俳優。本名・佐藤政雄。享年90歳。1950年、27歳の時、銀座で松竹のプロデューサー小出孝に声をかけられ、電車賃とメシ代欲しさについて行った。

 木下恵介監督の『善魔』が初めての映画出演で、そのときの役名を芸名にした。

 俳優として数々の伝説が残っている。年上の田中絹代と一緒に老け役をするため、歯を何本も抜いてしまった。有馬稲子を殴るシーンで本気で20回殴った。森雅之を追いかけ回すとき、監督に真剣を使わせてくれと頼み込み、森が本当に殺されると逃げ回った。名作『飢餓海峡』(監督・内田吐夢(とむ))で左幸子演ずる娼婦との絡みで、左のパンティを引きずり下ろしたなどなど。

 “狂気の役者”とも呼ばれたが、その原点は彼の生い立ちにある。父親の祖父の出身は被差別部落で、父親は電気工事の職人だったが「権力を忌み嫌い、反骨精神にあふれた男」(『生きざま死にざま』KKロングセラーズ刊、以下『生きざま』)だった。奉公先から追い出され孕(はら)んで困っていた娘と出会い、結婚して三國が生まれる。

 学歴のない父親は子どもたちの教育に熱心だった。勉強嫌いの三國が中二のとき学校をやめると言い出して父親にひどく殴られ、家出を繰り返し朝鮮半島にも渡っている。

 召集令状がくるが「赤紙一枚で死ぬことだけは嫌でした」(『生きざま』)と、兵役忌避をして朝鮮半島へ渡ろうとした。直前、母親に書いた手紙を、息子が兵役忌避をして一家が村八分になることを恐れた母親が警察に届けたために三國は捕まり、中国の戦地へ送られてしまうのである。

 三國は「国」ではなく「國」にこだわった。国には王の字が使われているのが嫌だ、国家というのは不条理なものだと話したことがある。父親譲りであろう。

 俳優生活は順調で数々の賞も受賞するが、50歳のころに西アジアにドキュメンタリーの撮影に行き、宗教への関心を芽生えさせる。なかでも鎌倉時代に「仏の前にはみな平等」と説き、命を賭して被差別救済に生きた親鸞に傾倒していき、15年の歳月をかけて映画『白い道』を自ら監督して完成させるのである。(カンヌ映画祭審査員特別賞受賞)

 三國は4度の結婚をしている。3度目の結婚相手は神楽坂の芸者で、その息子が俳優の佐藤浩市である。父親らしいことを何もしてもらわなかった佐藤は、最後まで父とは呼ばずに「三國」と言っていた。

 女性遍歴も有名だ。広島で戦地へ出発する日、これが最後かもしれないと思って駆け込んだ遊郭で「女菩薩」のような女性に出会ったという。彼女が忘れられず、1946年に日本に戻って、すぐに広島に向かったが、そこは無惨な瓦礫(がれき)の原になっていたそうである。

 三國が39歳のころ、当時18歳の女優・太地喜和子(たいち・きわこ)と激しい恋に落ちた。『生きざま』で三國は彼女に「女性観に強い影響を与えられた」と書いているが、太地の一途さに彼のほうから離れていったようだ。後に三國は彼女の「体にひれ伏すことがイヤだった」と語っている。

 晩年は『釣りバカ日誌』の社長役で国民的な人気を得るが、なぜあんな商業映画に出るのかという批判もあった。

 『週刊新潮』(5/2・9号)によれば、死ぬ2日前に病床でこう呟いたという。

 「港に行かなくちゃ。船が出てしまう」

 奇しくも親鸞と同じ卒寿であった。

 

   

読んだ気になる!週刊誌 / 元木昌彦   


元木昌彦(もとき・まさひこ)
金曜日「読んだ気になる!週刊誌」担当。1945年東京生まれ。早稲田大学商学部卒業後、講談社に入社。『FRIDAY』『週刊現代』の編集長をつとめる。「サイゾー」「J-CASTニュース」「週刊金曜日」で連載記事を執筆、また上智大学、法政大学、大正大学、明治学院大学などで「編集学」の講師もつとめている。2013年6月、「eBook Japan」で元木昌彦責任編集『e-ノンフィクション文庫』を創刊。著書に『週刊誌は死なず』(朝日新書)など。
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