日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。


 池井戸潤さんの『下町ロケット』という、下町の「町工場」の技術力の高さを描いた小説をお読みになった方は大勢いらっしゃると思う。あるいは小説は読んでいなくても、話題になったテレビドラマはご覧になったという方ならいらっしゃるかもしれない。
 小説やドラマをご覧になった方は何を当たり前なことをとお思いになるかもしれないが、皆さんは「町工場」を何と読んでいるだろうか。
 正解は「まちこうば」である。もちろん「まちこうじょう」と読んでも決して誤りとは言えないのだが、従来「まちこうば」と言い習わしていて、国語辞典の見出し語も「まちこうば」だけである。
 「工場」は「こうば」とも「こうじょう」とも読めるのだが、どう読むかでニュアンスに違いがある語の一つである。「こうば」と読むと「こうじょう」にくらべて小規模で、あまり機械化が進んでいないような印象を受けるのではないだろうか。したがって「まちこうば」は、町なかにある規模の小さい工業施設ということになるであろう。
 「工場」のようにひとつの熟語に対して二通り以上の読み方をする語を、同形語、同字異音語、同字異義語などと言うのだが、その読み方が音読みか訓読みかといった違いがある場合は、音読みの方が大きい、かたいなどといった印象を与える場合が多い。「工場」の場合、「こう」は音読みなので「場」を音で「じょう」と読むか、訓で「ば」と読むかという違いなのだが、同じような関係にある語に「市場」(「しじょうか」か「いちば」か)などがある。また、「上手」のように、「かみて」と読むか、「うわて」と読むか、あるいは「じょうず」と読むかで意味の全く異なる語もある。
 「こうじょう」と「こうば」は、ともに明治時代から見られる読みだが、当時現在のショッピングモールのような「勧工場(かんこうば)」と呼ばれる商業施設があったため、それとのまぎらわしさを避けるため、「こうじょう」のほうが一般的な言い方になっていったらしい。ただし、「勧工場」の「勧工」は工業の発展をすすめ励ますという意味で、「かん/こうば」ではなく「かんこう/ば」と切るのが正しい。
 書籍版の辞書では同形語を見つけるのはけっこう難しかったのだが、電子辞書によってかなり楽に探せるようになった。そして、これこそ電子辞書ならではの楽しみ方の一つでもある。お手元に電子辞書や辞書のアプリがあったら、他にどのような語があり、それらが読みの違いによって意味もどう変わるのか、ぜひ検索してみていただきたい。

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 「へそくりを叩いて腕時計を買う」などというとき、皆さんは「叩いて(叩く)」を何と言っているであろうか。大方は「はたいて(はたく)」ではないかと思う。ところが、「たたいて(たたく)」と言っている人もいるようなのである。もともと、財産や持ち金を全部使いつくすという意味の場合は「はたく」が使われ、「たたく」が使われることはなかったのであるが。
 そもそも「はたく」と「たたく」とでは、手や手で持ったもので何かを打つという意味では共通しているが、ニュアンスがかなり異なる。
 「はたく」の原義は、砕いて粉末にする、粉にするという意味で、「搗(つ)く」の意味に近い。これが、うち払う、払いのけるという意味になり、さらにごみやほこりをたたいて落とすという意味になる。「ほこりをはたく」などというときの「はたく」はこの意味で、そうするための「はたき」と呼ばれる道具まである。財産や持ち金を全部使いつくすという意味はおそらくこの意味から派生したものであろう。「財布をはたく」などという言い方は、まさに中身をすべてたたいて落とすということを表しているものと思われる。
 一方「たたく」は、何度も繰り返して打つ、続けて打つという意味が原義である。しかも、「たたく」には「はたく」にはある「払いのける」という意味は元来なかったのである。
 ところが、「はたく」も「たたく」も漢字では「叩く」と書かれる。国語辞典の表記欄でも、「はたく」「たたく」ともに「叩く」という漢字表記が示されているはずである。ただ、この「叩」という漢字は常用漢字ではないため、通常はともに仮名書きにされることも多い。また、「叩」は字音は「コウ」だが、字訓は漢和辞典でも「たたく」しか載せていないものが多いため、「はたく」は仮名書き、「たたく」は「叩く」と使い分けられることもある。
 従って「有り金(へそくり)をはたく」という場合は、「はたく」をわざわざ漢字にするとかえって混乱を招くことになるのだが、どうやら実際にその混乱が生じ始めているというわけである。 
 このようなこともあって、最近は国語辞典によっては「たたく」に財布のお金をすっかり使うという意味を載せているものが出始めている(『明鏡国語辞典』『大辞泉』など)。『日本国語大辞典』にも残念ながら実際の使用例は示されていないのだが、すっかり使い果たすという意味が載せられているのである。
 ただし、このような意味の「たたく」は最近生まれた言い方かというと、必ずしもそういうわけではない。織田作之助の未完の小説『土曜夫人』(1946年)にも、

