後鳥羽上皇から寵愛を受けていた二人の女房のこと。鎌倉初期の京都で、この二人に起こった悲恋の伝説を意味することばでもある。

 専修(せんじゅ)念仏を説いた法然上人は、当時、先達として引く手数多(あまた)で、それまで都を牛耳る立場にあった比叡山(天台宗)や興福寺からも疎まれていた。一方、法然の弟子、住蓮坊と安楽坊の二人は、たいへんな美声の持ち主として知られ、宮中の女性の間で大評判となっていた。その美しい説法に深く感銘を受けたのが、松虫と鈴虫である。松虫と鈴虫は、後鳥羽上皇の熊野詣での留守中、住蓮坊と安楽坊の東山の庵で髪を切り、出家してしまう。それを知った上皇が激昂しないわけはない。住蓮と安楽を死罪にしても怒りは収まらず、結局、法然までも土佐へ送る刑罰をくだした。さらに、法然の弟子の一人であった親鸞までが連帯責任を問われ、越後への流刑になってしまう。この事件は建永の法難と呼ばれ、この後長く専修念仏に対する弾圧が続けられることになった。

 法然門下の系譜を伝える『法水分流記』には、住蓮坊は斬首されるときに頭から光りを放ちながら、地に落とされた首がなおも念仏を唱えていたとある。安楽坊のほうは、首を切られても合掌したまま、口には念珠をくわえ続けていたと記されている。専修念仏が大衆に広く受け入れられていた当時を思えば、都がひっくり返るような大騒動であったろう。

 松虫と鈴虫が髪を切った談合谷(左京区、鹿ヶ谷(ししがたに)東方の山中)にある庵は、もとは住蓮坊と安楽坊の住まいであったといわれている。大文字山に続く山道の入り口の辺りで、今でもうっそうとした山深い風情を漂わせている。現在の法然院の南隣にある住蓮山安楽寺より、少し山間に入ったところにあたる。かつて二僧はそこに、念仏道場を開いた。安楽寺には、二僧と松虫・鈴虫の石塔が残されている。秋めいて「りんりん」「ちんちろりん」と聞こえ始めると、森閑とした鹿ヶ谷に虫の音を探しに訪ねたくなってくる。


安楽寺にある松虫姫と鈴虫姫の供養塔。


   

京都の暮らしことば / 池仁太   


池仁太(いけ・じんた)
土曜日「京都の暮らしことば」担当。1967年福島県生まれ。ファッション誌編集者、新聞記者を経てフリーに。雑誌『サライ』『エスクァイア』などに執筆。現在は京都在住。民俗的な暮らしや継承技術の取材に力を入れている。
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