日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。


 日本を東西に分けてひとくちに「東日本」「西日本」と言うが、その境界がどこかとお考えになったことはあるだろうか。
 結論から先に言うと、使われる分野によって異なるため、ここが唯一の境界だと言えるところはない。だからと言うわけではないのだが、小型の辞書では分量の制約があることからそれらすべてのケースを記載できず、どのように解説すべきか悩みも大きい。
 たとえば地質学では、その境目は糸魚川―静岡構造線だとしている。糸魚川―静岡構造線は、新潟県の糸魚川市から松本盆地・甲府盆地の西を通って静岡市付近へ達する本州の中央部をほぼ南北に走る大断層である。いわゆるフォッサマグナの西縁をなし、これを境に日本列島の地質構造が異なるのである。
 また、気象用語では、
・東日本…関東甲信、北陸、東海
・西日本…近畿、中国、四国、九州北部、九州南部
とし、さらに北海道、東北地方は「北日本」と呼んでいる。
 ほかにも、引っ越しのとき、たとえば「東日本」から「西日本」に転居した場合、電気器具のヘルツ表示を確かめるようにと言われた方もいらっしゃるであろう。これは、家庭用の電気は交流と言って電気の流れる方向が1秒間に何十回も変化しているのだが、この流れの変わる回数を周波数と言い「Hz:ヘルツ」で表示される。そしてこの周波数が新潟、群馬、埼玉、山梨、静岡は富士川あたりより東が50ヘルツ、ほかは60ヘルツの電気が送られていて異なるからである。しかもやっかいなことに、一部中部電力のエリアでは混合している地域もある。なぜこのようなことになったのかと言うと、明治期に発電機が輸入された際、東日本では50ヘルツのドイツ製が、西日本では60ヘルツのアメリカ製が広まったため、今でもその流れをくんでいるからである。

 以上のようなわけで、国語辞典では最大公約数的な意味を記述しようとするあまり、「東日本」を中部地方以東、「西日本」を中部地方以西としているものが多くなっている。これでは、物事をはっきりさせなければ気が済まないという方は、中部地方はいったいどちら側なのか突っ込みを入れたくなるかもしれない。別に中部地方のせいではないのだが、中部地方のどこで分けるかによって微妙に食い違いが生じてしまうということをご理解いただきたいのである。

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 海産動物を総称して「魚カイ類」と言うが、「カイ」の部分の漢字をどう書くかで悩むことはないだろうか。「魚介類」か「魚貝類」かで。
 「介」と書くと、この漢字にはよろい、甲羅、殻などという意味があるため、貝類だけでなく甲羅をまとった生物であるカニやエビなども指すことになる。一方、「貝」と書くと貝類だけと受け取られるおそれもあり、海産動物の総称とはいえなくなってしまいそうである。
 しかも、「貝」という漢字は、「かい」という読みは音だと思っている方も大勢いらっしゃるだろうが、実は訓なのである。音は「ばい」である。従って、「魚介類」は「介」を「かい」と読むのはどちらも音読みなので問題はないのだが、「魚貝類」を「ギョカイ」と読むと重箱読みになってしまう。
 このようなこともあって、国語辞典によっては見出し語の表記欄には「魚介(類)」だけしか示していないものもある。新聞では、たとえば時事通信社編の『最新用字用語ブック』でも「ぎょかい(魚貝)→魚介~魚介類」として、「魚介(類)」と書くようにしている。
 「魚介」と「魚貝」ではどちらが古くから使われていたかというと、「魚介」のほうが古い。「魚介」は江戸時代後期の使用例があるが、「魚貝」は近代になってからの例ばかりである。
 ことば遣いに一家言あった芥川龍之介は、「魚介」も「魚貝」も使っているのだが、明らかに区別して使っている。たとえば、『澄江堂雑記』というエッセイ集の中で、

