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釈迦

ジャパンナレッジで閲覧できる『釈迦』の世界大百科事典・岩波 世界人名大辞典・国史大辞典のサンプルページ

世界大百科事典

釈迦
しゃか

仏教の開祖。釈迦はサンスクリット語のシャーキャムニŚākyamuniの音訳,釈迦牟尼(むに)(〈釈迦族の聖者〉)の略。釈尊(しやくそん)は釈迦牟尼世尊(せそん)(尊称)の略。釈迦は歴史的実在の人物であり,その人種的帰属(モンゴル系かアーリヤ系か)や死没年(前483年,前383年など,南方仏教圏では前543年)は学問上の問題として論じられている(釈迦が80歳で死去したことは定説とされる)。

 インド・ネパール国境沿いの小国カピラバストゥKapilavastuを支配していた釈迦(シャーキャ)族の王シュッドーダナŚuddhodana(浄飯(じようぼん)王)とその妃マーヤーMāyā(麻耶)の子としてルンビニー園で生まれた。姓はゴータマGotama(釈迦族全体の姓),名はシッダールタSiddhārtha(悉達多)。生後7日目に母を失い,以後は叔母(実は継母でもある)マハープラジャーパティーに育てられた。アシタ仙人から,〈長じて偉大な王になるか,偉大な宗教者になる〉との予言をうけたため,王になってほしいと願う父王によって何ひとつ不自由のない王宮の生活があてがわれた。しかし,耕作の光景に接し,農夫や牛馬の労する姿を見,露出した虫が鳥についばまれるさまを見て世の苦しみを悟る。また城の東・西・南・北の門から外出しようとして老人,病人,死人,出家者に遭遇し,自分の進むべき道を予見する。ヤショーダラーを妃とし,一子ラーフラRāhulaをもうけたあと,一夜,愛馬カンタカと御者チャンダカを従えて城を脱出し,マガダ国で沙門(修道者)の生活に身を投ずる。2仙人に禅の指導をうけたが満足せず,6年苦行に励んだが得るところなく,村娘スジャータの提供する乳粥で体力をつけ,ネーランジャラー河畔のアシュバッタ樹の根方で瞑想に入り,ついに菩提(悟り)を得て仏陀(悟った人)となった(アシュバッタ樹はこれよりのち菩提樹と呼ばれる)。最初の説法はムリガダーバMṛgadāva(鹿野苑(ろくやおん))で5人の比丘(びく)に対して行われた。その後,拝火外道のカーシャパ3兄弟とその弟子たち合計1000人や,シャーリプトラ(舎利弗),マハーマウドガリヤーヤナ(目連),マハーカーシャパ(摩訶迦葉)らが弟子になった。故国からは従兄アーナンダ(阿難),理髪師ウパーリ(優波離),息子ラーフラ(羅睺羅)が弟子に加わった(十大弟子)。比丘(男の出家者)のほかに,比丘尼(女の出家者),優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)(男女の在家信者)もできた。釈迦はガンガー(ガンジス川)中・下流域の平原,なかんずくマガダ国のラージャグリハ(王舎城)とコーサラ国のシュラーバスティー(舎衛城)で活動した。前者には国王ビンビサーラの寄進した竹林精舎が,後者にはアナータピンダダAnāthapiṇḍada(給孤独(ぎつこどく))長者の寄進した祇園精舎があった。

 釈迦の教勢が盛んになるにつれ,法敵も増えた。彼の従弟とされ,のちに彼に離反するデーバダッタDevadatta(提婆達多)からは狂象をけしかけられ,祇園精舎ではバラモンたちから女性と密通しているとの虚偽の告発がなされた。実際,釈迦の教えはバラモン教の階級制度や祭式至上主義を脅かすものであった。彼の教団では僧の順位は出身階級に関係なく,出家後の年数で決められた。真のバラモンとは生れによるのではなく,行いによるのであった。そして不殺生の教義はバラモン教の犠牲式を否定し,出家主義は祖霊祭をつかさどる子孫の確保を困難ならしめた。ほかに六師外道と呼ばれるライバルもいた。

