。広義には鎌倉時代と安土桃山時代の中間に位置する足利将軍の存続期を指すが、狭義にはその時代の前期を南北朝時代、後期を戦国時代としてその両時代に挾まれた一時期を対象とし、時にはその片方を含めて
安土桃山時代(世界大百科事典・国史大辞典)
織田信長が室町幕府15代将軍足利義昭を擁して入京した1568年(永禄11)から,関ヶ原の戦によって徳川家康の覇権が確立した1600年(慶長5)までの約30年間を指し,織田・豊臣時代(織豊政権)ともいう。時代区分のうえでは江戸時代と合わせて近世
大正時代(世界大百科事典・国史大辞典)
一般的には大正天皇の在位期間(1912-26)をいうが,歴史学的にいえば,藩閥官僚政治を批判する日露戦争講和反対の全国的民衆運動の発生した1905年から,第2次護憲運動の結果成立した加藤高明内閣の政治諸改革が行われ,政党政治体制の確立した1925年ま
日本史の時代と同じカテゴリの記事をもっと見る


「南北朝時代」は日本の歴史に関連のある記事です。
その他の日本の歴史に関連する記事
長篠の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
天正三年(一五七五)五月二十一日織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の軍を三河国設楽原(したらがはら、愛知県新城(しんしろ)市)で破った合戦。天正元年四月武田信玄が没し武田軍の上洛遠征が中断されると、徳川家康は再び北三河の奪回を図り、七月二十一日長篠城
姉川の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
元亀元年(一五七〇)六月二十八日(新暦八月十日)、現在の滋賀県東浅井郡浅井町野村・三田付近の姉川河原において、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦い。織田信長は永禄の末年(永禄二年(一五五九)・同七年・同八―十年ごろという
平成(国史大辞典)
現在の天皇の年号(一九八九―)。昭和六十四年一月七日天皇(昭和天皇)の崩御、皇太子明仁親王の皇位継承に伴い、元号法の規定により元号(年号)を平成と改める政令が公布され、翌一月八日より施行された。これは、日本国憲法のもとでの最初の改元であった。出典は
河原者(新版 歌舞伎事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
江戸時代に、歌舞伎役者や大道芸人・旅芸人などを社会的に卑しめて呼んだ称。河原乞食ともいった。元来、河原者とは、中世に河原に居住した人たちに対して名づけた称である。河川沿岸地帯は、原則として非課税の土地だったので、天災・戦乱・苛斂誅求などによって荘園を
平安京(国史大辞典・日本歴史地名大系・日本大百科全書)
延暦十三年(七九四)に奠(さだ)められた日本の首都。形式的に、それは明治二年(一八六九)の東京遷都まで首府であり続けたが、律令制的な宮都として繁栄したのは、承久二年(一二二〇)ころまでであって、その時代から京都という名称が平安京の語に替わってもっぱら
日本の歴史に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1900冊以上(総額850万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