親子二代の編纂事業
武藤康史むとうやすし
いつのことだったかどうもはっきりしないのだが、紅野敏郎を囲む会に招かれ、そこで『日本近代文学大事典』の話を聞いたことがある。
場所は帝国ホテルだったような……宴会場ではなく普通の部屋だったような……恐らく数十人が詰めかけ、満員電車の車内さながらであった。立食式だが、食べ物のあるところに行けなかった。
知った顔はほとんどなく、途方に暮れた。高井有一の顔はわかった。面識はなかった。高井有一年譜を作ったのは私ですとよほど名乗り出ようかと思ったが、結局は近寄らなかった。
曾根博義に話しかけられたような記憶もある。初対面だったかもしれない。
スピーチが始まり、早稲田の後輩または受業生とおぼしき誰かが『日本近代文学大事典』編纂当時の思い出を語った。——しめきりを過ぎても原稿を書けずにいたら紅野先生に呼び集められ、みんなで御馳走になった……食べ終ったあと原稿の遅れを厳しく叱責され、震え上がった……というような話だった。
そのあと別の人(たしか東京教育大学出身)が、——わたしも『日本近代文学大事典』に書きましたが早稲田ではないので叱られることもなく幸いでありました……などと言った。
『日本近代文学大事典』の、紅野敏郎は「編集長」であった。三十七人の「編集委員」の中で稲垣達郎が「編集委員長」、紅野敏郎が「編集長」、と第一巻の初めに目立たぬ形でしるされている。
第六巻の「あとがき」によれば、事典の企劃が始まったのは昭和四十六年。すぐ「編集長」になったのだろうか。昭和四十六年なら、紅野敏郎満四十九歳の年だ。刊行開始は昭和五十二年。奥付を見ると、第一巻から第五巻まで——つまり「人名」の三巻と「事項」の第四巻、「新聞・雑誌」の第五巻が——昭和五十二年十一月十八日という同じ日付で出ている。
次の巻が出たのは昭和五十三年三月十五日付。わづか四か月後だが、それでも《第六巻「索引その他」は、予想以上に手間取りましたが、このほど完成致しましたのでお届け致します》《ここにお詫びとお礼を申し上げます》……という、講談社と日本近代文学館連名の「ご挨拶」というほぼB6版の紙片がはさまれている。
全巻をたった四か月で出すために、どれだけ準備を重ねたことか。どんなに粘り強い説得、督促がおこなわれたことか……周到に計画していても、原稿が集まらなければ進まない。「編集長」は煩悶し、懊悩し、あるいは憤慨したかもしれない。とりわけ早稲田で遅い人がいたとしたら……「編集委員長」も早稲田、「編集長」も早稲田なのに、早稲田の人間が原稿を遅らせるとは何事か、と怒髪天を衝いたことであろう。
しかし原稿の遅い人は𠮟咤激励されただけですぐ書くものではなく、それで、飲ませ食わせたそのあとで叱るという方法が採られた……と私は推理する。紅野敏郎は自腹を切ったのではないか。
二〇一〇年、紅野敏郎を見送る会で配られた『紅野敏郎 いかがであったでしょうか。』に略年譜が載っている。一九七六年の項には、《『志賀直哉全集』の終盤と『日本近代文学大事典』の編集が重なり、高血圧症にかかる。降圧剤を服用するようになる》……と書いてあった。
『日本近代文学大事典』増補改訂版の「編集長」が紅野謙介であることは秘密ではあるまい。親子二代または三代にわたる辞書、事典の編纂あるいは修訂事業の産物に『日本国語大辞典』、『中国学芸大事典』があるが、『日本近代文学大事典』もその一つとしておぼえておきたい。
(評論家・日本近代文学館理事)
2024年10月23日
『日本近代文学館』館報 No.312 2023.3.15掲載
※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。