『日本近代文学大事典』と私

刊行から40年以上を経て、増補改訂デジタル版としてジャパンナレッジで公開した『日本近代文学大事典』。その改訂作業に携わった編集委員や、旧版の項目執筆者、愛用者のみなさまが “大事典への思い” を綴ってくれました。

二〇〇字項目執筆の思い出

なかじまくにひこなかじまくにひこ

長く待たれていた『日本近代文学大事典』の増補改訂作業が始まった。講談社刊行の元版六冊が出たのが一九七七、八年、人名編三巻を一冊にまとめ新稿を添えた「机上版」が出たのが一九八四年、もうはるか昔のことだ。理事会のもとに増補改訂の委員会が組織され、安藤宏、紅野謙介、宗像和重、わたくしの四名でデジタル化の作業を始めた。
その後、出久根達郎理事長の肝いりで、日本文藝家協会の周年事業としても位置づけていただき、多額の資金援助が得られることになった。待たれていた一大文化事業であり、増補改訂に向けての期待が大きいことが身にしみた。
この四人のうち、実はこの事典に執筆したのはわたくし一人で、四十年余りという時間の経過を感じさせる。

増補作業のために準備された元版のテキストデータを見て、わたくしが担当した項目数が四十九もあったのは、自分でも驚きだった。
最も文字数の多い人名は「中村稔」で、最初の詩集『無言歌』から『鵜原抄』までのそのお仕事を読み通し、まとめた。中村先生のその後のご活躍を増補するには、今ではその倍以上のスペースが必要だ。
執筆依頼の多くは、四〇〇字、二〇〇字の人名や雑誌名の小項目で、かえってそれが難物だった。短いほうが大変で、エネルギーがいることを、編集委員長の稲垣達郎先生はよく理解され、原稿料の額もそう配慮されていた。

二〇〇字の人名に「市川禅海」があった。海軍軍人で、日露戦争で軍艦初瀬に乗って負傷、片足を切断し出家、体験を全国で語り継いだという。代表作『残花一輪』は大学の図書館にあり、さしあたっての手がかりになった。黒いクロスの厚い本で、少しずつ読み出した頃、神田の古書会館の古本市で入手することができた。
四〇〇字の「中谷無涯」を調べだしている頃、浅草公園裏の古書店で、代表作『すひかつら』と『無涯遺稿』を見つけたりもした。つくづく不思議な縁だと思う。

業績は書けても、事典なので生没年は欠かせない。
現在のようなネット時代ではなく、その探索のため、市川禅海が剃髪した寺、大久保の全龍寺にまず出かけた。「こちらではわからないが、兵学校を出た軍人なら「水交社」で手がかりがないだろうか」と教示を受けた。乃木神社の裏の事務所に行くと、「軍人恩給が出ているはずだから、厚生省に資料があるかもしれない」とのことだった。すぐさま霞ヶ関に駆けつけ、窓口で事情を話すと、奥から役職者の方が出てきて軍歴の原簿を調べてくれ、本籍地を示してくれた。まだ、研究調査のため戸籍資料が受けられる時代で、教わった長野県佐久の役所に手紙を書いて、資料を取り寄せ、無事生没年を書き入れた。
大学の在学や卒業の確認のため、関連する大学の事務所に赴いた体験も多い。
まだご健在の文学者では、ご本人に電話で確かめたこともある。山形にお住まいの歌人の方の歌集『雪谿』の読みを、なんとか確定したい。電話口で、「ゆきだにと読んで下さい」と回答を得て、ルビを書き入れた。

雑誌項目の執筆では、ノートに未見の号を記していき、手立てを尽くした。昭和一〇年代の「作家精神」は四〇〇字項目だが、「第一次」は創刊号から四号まで、と記した。それから四〇年余り経った半年前のこと、扶桑書房の目録に数冊出ていて、五号が出ていたことがわかった。新しくデータを増やすことができる。
わたくしの関係する項目だけでも、終わりのない作業だ。少しでも正確に、少しでも使いやすいように、後世に引き継ぎたい。今後も末永く継続される、誰からも信頼される『日本近代文学大事典』の未来が、楽しみである。

(早稲田大学名誉教授・日本近代文学館専務理事)

『日本近代文学館』館報 No.297 2020.9.15掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

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