 釈迦の教義は人の心の悩みを解決することをめざした。心の悩みの解決は祭式のような外形的行為によっては達成されない。各人が自己の内面から行う変革によらねばならない。そのための基本的な出発点となるのが四諦・八正道や十二因縁の教義である。これは,一言でいえば,苦悩のよってきたる淵源を追求し,その淵源(おそらく〈我あり〉との妄執)を取り除くことを教えている。これは当時にあっては驚くほど科学的・合理的な態度である。しかも,自己存在の問題について,現代の深層心理学を先取りするような先見性を示している。これは仏教発展の背後に都市と商人階級という進んだ社会があった事実を反映しているかもしれない。

 釈迦は29歳で出家し,35歳で悟り,45年教化活動を行って,80歳で死去した。故国へ向かう旅立ちの途中,食中毒をおこして,クシナガラKuśinagaraで2本のサーラ樹(サラソウジュ)の間に横たわって生涯を閉じた。遺体は荼毘(だび)に付され,遺骨は各地の塔(ストゥーパ)にまつられた。釈迦は遺言として〈自己自身を灯明(あるいは島)とせよ〉〈すべては移ろいやすい,怠らず努めよ〉〈出家者は私の葬儀にかかわるな,葬式は在家者がするであろう〉などと述べた。これらの言葉は彼がいかに人間ひとりひとりの魂の救済に意を注いでいたかを示している。弟子が伝道に赴くときに〈二人していくな,一人ずつ行け〉〈俗語で説け〉と言ったのも,教えをできるだけ多くの人のものにするためであった。慈悲の精神と涅槃の理想が彼の教えを貫いている。

 後世の仏教徒はしだいに釈迦を神格化し,その伝記を粉飾する傾向をもった。輪廻(りんね)転生の思想に基づき,釈迦は今世に出現するまでにすでに多くの生存をくりかえし,そのつど善行に励んだとされた。このいわば修行時代の釈迦は,ボーディサットバBodhisattva(菩薩,すなわち菩提を求める者)と呼ばれ,彼の前世物語(ジャータカ,本生譚)がいくつもつくられた。一方,大乗仏教では,彼は永遠の仏の顕現とされ,化身または応身と呼ばれるようにもなった。釈迦の誕生日については〈バイシャーカ月白分8日(または15日)〉の伝承が生まれ,中国暦ではこれが4月8日に換算され,南方仏教圏ではベーサク月(4月~5月)の満月の日にあてられている。
→仏教
[定方 晟]

釈迦像

造形的表現をとる釈迦仏像は,歴史上実在した偉大な仏教の教祖としての釈迦と,時空を超越した覚者,すなわち如来としての釈迦の二つの形態をとる。仏教成立初期においては釈迦を表すことは行われず,やがて前2世紀ころバールフットやサーンチーの浮彫において,〈仏陀なき仏伝図〉として歴史上の釈迦をその生涯の説話の中に表現することが行われた。しかしあくまで人間の姿をとらず,輪宝,菩提樹,金剛座,舎利塔などを用いて,説法,成道(じようどう),涅槃を暗示・象徴した。仏像として表されるにいたった契機や起源については諸説あるものの,後1世紀ころガンダーラにおいてであると考えられる。やがて仏伝中の釈迦をはなれ,超越的な如来として,単独の礼拝像である釈迦仏像も造られた。なかでも2世紀ころの南インドのアマラーバティーや中インドのマトゥラー,サールナートにはすぐれた釈迦仏像が見いだされる。仏教の東漸に伴い,アフガニスタンから中央アジアの各地にこの両形態の釈迦像がさかんに造られた。また東南アジアの各地にも伝播した。中国における釈迦像は後漢の明帝のとき,初めて伝来したとされる。遺例としては5世紀の銘を有する金銅仏が最も古く,このほか金銅仏,石仏に多くの作例がある。やがて北魏時代には雲岡石窟に次いで竜門石窟,さらには西の果て敦煌莫高窟など,中国各地に多くの石窟が開かれ,多くの釈迦像が造られ,また壁画に描かれた。中国における釈迦像にも,如来に通形の表現をとる釈迦仏像,さらには文殊・普賢などの脇侍を伴うもの,降魔・涅槃,あるいは山中苦行釈迦などの仏伝説話と不可分の釈迦像,さらには《法華経》見宝塔品に説く,〈二仏併座図〉中の釈迦,さらには多くの菩薩に囲繞された釈迦の浄土を表した〈釈迦浄土図〉などがある。

