東山三十六峰の第十峰にあたる月待山は、如意ヶ嶽(第十一峰、通称大文字山、左京区)北側の山裾にある、標高194メートルの小さな山である。別名銀閣寺山とも呼ばれ、銀閣寺(慈照寺)の庭園のすぐ後ろにある。庭園から近い月待山の稜線越しに、中秋の名月(2014年は9月8日)の姿を見ることができるのは、夜が更けてからのことになる。銀閣寺を造った足利義政は月待山を眺めながら月を待ちわび、こう詠んだ。

 わが庵(いお)は月待山のふもとにて かたむく月のかげをしぞ思ふ

 銀閣寺の庭園は「夜の庭」と、昔から称されていたという。庭の巨大な円錐形をした砂盛りの向月台と、波打つ川の砂紋のように砂を敷いた銀砂灘(ぎんさだん)の中には、ガラス光沢をもつ鉱物の石英と真珠光沢のある雲母(きらら)が混じっている。名月のときは、月がまだ姿を見せないうちから、月光が庭をきらきらと光らせたのではなかろうか。さらに、砂に反射した光は、銀箔の建物を映し出し、暗闇に浮かび上がらせるはずだった。だが、銀閣寺は金閣寺のように箔を貼って完成することはなく、漆塗りのままに終わってしまった。

 義政は9歳で家督を継ぎ、15歳で将軍になっている。そして、39歳で実子の義尚に将軍職を譲り、56歳で亡くなった。その間、京の都は大乱で焼け野原となり、飢饉や疫病で何万という人が死んでいった。だが、晩年の義政は失政の悔恨や死者への悼みよりも、挫折感や捨て鉢な思いが強かったといわれている。そして、48歳のときに東山山麓のこの地を選び、一見識のあった庭造りに自らが考える美の世界を注ぎ込んだ。それが銀閣寺の夜の庭である。


月待山の位置はわかりにくい。写真中央部の山麓が銀閣寺庭園である。その銀閣寺の真上で、如意ヶ嶽から伸びる稜線までの間に、山型にふくれたような突起部がある。それが月待山で、山頂は銀閣寺庭園の一部になっている。


   

京都の暮らしことば / 池仁太   


池仁太(いけ・じんた)
土曜日「京都の暮らしことば」担当。1967年福島県生まれ。ファッション誌編集者、新聞記者を経てフリーに。雑誌『サライ』『エスクァイア』などに執筆。現在は京都在住。民俗的な暮らしや継承技術の取材に力を入れている。
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