山下氏、名は重民、幼名は金次郎(中年まで字は公彜、鶯陵と号せしが、其の後先賢佐藤直方の説に私淑し、之を用ゐざることとし、単に重民を以て称す)、東京の人、其の家世々徳川幕府に仕ふ。父を重祿(しげよし)(初め亀太郎後ち貞之助)といふ。表銃隊取締役たり。重民はその嫡子にして、安政四年丁已十二月七日千駄谷十軒町(今の四谷区霞岳町)に生る。其の学歴の大要左の如し。
七歳読書を叔父愛田直(ただし)に受く。其の年小川町歩兵屯所に於ける士官子弟の文武試験に出席す。(当時父は歩兵指図役なり)。余第ーの年少者なりしを以て最初に召喚せられ、孝経大学の検出素読を為したり。十歳築山重兵衛に従て学び、読書の試験を湯島学問所に於て受く。明治二年己巳四谷大番町三十四番地に移住し、其の東隣なる金子半次郎(屯斉)に就て学び、後更に伝馬橋車力門横丁の渡辺概(軌山)の指導を受け、日夕諸友と講習す。六年小舎人にて太政官に在りしが、法制局の井上毅(後ち文部大臣)重民の少年にして漢文を草するを見て之を賞し、市谷薬王寺前の自邸に招き、漢書を貸与し、激励する所あり。是に於て大に勉む。当時近隣五番地に小菅揆ー(香村)といへる人あり。大蔵書記官たり。頗る詩を好む。遊嚢詩存、三余百律、古香斎詩鈔等は皆其の著なり。特に重民の韻事に通ずるを愛し、五事韻瑞一函を贈らる。是より往来虚日なし。十一年終に勤めて大蔵省に出仕せしめ、旧幕府理財会要取調掛に属し執筆せしむ。僚友杉林武敏(巨洲)亀田一純(穉松)文学を好み、又沿革志掛には小山朝弘(春山)根本通明(羽岳)塚達(横碧)等の諸学者あり。連に研鑽益を得ること少なからず。初め詩を植村蘆州先生に学び、後に大沼枕山先生に質す。学友には岸本勝敏(槐隠又蘆廼屋と号す)あり。四谷箪笥町三十三番地に住し、深く学を好み、親交兄弟の如し。勝敏国学に通ず。因て重民も専ら国書を読み、国体の尊厳を知り、大義名分を主張す。而して暇日には相携へて先賢の墓碑を尋ね、遠近を捜索す。木下順庵先生の基の如き之を目黒本門寺の傍に発見し、其の保存を謀れり。(顛末は露の手向に記す)後ち勝敏空しく志を斎して病歿せり。齢三十一、実に惜むべし。其の遺著数十部は上野図書館に在り。
十九年二月堀中徹蔵(東洲)詩文捷径を発行するに及び、小菅氏之を援助し、重民に校閲を嘱す。二十年十月山口銀蔵(雲梯)の経営せる有終社に入り、特務社員として学庭志叢の編輯に従事し、批評する所多し。当時福井繁(学圃)と日夕往来し、互に唱酬せり。而して十九年一旦官を辞せしが、再び出仕し、記録局長浦春暉の勧に因り、江戸会雑誌に寄稿す。随て内藤耻叟、小宮山綏両先輩と相知れり。二十年僚友並木時習(学軒)の請に応じ、其の家に到り諸子に教授し、又隔日に三田の松方邸に到り諸子に教授し、又修文会を設置し、大蔵司法文部三省の青年を指導せり。此頃僚友詩を好む者時々会合して韻を探る。二十五年七月廿五日の雨亭消夏集の如き今尚ほ筐中に存す。