 日本における釈迦像の初見は,《日本書紀》欽明天皇7年(538)条百済の聖明王が初めて金銅釈迦像をもたらしたとする,いわゆる仏教公伝の記録であるが,606年(推古14)に飛鳥寺の本尊,623年(推古31)には法隆寺金堂本尊などの造られたことが《日本書紀》や造像銘で知られ,今日に伝わっている。やがて飛鳥・奈良・平安時代を通じて多くの釈迦仏像が造られた。これらは如来としての通形の図像をとるもので,偏袒右肩で手は施無畏・与願印ないしは説法印をなし,結跏趺坐するものが多い。平安時代初期になって立像釈迦像も多数造られ,室生寺像が著名である。釈迦像の中には小金銅仏で釈迦の誕生時に獅子吼し,灌水を受けたときの姿を表した釈迦誕生仏がある。また清凉寺式釈迦と称せられる一群の特異な図像をもつ釈迦像がある。これは987年(永延1)奝然(ちようねん)が宋よりもたらした像で,通肩で頭髪を巻毛とした立像。鎌倉時代の釈迦信仰の流行に伴って多くの模刻像が造られた。

 絵画作品としては,法隆寺金堂壁画中には釈迦を主尊とする浄土,すなわち釈迦浄土図があり,霊鷲山(りようじゆせん)における釈迦の説法の情景を描いた〈霊鷲山釈迦説法図〉としてもと東大寺法華堂に伝わった《法華堂根本曼荼羅》(ボストン美術館)や《釈迦説法図繡帳》(奈良国立博物館)など,飛鳥・奈良時代の作品がある。また涅槃図や仏伝図としても多くの作品があり,ことに応徳3年(1086)の銘を有する涅槃図や再生説法を描いた《釈迦金棺出現図》(京都国立博物館)などは,平安時代の著名な作品である。なお単独の礼拝的釈迦像を描いた作品として,神護寺の釈迦像が知られている。やがて鎌倉・室町時代になって水墨画を中心とする宋・元の絵画作品がもたらされた。これには二尊院,東福寺,建長寺の釈迦三尊や,寧波の画工陸信忠の描いた《涅槃図》(奈良国立博物館),長崎最教寺《八相涅槃図》などがあり,さらに梁楷筆《出山釈迦図》などが知られ,禅宗における釈迦信仰を軸として,中世の釈迦画像に大きな変化をもたらした。
→仏像
[百橋 明穂]

日本における仏伝の展開

仏教がインド,中国を経て日本に伝わってさまざまなかたちで人々の心をとらえたのに対応して,その創始者である釈迦の伝記,人物像もまた,多様な展開をみせた。

 釈迦の生涯は下天,託胎(たくたい),誕生,出家,降魔,成道(じようどう),転法輪(てんぽうりん),涅槃の8段階に区分され,〈八相成道〉と呼ばれる(《天台四教儀》)。兜率天から人間界に下り,白象に乗って摩耶夫人の胎内に宿り,その脇の下から生まれるや〈天上天下唯我独尊〉と唱え,生の苦悩にめざめて出家・苦行し,悪魔の妨害を退け,ついに悟りの境地に達し,教団を組織して人々にその教えを説き,80歳の生涯を閉じる。それ自体劇的な一代記であり,これに本生譚(ジャータカ)と呼ばれる前世時のさまざまな物語や滅後の舎利分納,仏典結集や阿難,目連など弟子たちをめぐる逸話が付随する。これら釈迦をめぐる物語は広く〈仏伝文学〉と呼ばれ,日本の文学・文化史に重要な位置を占める。