 「なけなしの金をたたいてずるずると梯子酒を続けようというのは、飲み足らぬというよりは、むしろアパートへ帰るのがいやだったからだ」

と使われているのである。
 「はたく」と「たたく」では「は」「た」の違いだけなので音も似ていなくもない。「有り金をたたく」という言い方はそういったこともあって、目立たないがだいぶ前からじわじわと広まっているのかもしれない。

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 物事に着手したり、行動を開始したりするという意味で、「火蓋を~」という言い方があるのだが、皆さんは「~」の部分を何と言っているであろうか。
 従来は、「火蓋を切る」が正しい言い方だとされてきた。ところが近年、「火蓋を切って落とす」という言い方が増えているようなのである。
 インターネットで検索すると「切って落とす」の用例はけっこう見つかるし、国立国語研究所のコーパスにも以下のような用例が存在する。
 「太平洋戦争の火ぶたが切って落され、掘畑も翌年陸軍に徴用されてしまった。」(杉山隆男『メディアの興亡』1989年)
 そしてさらには「火蓋を落とす」という用例まである。
 私が普段使っているパソコンのワープロソフトは、「火蓋を切って落とす」と書こうとしたときはふつうに変換してくれるのだが、「火蓋を落とす」と入力すると《「火蓋を切る」の誤用》と表示される。「切って落とす」よりも単に「落とす」と書く人のほうが多いということなのであろうか。
 いずれにしても「火蓋を切って落とす」は、おそらく「幕を切って落とす」との混同から生まれ言い方なのであろう。
 「火蓋」は、火縄銃の火皿(火薬をつめるところ)の火口をおおうふたのことで、「火蓋を切る」で、火縄銃の火蓋を開いて点火の用意をする、また、発砲するという意味になる。
 似たようなことばに、「口火」がある。こちらは火縄銃の火蓋に用いる火のことだが、爆薬を爆発させるためのもととなる火の意味としても使われる。この「口火」も、「口火を切る」の形で、物事をしはじめる、きっかけをつくるという意味や、話を始めるという意味で使われることがある。しかも面白いことにこの「口火」にも誤用とされる言い方があり、『大辞泉』や『明鏡国語辞典』などはでは「口火を付ける」は誤りだと注記までしている。
 ただし「口火を付ける」はけっこう古くから用例が見られ、たとえば国木田独歩の『初恋』(1900年)にも、
 「この老先生が兼(かね)て孟子を攻撃して四書の中でも之(こ)れだけは決して我家に入れないと高言して居ることを僕は知って居たゆえ、意地悪く此処(ここ)へ論難の口火をつけたのである」
などという例がある。
 実は用例主義の『日本国語大辞典』(『日国』)は、「口火を付ける」をこの独歩例から認めていて、見出し語の形も「口火を=切る[=付ける]」としているのである。「口火を付ける」は点火をするための火を付けるということからの類推から生まれた言い方なのであろう。
 長年『日国』に関わってきた者としては、「火蓋を切って落とす」はまだ認める勇気はないのだが、「口火を付ける」は容認したいと思っている。皆さんはいかがであろうか。

〔本稿は、国語研究所とLago言語研究所が開発したNINJAL-LWP for BCCWJを利用しました。〕

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第295回
 

 今日1月11日は関東では「鏡開き」の日である。「鏡開き」は正月の鏡餅(かがみもち)を下げて食べる儀式で、江戸時代には、男子は鎧兜(よろいかぶと)に、婦女は鏡台に供えた鏡餠を1月20日に取り下げ、割って食べたことから始まるという。鏡餅というのは平たく丸い形状が、昔の金属でできた鏡に似ているところからの呼称である。
 鏡餅は刃物で切ることを忌み、槌(つち)でたたいて割るのだが、「割り」ではなく「開き」というのは縁起を担いで、めでたいことばを使ったのである。
 現在のように1月11日に行われるようになったのは、徳川3代将軍家光(いえみつ)の忌日が20日であるため、11日に繰り上げられたという説があるが真偽のほどはわからない。
 ところで縁起を担いで「鏡開き」と言うようになったと書いたが、実際には「鏡割り」も一般に使われることが多いであろう。ただ、「鏡割り」は鏡餅を割ることではなく、祝宴などで、酒樽のふたを槌(つち)などで割り開くことをいうことの方が多いかもしれない。ただし酒樽のふたを割ることは、「鏡抜き」ということもある。確かに酒樽のふたを槌などでたたく行為は、「割る」というよりは「抜く」という方が正確に表現しているような気がしないでもない。酒樽のふたを鏡というのも、それが円形で昔の鏡を連想させるからである。
 以上のように、「鏡開き」「鏡割り」「鏡抜き」という3つの語が存在するのだが、これらの語の扱いが国語辞典によって違うのである。小型の辞典の場合、「鏡開き」はあっても「鏡割り」「鏡抜き」は載せていない辞典も多いのだが、違いとはそのことではなく、「鏡開き」に酒樽を割り開くという意味を載せているかどうかということである。
 主な辞典を引いてみると以下のように分けられる。