是より先き二十二年二月東陽堂の風俗画報を発行するや此に関係し、二十七年其の編輯渡辺又太郎(乙羽)大橋家に入るに至り、其の跡を承け、公余之を主宰し、旁ら絵画叢誌にも従事せり。因て堂主に勧め種々の増刊を為しむ。既にして江戸名所図会の粗雑なるを嘆じ、新撰東京名所図会を発行し、一町毎に其の沿革を詳記するの新例を創始し、大に好評を博せり。初め数人と共に執筆せしが、後ち離散し、本郷区以下は独力之に任じ、十有二年を経て五十八編を完成す。其の東陽堂に出入するや、野口勝一(衆議院議員珂北と号す)大槻修二(如電)菅原白竜、寺崎広業、富岡永洗と相知り、その他諸名士と接すること多し。四十三年退官の後ち専ら画報に従事し、旁ら東京近郊名所図会を編纂し、十七篇を以て終る。明治三十一年江ノ島鎌倉等を探討し其の名所図会を編纂し、三十四年九月には郵船会社の委嘱に因り其の船舶に便乗し横浜を抜錨、神戸門司下関を経て長崎に遊び、其の実況を記して郵船図会を出版せり。大正元年には日光山に遊び、輪王寺門跡等と相知り、日光大観を記し、尋て仙台及び松島に遊び、県庁の援助を得て松島大観を著す。其の他類聚婚礼式、考証前賢故実、錦之御旗、浮世絵編年史、諏訪名所図会等の如き、皆其の校補する所なり。
同二年東陽堂を退き、家居して群書を捗猟し、各社の請に応じ寄稿す。七年五月閑地を駒沢村深沢に卜し新築移住し、花に吟じ月に詠じ悠々自ら楽む。東京市吏官等其の他来りて旧事を諮詢する者少からず。而して平素考証学を好むを以て数十年の諸稿積て堆を成す。近日将さに蒐輯改刪して之を世に問はんとす。其の抱負の如何は、画報等は読みし者は定て之を知らむ。故に贅せず。
既にして大正十年六月六日、大蔵属高楯俊氏の紹介ありて滝本誠一博士等の懇請に因り、旧幕府理財会要出版の校訂に従事す。本書は余の嘗て編纂に与りしものにして、幸に大蔵省文庫には原書の保存しあれば、之を完備のものに為さむとし、其の不足を補ひ居りしが、書肆の其の紙数増加すること多大なるを恐れ之を喜ばざるに因り、数月にして辞退せり。同十一年より小野武夫博士の委嘱に困り、近世地方経済史料の原稿校正に従事し、前後四年に亘り終了す。此書は昭和七年八月に至り十冊を刊行す。蓋し其半数なり。
同十五年即ち昭和元年二月小野博士の紹介に因り、渋沢敬三君の請に応じ、隔日に飛鳥山渋沢邸青淵文庫に赴き、織田完之の遺書三千余冊を整理し、二年十月三十日に終了。同十一月十六日国学院学生高木好次氏来り、江戸文化の寄稿を懇請す。因て其の会に参加し、時々座談会に列席し、江戸文化の研究に尽力せり。同六年一月八日、駒沢町長より郷土調査研究員を嘱託せられ、他の委員と共に時々役場に参会し、出ては史蹟を探討せしが、町役場の廃止に当り中止せり。同年四月十七日三上参次、藤浪剛両博士の招致に応じ、芝公園増上寺景光殿に会合し、東京名墓顕彰会員と為る。八年一月二十二日、東京市開催の大東京史蹟展覧会協議会に列し、是より時々上野自治館に赴きて助力し、書類を出陳せり。同十五年四月二十日開催の自治館戦時町会展覧会にも亦吏員の来訪あり。其の懇請に応じ出陳をなしたり。かくて十五年十一月廿四日町会長福島格次氏より当町郷土史の編纂を委嘱せらる。十六年九月廿六日四谷区長広田伝蔵氏より四谷区史資料保存委員を嘱託せられ、十月二日午前十一時同区役所三階委員室に会合し、其の方法を協議し建言する所あり。而して考証記述は平生好む所なるを以て時ありて日本及日本人、彗星、武蔵野、今昔、江戸読本、自警等に寄稿し、文化の一端を発揮し、日々几に倚りて書冊を友とし老齢の将さに尽なむとするを忘れ居れり。