日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。


 先ずは表題に注目していただきたい。「『猫なで声』ってどんな声?」の間違いではないかとお思いになった方もいらっしゃるのではないだろうか。だが、「誰の声?」としたのにはそれなりの理由があるのである。
 お手元に国語辞典があったら「猫なで声」を引いていただきたい。そしてもし複数の辞書をお持ちだったら、できれば引きくらべをしていただきたい。解説の内容が以下の3つのパターンに分かれているはずである。

 (1)ネコが人になでられる時に出すような、こびを含んだ声音(こわね)。
 (2)ネコを自分になつかせようと、甘く、柔らかく言いかける語調。
 (3)(1)(2)の両方を紹介しているもの。

 多数決で決めるようなことではないのだが、国語辞典ではおそらく(1)の意味が主流であろう。しかし、(2)の意味で使っているという方も大勢いらっしゃるのではないだろうか。
 『日本国語大辞典』を引くと、「猫なで声」のもっとも古い例は『人天眼目抄(史料編纂所本)』のものである。『人天眼目抄(にんでんがんもくしょう)』というのは、『人天眼目』という禅宗五派の綱要を記した書の注釈書で、文明3~5年(1471~73)にかけて曹洞宗の僧・川僧慧済(せんそうえさい)が行った講述の記録である。以下のような例だ。

 「をそろげに嗔(いか)る時もあり、又猫撫声(ねこなでごえ)になる時もあり」

 これだけだと少しわかりにくいのだが、原典に当たるとこの前に「子をそだてるやうだぞ」とあるので、この例はなでる側が呼びかける声を意味していると思われる。
 だが、もちろんなでられる側が発する声の例もある。江戸時代の寛永の末頃(1644年頃)に書かれた、仮名草子というジャンルの小説『祇園物語』には、

 「猫なで声をし、人に敬(うやまわ)れんとするものあり」

とある。読んでおわかりのように、なでられる側が発する声である。
 つまり、「猫なで声」はかなり古くから意味が揺れていたのである。それを考えると、国語辞典としては両方の意味を紹介しておいたほうが無難なのかもしれない。

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 顔や物などの表面または前面が上をむくことを「あおむく」というが、この語を書くとき、「あおむく」と仮名書きにするだろうか、それとも「仰向く」と漢字で書くことが多いだろうか。
 仮名書きにしても漢字で書いてもどちらも間違いではないのだが、辞書と新聞とでは、立場が違うのである。
 辞書は「仰向く」と漢字派、新聞は「あおむく」と平仮名派である。なぜそのようなことになるのか。
 『日本国語大辞典』によれば、「あおむく」は古くは「あふのく」で、「あふ」は「仰ぐ」の語根、「のく」も仰ぐ意で、その「あふのく」が「あふぬく」に転じ、さらに「仰向く」と意識されて音変化を起こしたものかとある。「語根」とは、単語の意味の基本となる、それ以上分解不可能な最小の単位のことである。また「のく」は、今までいた場所から離れる意味の「のく(退く)」とは別語である。この「仰向く」と表記されるようになったのは、近世中期以後のようである。
 新聞などで「あおむく」を仮名書きにしているのは、この語が以上のような経緯で生まれた語であることを勘案して、「仰向く」と書くのは本来的ではないと判断したからかもしれない。ただし、一般的にはどうかというと、「仰向く」と漢字で書くほうが圧倒的に多そうである。
 ちなみに、「仰」は常用漢字であるが、訓として載せられているのは「あおぐ(仰ぐ)」と「おおせ(仰せ)」だけである。つまり「あお」の読みが使えるのは「仰ぐ」の場合だけで「仰」の字は「あおむく」には使えないと考えるのがふつうである。従ってほとんどの国語辞典は、「仰向く」の表記欄では、「仰」には「常用漢字表」に掲げられた音訓以外の読み方であることを示す記号がつけられている。
 ただ、私が調べた限りでは唯一『岩波国語辞典』には「仰向く」にその記号が付けられていない。どうしてなのかその理由を知りたいところである。

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 十字形に交差する道路を「十字路」と言うことに異存はないであろう。では、丁字形に交差している道路は何と言っているだろうか。丁字形だからやはり「丁字路」だろうか。だが、「T字路」だと思っている方も、大勢いらっしゃるのではないだろうか。
 「テイジロ」と「ティージロ」、発音も「テイ」は「ティー」の訛(なま)りのようでもあるが、もちろん「丁(てい)」は漢字、「T(ティー)」はアルファベットである。字形も似ているのでややこしい。
「丁字路」は「十字路」などと同じく、道路の交わる形を漢字の字形を借りて表した語で、もちろん「T字路」ではなく「丁字路」が本来の言い方である。
 「道路交通法(1960年)」も第二条で「十字路、丁字路その他二以上の道路が交わる場合に」などと使っている。
 この漢字の「丁」の字のような形だという表現は、けっこう古くから見られる。『日本国語大辞典』によれば、『仏制比丘六物図(ぶっせいびくろくもつず)』という平安時代の仏教書の講義録である『六物図抄』(1508年)の例がもっとも古い。以下のような内容である。