 日本の文学史で,最初にまとまった仏伝をのせるのは10世紀末の《三宝絵》であるが,仏として生まれる以前の本生譚が中心で,飢えた虎に自らの命を与える薩埵(さつた)王子や自らの命と引換に鬼から無常偈を教えてもらう雪山童子などの自己犠牲(利他行)の話が集められている。仏典をもとにしながら難しい漢文をはなれ,こなれた和文の表現で語られる最初の仏伝文学として注目される。その背景には当時寺院で盛んに行われた法会における僧の説教・説法で,仏伝が語られていたということがある。口頭の語りだけでなく,道長の法成寺御堂の扉絵に八相成道が描かれたり,貞観寺の仏伝の柱絵にもとづく絵解きや《梁塵秘抄》にみる歌謡(今様)世界で仏伝が歌われるなど,さまざまな領域で仏伝の物語は享受されていた。

 11世紀後半になって,釈迦滅後二千年に〈末法〉の暗黒の世に入るという終末観の思想が広まったが,12世紀前半の《今昔物語集》が初めて体系的な仏伝文学を形成したのもこの末法の考えと深いかかわりがあろう。《三宝絵》が前世の仏を問題にしたのに対し,《今昔》は人間としての釈迦の生を徹底して見すえようとする。それは天上から下って摩耶夫人の胎内に宿る巻一の巻頭にはじまり,巻三の〈涅槃・舎利分納〉に至るまで一貫している。《過去現在因果経》《釈迦譜》など,漢訳の仏伝経典をもとにしたテキストや,仏典から離れた説法用のテキスト類(《注好選》《百因縁集》)などをふまえて,独特の漢字片仮名まじりの迫力ある文体になっている。

 仏典では前世時や悟りを開く成道が重視されるのに対し,《今昔》では転法輪すなわち国王から民衆に至るあらゆる人々に前世からの因縁を説き,生の苦悩から離脱すべき救いを説く教化の物語が圧倒的に多いのが特徴である。布施が受けられず鉢をむなしく胸にあてて疲れきった表情をみせたり,死に際して吾が子羅睺羅(らごら)と涙の対面をしたり,仏典以上に人間的で身近で親しみやすい釈迦像が印象深く描かれている。

 また巻四〈仏後〉は釈迦滅後の仏法の流布が説かれ,以後の震旦部(中国),本朝部(日本)の仏法の物語世界の展開に通ずる。一方,巻五〈仏前〉は釈迦出生以前のインドの建国話や世俗的な話題が続くが,同時に本生譚も多く,預かった猿の子を鷲にさらわれ自分の肉を裂いて子を取り戻す獅子の話(獅子が釈迦の前世),帝釈天に供養する物が手に入らずついに我が身を火に投じ月にこめられる兎の話や,獅子の威勢を借りる狐,猿の生き肝を取ろうとするが,口をすべらして逃げられる亀の話等々,日本の昔話や伝説でもなじみの深い話がおもに釈迦の前世の物語として語られる。そこでは食物,風景などすべて日本のそれに変わっており,和文調のこなれたユーモラスな語り口で展開されている。