 「按(あん)ずるに『言海』の著者大槻文彦(おほつきふみひこ)先生は少くとも鳥獣魚貝(ぎょばい)に対する誹謗(ひばう)の性を具へた老学者である。」

とあるのだが、「魚貝」は「ぎょばい」と読ませているのである。
 ただ、「魚貝」を「ぎょばい」と読むと、耳で聞いただけでは何のことかわからないという人も多くいるだろうから、「魚貝(類)」は間違いではないとしても、「魚介(類)」と書いたほうが無難なのかもしれない。

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 先ずは以下の文をお読みいただきたい。夏目漱石の『吾輩は猫である』の一節である。

 「ほんとに此頃の様に肺病だのペストだのって新しい病気許(ばか)り殖(ふ)えた日にゃ油断も隙(すき)もなりゃしませんのでございますよ」(二)

 いかがであろうか。オヤ?と思いになったことはないだろうか。冒頭でなぜこの一節を引用したのかというと、「油断も隙もなりゃしません」の部分に注目していただきたかったからである。
 お手元に国語辞典があったら、「油断」という語を引いていただきたい。おそらくその子見出し、あるいは例文に「油断も隙も……」という表現が載せられていると思うのだが、その「……」の部分をよく見ていただきたいのである。ほとんどの辞典はその部分は「ない」となっていて、「油断も隙もない」の形で示されているはずである。
 だが、この『吾輩は猫である』の例はというと、「油断も隙もなりゃしません」つまり「油断も隙もならない」の形なのである。だが、もちろんこれは漱石独自の用法ではない。「油断も隙もならない」の用例は、江戸時代に大田全斎という儒学者が編纂した国語辞書『俚言集覧』(1797年以降成立)にも掲載されていて、現時点ではこれがもっとも古い例だと言える。
 一方、「油断も隙もない」の使用例は、『日本国語大辞典』(『日国』)を見る限り明治時代以降のものだけなのである。そのいちばん古い例は、田山花袋の小説『妻』(1908~09)の「机を並べた人々が、皆なかれの敵で〈略〉油断も隙も無いやうに思はれる」という例である。
 だとすると、「油断も隙もならない」が古い形で、明治後期以降「油断も隙もない」が優勢になっていくと言えるのかもしれない。現代語が中心の国語辞典は、『大辞泉』『広辞苑』『大辞林』も含めて、「油断も隙もない」の形しか載せていない。だが、『日国』は「油断も隙もならない」の用例もあることから、見出し語の形は「油断も隙もない」と「油断も隙もならない」と両形を示している。
 ちなみに「油断も隙もできない」という形で使われている例が、薄田泣菫、国枝史郎にある。バリエーションなのか、思い違いなのかよくわからず、扱いに困っている。

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 「初心にカエル」というときの「かえる」だが、「返る」と書くか、「帰る」と書くかで悩んだことはないだろうか。
 「初心」とは、最初に思い立ったときの心境という意味で、そこに「かえる」すなわち立ち戻るということだが、その場合、「返る」と書くか「帰る」と書くかで、若干ニュアンスが異なりそうである。もちろんそれは、同じ読み(同訓)でありながら漢字が違う(異字)であるということによるのだが。
 「返る」は、モノが元の状態に戻るという意味であるのに対して、「帰る」は人が自分の意志で元の場所へ戻るという意味の違いがある。従って、「初心にカエル」の場合、心のありかたというモノが主体と考えれば「返る」であろうし、人が主体と考えれば「帰る」を使うことになるであろう。
 どちらの漢字を使うかでこのような意味の違いが生じることから、国語辞典でもどの意味と考えるかで表記に揺れが見られる。
 手元にある主な国語辞典を見てみると、「初心にカエル」という見出し語は無いが、それが例文として挙げられている場合は以下のようになっている。

返る:新明解国語辞典 三省堂国語辞典
帰る:明鏡国語辞典

 ただ、最近は「カエル」の部分を仮名書きにするものも増えてきている。たとえば、『新選国語辞典』『現代国語例解辞典』『広辞苑』『大辞林』などがそれである。
 新聞はどうかというと、たとえば時事通信社の『用字用語ブック』には、「帰る」のところに「初心に帰る」がある。インターネットで検索すると、やや「帰る」のほうが優勢に感じられるのはこのせいかもしれない。
 だが、国語辞典ではすでに多数派となっているように、あえて一方には決めず、「初心にかえる」と仮名書きにするという方法もあるような気がする。