 「丁字(ていじ)にぬうは鳥足縫(ちょうそくほう)の事也」

 「鳥足縫」というのは、鳥の足型のように三つに分かれたように縫う縫い方で、『六物図抄』はこのあと「これを三叉(さんさ)の相(そう)とも云ぞ。鳥の爪を前へ三つかけてつかむが如し」と続く。
 「丁字路」と「T字路」とではどちらが優勢かという調査は残念ながら無いようだが、「T字路」は口頭語としても、表記する場合でもかなり広まっているような気がする。そのため、国語辞典ではほとんどが「T字路」も空見出し(参照見出し)として載せている。NHKも、最近は「T字路〔ティージロ〕」のほうがよく使われるという見解のようだ(『NHK ことばのハンドブック』)。だが、新聞はいまだに「丁字路」だけを使うようにしている。
 「丁字」の複合語は、他にも「丁字定規」「丁字帯」などがある。だが、これらの語も最近では「丁字」よりも、「T字〔ティージ〕」のほうが優勢な気がする。
 蛇足ではあるが、「合田丁字路(1906~1992)」と号するホトトギス同人で、「四国新聞」俳壇の選者をつとめた俳人がいた。「ごうだ・ちょうじろう」と読ませていたらしい。

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 なんの苦労もしないで利益を得ることを「ぬれ手で粟(あわ)」という。ぬれた手で粟をつかめば、粟粒がそのまま手についてくるところからそういうのである。
 この「ぬれ手で粟」だが、1つの語の中に揺れが複数見られる、注目すべきことばなのである。
 ひとつは「粟」の部分。もちろん「粟」はイネ科の植物で、日照りに強く、やせ地でもよく育つので、かつては盛んに栽培された穀物である。この「アワ」を同音の「泡」と考え、「ぬれ手で泡」だと勘違いしている人がいるらしいのである。同音というだけでなく、水にぬれた手ということで、「泡」が連想されたのかもしれないが、やはり「粟」が正しい。
 ただしこの誤解は決して最近のものではなく、『故事俗信ことわざ大辞典』(小学館)によれば、『日本俚諺(りげん)大全』という明治後期のことわざ辞典にも「濡手で泡」の形で収録されている。『日本俚諺大全』は、明治から昭和にかけて活躍したジャーナリスト宮武外骨(みやたけ・がいこつ)が発行した風刺雑誌『滑稽新聞』に連載された記事をまとめた書物である。
 この「ぬれ手に泡」だと思っている人は、「泡と消える」との連想から、いくら努力しても実りがないことの意だと誤解していることもあるらしい。
 もうひとつの揺れは、「ぬれ手で粟」ではなく「ぬれ手に粟」という言い方である。私のパソコンのワープロソフトでは「ぬれ手に泡」と入力すると《「ぬれ手に粟」の誤用》と表示されるので、どうやら「ぬれ手に粟」の形も認めているらしいのだが、本来の言い方はもちろん「ぬれ手で粟」である。
 この「ぬれ手で粟」は、歌舞伎ファンなら、河竹黙阿弥作の『三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)』の登場人物お嬢吉三の名台詞でよくご存じであろう。

 「月も朧(おぼろ)に白魚(しらうお)の篝(かがり)も霞む春の空、〈略〉浮(うか)れ烏(がらす)のただ一羽塒(ねぐら)へ帰る川端(かわばた)で、棹(さお)の雫(しずく)か濡手で粟、思いがけなく手に入(い)る百両、〈略〉こいつぁ春から縁起がいいわえ」

という部分である。
 なお、「ぬれ手で粟」が本来の言い方だと書いたが、『日本国語大辞典』によれば「ぬれ手に粟」も明治時代の横山源之助のルポルタージュ『日本の下層社会』(1899年)に使用例がある。また、室町時代後期の資料には「ぬれ手の粟」という語形も見られる。
 こうした用例を見ていると、「ぬれ手で粟」がぜったいに正しいと言い切れるかどうか、少し自信がなくなってくる。

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第324回
 

 毎年一定の時期に慣例として行なわれる行事や儀式を「年中行事」と言うが、皆さんはこの「年中行事」を何と言っているだろうか。「ねんちゅうぎょうじ」だろうか、あるいは「ねんじゅうぎょうじ」であろうか。
 「年中行事」の読みは、辞書の世界でも、テレビラジオなどの放送の世界でも揺れているのである。
 一般的な国語辞典では「ねんちゅうぎょうじ」で見出し語を立てているものがほとんどなのだが、歴史事典や百科事典などは「ねんじゅうぎょうじ」と読ませているものが多い。また、『NHKことばのハンドブック』を見ると、ネンジューギョージを第1の読み、ネンチューギョージを第2の読みにしているので、NHKのアナウンサーは「ねんじゅうぎょうじ」派が多いのかもしれない。
 歴史事典や百科事典に「ねんじゅうぎょうじ」とするものが多いのは、「年中行事」は今でこそ民間で行われる行事や祭礼のことを言っているが、元来は宮中の公事(くじ)、すなわち公に行われる儀式のことで、古くはこれらを描いた『年中行事絵巻』という絵巻物や、朝廷の年中行事を多くの古記を元に解説した『年中行事秘抄』といった文献が残されているからかもしれない。これらはいずれも「ねんじゅうぎょうじえまき」「ねんじゅうぎょうじひしょう」と読みならわされている。NHKが「ねんじゅうぎょうじ」を優先させているのは、こうしたことを根拠にしているのだろうか。
 ただ、「ねんちゅうぎょうじ」と「ねんじゅうぎょうじ」とでは、どちらが古い読みなのかはよくわかっていない。『日本国語大辞典』には「年中行事」の使用例は平安時代のものからあるのだが、残念ながら何と読んでいたのかわからないからである。
 このように読みが揺れているということは、どちらで読んでもかまわないと言うことになるのかもしれない。ただ「年中行事」以外の、「年中無休」や「年中忙しがっている」のようなときは、「ねんじゅう」と言う方が多いようである。

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