 こうした傾向は中世になるとさらに進み,室町末期の《法華経直談鈔(じきだんしよう)》では,仏の出家した姿が,濃い墨染めの身にやつした日本の隠遁僧さながらに描かれた。また,御伽草子の《釈迦の本地》(釈迦出世本懐伝記)は《今昔》に次ぐまとまった仏伝文学であるが,太子時代の釈迦が東・西・南・北の四門で老者・病者・死者・出家者と出会い,それが出家の機縁となる四門出遊の場面は,御伽草子特有の四方と四季を重ねた日本的な風景・景物の描写でつづられる。さらに《塵添壒囊鈔(じんてんあいのうしよう)》では,実母摩耶夫人の死を知らされていなかった太子が,たまたまその墓に詣でて事情を知り,それがもとで出家してしまう話となる。日本人好みの〈母子もの〉の物語に完全に変貌している。

 平安時代の《今昔》の段階ではまだ仏典をふまえつつ離れようとする緊張が表現の源になっていたが,鎌倉時代の釈迦信仰の隆盛(明恵など)を経て室町時代に至ると,仏典とはまったく切り離されて日本人の好みにあわせた釈迦の物語が形成され,近世の《釈迦八相物語》もその延長線上にある。仏教に対する信仰の変遷と釈迦の物語(仏伝文学)の変容とはまったく相応じている。

 中世には,京の鴨河原で笠をかぶった僧が扇子片手に釈迦の涅槃の場面を人形を用いて説教している図がある(《遊行上人縁起絵》)。4月8日の灌仏会(かんぶつえ)は釈迦の生誕を祝う花祭として今も伝わり,涅槃会(涅槃講)も各地の寺院で続き,涅槃図をもとに絵解きを行う寺もある(鈴鹿市の竜光寺など)。
[小峯 和明]

[索引語]
シャーキャムニ Śākyamuni 釈迦牟尼 釈尊 シュッドーダナ Śuddhodana 浄飯(じようぼん)王 マーヤー(釈迦) 麻耶 ゴータマ Gotama Siddhārtha 悉達多 ラーフラ Rāhula スジャータ ボタイジュ(菩提樹) 王舎城 舎衛城 デーバダッタ(提婆達多) Devadatta 提婆達多 バラモン教 釈迦像 苦行釈迦 釈迦浄土図 霊鷲山釈迦説法図 法華堂根本曼荼羅 釈迦説法図繡帳 梁楷 転法輪 八相成道 マーヤー(摩耶)夫人 仏伝文学 三宝絵 薩埵(さつた)王子 雪山童子 今昔物語集 釈迦の本地


岩波 世界人名大辞典

シャカ
〔梵〕Śākyamuni, Gautama Buddha
幼名:Siddhattha; Siddhārtha
〔パーリ〕Sakiyamuni〔漢〕釈迦; 釈迦牟尼; 釈尊; 瞿曇; 喬答摩; 仏陀; 悉達多
前463~383(前564~484)

仏教の開祖.