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 お店のレジで代金を払い金銭を受け取ったしるしが欲しいときに、「リョーシューショをください」と言っているだろうか。あるいは、「リョーシューショーをください」と言っているだろうか。「リョーシューショ」「リョーシューショー」どっちだっけ、と思いつつ、何となく「リョーシューショ」と言っている人が多いかもしれない。だが、そんな人でも、店員さんから渡された紙片に「リョーシューショー」、つまり「領収証」と書かれていても、あれ?とは思わないであろう。
 だが、よくよく考えてみれば「リョーシューショ」は「領収書」で、「リョーシューショー」は「領収証」だから、漢字表記が異なるわけで、意味も「書」と「証」とでは違いがありそうである。
 漢字の違いから言えば、「領収書」は受け取ったことを証明した書類ということであり、「領収証」は受け取ったことの「証(あかし)」ということになるであろう。
 しかし、結論を先に述べてしまうと「領収書」も「領収証」も実際にはほとんど同じ意味で使われているのである。
 だったら、そんなことどうでもいいのではないかとお思いになる方も大勢いらっしゃるであろう。確かにその通りではあるのだが、わざわざ取り上げたのは、こんなことも辞書編集者を悩ませていることばだということを知っていただきたかったからである。と言うのは、辞書によって、「領収書」「領収証」のどちらを見出し語とするか、実はまちまちなのである。
 主な国語辞典の見出し語の立て方は、以下のように分けられる。

領収書:広辞苑 大辞林 新明解国語辞典 三省堂国語辞典 明鏡国語辞典 新選国語辞典
領収証:岩波国語辞典
領収書・領収証 両方:大辞泉 日本国語大辞典 現代国語例解辞典

 法律はどうかというと、たとえば、現行の「印紙税法」では別表第一に、課税物件表というものがあり、その物件名の16「配当金領収証又は配当金振込通知書」には、「配当金領収証とは、配当金領収書その他名称のいかんを問わず、配当金の支払を受ける権利を表彰する証書又は配当金の受領の事実が証するための証書をいう。」とある。すなわち、「領収証」「領収書」という名称をどちらも認めているのである。
 ちなみに私の手元にある大手文具メーカーのものは、「領収証」と書かれている。
 一般的な印象としては「領収書」の方が優勢に思えるが、やはりどちらでもいいということになるのであろう。

News 1  神永さんの著書『悩ましい国語辞典』の文章がラジオで朗読!
「日本語、どうでしょう?」の記事がもとになった神永さん初の著書『悩ましい国語辞典―辞書編集者だけが知っていることばの深層―』がラジオ日本の番組「わたしの図書室」で朗読されます。日本テレビの井田由美アナウンサーが朗読を担当。井田アナの美声で、神永さんの文章がどう読まれるのか、こうご期待!
○ラジオ日本 6月23日(木)&30日(木)23:30~24:00
○四国放送 6月25日(土)&7月2日(土)5:00~5:30
○西日本放送 6月26日(日)&7月3日(日)23:00~23:30!
くわしくはこちら→ラジオ日本「わたしの図書室」

News 2 神永さんがジャパンナレッジ講演会に登場!
「初老は何歳から?」「弱冠は何歳から何歳まで使えるの?」「夕焼け小焼けの“小焼け”って何?」「明治時代に出現した謎の携帯電話とは?」──昔と今では意味が違う言葉がいっぱい! 目まぐるしく変わる日本語、それに対応する辞書編集の現場について神永さんが解説!

日比谷カレッジ第九回ジャパンナレッジ講演会
「編集者を悩ませる、日本語④“悩ましく”も面白いことばの世界」
■日時:2016年7月28日(木)19:00~20:30(18:30開場)
■会場:日比谷図書文化館4階スタジオプラス(小ホール)■定員:60名■参加費:1000円
■お申し込み:日比谷図書文化館1階受付、電話(03-3502-3340)、eメール(college@hibiyal.jp)にて受付。
くわしくはこちら→日比谷図書文化館

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