「鏡餅を割る」という意味のみ:日本国語大辞典、新明解国語辞典、岩波国語辞典
「鏡餅と酒樽のふたを割る」という2つの意味がある:大辞泉、大辞林、広辞苑、新選国語辞典、明鏡国語辞典、三省堂国語辞典

 2つの意味を載せる辞書のほうが多くなってはいるが、各辞書の扱いから推察すると、「鏡開き」に「酒樽のふたを割る」という意味が加わったのは比較的新しいことのように思われる。たとえば1988年発行の『大辞林 初版』には鏡餅の意味しかないが、1995年発行の第二版では両方載せられていることからもそれが裏付けられそうだ。NHKは、酒樽の場合は「鏡開き」は使わず、「四斗(しと)だるを開ける」のように言い換えているようだ(『NHK ことばのハンドブック』)。
 酒樽のふたを割ることを、本来は「鏡割り」「鏡抜き」などといっていたものが、やはり縁起を担いでもともとは鏡餅を割る意味だけであった「鏡開き」が使われるようになったということなのであろう。

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 心の中に心配事や憂いごとがあったり、他人のいやな言動に不快を感じたりして表情に出すことを、皆さんは「眉をひそめる」「眉をしかめる」のどちらを使うだろうか。
 2014(平成26)年度の文化庁「国語に関する世論調査」では、それについての設問があった。結果は、「眉をひそめる」を使うという人も「眉をしかめる」を使うという人もともに44.5%と、きれいに分かれてしまった。しかも、興味深いことに50代、60代では「眉をしかめる」派が多くなるのである。これはいったいどういうことなのであろうか。
 この2つの言い方はどういう関係かというと、従来は「眉をひそめる」が本来の言い方で、「眉をしかめる」は誤用だと言われてきた。実際『明鏡国語辞典』(大修館)では「眉をしかめる」は誤用だと言い切っている。「顔をしかめる」との混合だということのようである。
 だが、本当に「眉をしかめる」が誤用なのだろうかというのが今回のテーマである。別に自分が「眉をしかめる」派が多い世代に属するから、それを弁護しようというわけではないのだが。
 『日本国語大辞典』(『日国』)では「眉をひそめる」の最も古い例として以下のものを載せている。

*将門記承徳三年点〔1099年〕「眉を[口+頻](ヒソメ)て涕涙す」

 「将門記承徳三年点」というのは平将門の乱を漢文体で描いた軍記物『将門記』を、承徳三年に訓読したものである。
 一方、時代はかなり下るが、「眉をしかめる」にも以下のような用例がある。

*清原国賢書写本荘子抄〔1530年〕六「深[月+賓]は深く眉をしかむるを云」

 『清原国賢書写本荘子抄』は、室町後期の漢学者で国学者でもあった清原宣賢(きよはらののぶかた)が漢籍の『荘子』を講義した際の筆記録である。それをのちに清原国賢(きよはらのくにかた)という人が筆写したものがこの本である。「眉をしかむる」という部分は、おそらく清原宣賢が語ったものとして原本からそうなっていたのであろう。そして、それを筆写した国賢も何の疑問も感じずにそのまま書き写している。講義をした宣賢も筆写をした国賢もこの時代の最高の知識人だという点に注目していただきたい。そのような人たちが使っている「眉をしかめる」を誤用と断定していいのだろうかという疑問がわいてくる。
 さらに「眉をひそめる」と同じ意味の「眉を○○る」という言い方は、『日国』を見ると、他にも存在することがわかる。
 「眉を曇(くも)らす」「眉に皺(しわ)を寄(よ)せる」「眉を集(あつ)める」「眉を寄(よ)せる」などである。ただしこれらの語は『日国』ではすべて「眉をひそめる」に解説をゆだねている。つまり、「眉をひそめる」が最もポピュラーな言い方であるとしているわけで、そのことに異議を唱える気はまったくない。ただ、誤用だとされる「眉をしかめる」もそのバリエーションの一つと考えた方がいいのではないかと思うのである。

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