生没年代は東西の学者により種々論議され,異論が多く確定しがたいが,いずれもアショーカ王の即位年を基準にしている.まとまった純粋の歴史的記録はほとんど知りえず,多くは神話,伝説である.シャカ(śakya)族の出身者で父スッドーダナ(Suddhōdana浄飯)王,母マーヤー夫人の間に生まれ,カピラヴァッツ(迦毘羅衛)の太子として育った.成年してヤショーダラーを娶り,1子ラーフラを儲けた.29歳(一説に19歳)の時王宮を忍び出て宗教生活に入り,6(または7)年間の苦行の末,ブッダガヤー(Buddhagayā仏陀伽耶)付近のネーランジャラー(Nērañjarā尼連禅)川の岸における最後の苦行をすて,5人の同行者と別れて菩提樹の下に静坐し,暁に明星を見て大悟し,涅槃を達得して仏陀(覚れる者)となり,35歳で無師独語の成道をした.のち数週間は法悦のうちに過ごしたが,真理(法)を伝えるためバナーラス近くのミガダーヤ(Migadāya鹿野苑; 現サールナート)に赴き,さきに別れた5人の比丘(びく)に初めての説法(初転法輪)を試みた.このときをもって仏教教団(saṃgha僧伽)の成立時とする.以後彼の45年間にわたる伝道教化が展開される.1000人の弟子を有するカーシュヤパ(Kāśyapa迦葉)三兄弟を弟子にし,ガンジス川南方の政治経済の中心地マガダ(Magadha摩掲陀)国の都ラージャガハ(Rājagaha王舎)城に赴き,サーリプッタマハーモッガラーナ,国王ビンビサーラを教化し,竹林精舎の寄進をうけた.さらにガンジス川北方の文化の中心地コーサラ(Kosala憍薩羅)国の都サーヴァッティー(Sāvatthī舎衛)城に行き,国王パセーナディを帰依させ,アナータピンディカより祇園精舎の寄進をうけた.故郷に帰ってシャカ族の人々を教団に入れ,彼の親族もほとんど出家者となった.仏陀の足跡はマガダ国地方全土に跨り,その感化は全インドに及んだ.入滅の前年,王舎城の北方霊鷲山(Gijjhakūṭapabbata)から毘舎離(Vesāli)城を通り,北上してクシナーラー(Kusinārā拘尸那羅)の寒村に入り,病により娑羅(sāla)双樹の間で入滅した.ときに80歳といわれる.舎利および灰は,10カ所の塔に祀られた.日本においては降誕4月8日,成道12月8日,涅槃2月15日として記念されるが,南方伝承ではすべて同一の日にヴェーサク(Vesak)祭として祝われている.

〖参考〗 中村元:ゴータマ・ブッダI,II, 1993,95.



国史大辞典

〓
しゃか
わが国では普通に釈迦牟尼(〔S〕Śākya-muni,〔P〕Sakya-muni)の略称として、ゴータマ=ブッダのことをいう(〔S〕はサンスクリット、〔P〕はパーリ語)。牟尼muniとは聖者の意。仏教の開祖。かれは姓をゴータマ(〔S〕Gautama,〔P〕Gotama、瞿曇(くどん))、名をシッダッタ(〔S〕Siddhārtha,〔P〕Siddhattha)といい、前四六三年ころ(異説が多い)に、ネパールの釈迦族の中心地であるカピラ城(〔S〕Kapilavastu,〔P〕Kapilavatthu)の国王である浄飯王(じょうぼんおう)Śuddhodanaの長子として生まれた。誕生地はその近くのルンビニーLumbinī園であった。生後まもなく母(マーヤーMāyā夫人)を失い、叔母に育てられた。十六歳のときに妃を迎え、一子ラーフラRāhula(羅〓(らごら))を儲けたが、深く人生の問題に悩み、二十九歳で出家した。アーラーラ=カーラーマ(〔P〕Ālāra Kālāma)とウッダカ=ラーマプッタ(〔P〕Uddaka Rāmaputta)という二人の仙人を順次に歴訪し、かれらの体得した禅定を修したが、その修行法に満足し得ず、そこで山林に籠って六年間苦行に勤めたが、やはりさとりを得ることができなかった。ついにガンジス河中流の南部にあるブッダガヤーBuddhagayāの菩提樹のもとで沈思瞑想し、三十五歳で大悟し、覚者Buddhaとなった。それからベナレスに赴き、その郊外にある鹿の園(〔P〕Migadāya 鹿野園(ろくやおん))において旧友の修行者五人を教化して、ここに仏教教団が成立した。その後毎年雨期には一ヵ所にとどまって定住生活(雨安居(うあんご))を行なったが、それ以外の時期には常に諸地方を遊歴して教化を行い、前三八三年ころ(異説も多い)クシナーラー(〔P〕Kusinārā ネパール国境の近くにある)で八十歳で没した。なお、釈迦(〔S〕Śākya,〔P〕Sakya,Sākiya)とは、本来ネパールのタライTarai平原に住んでいた一つの部族の名である。日種(太陽の裔)であると称し、系譜に誇りをもっていた。前二―一世紀に北インドに侵入した塞種Saka(スキタイ人)とは別の人種であると考えられる。→仏教(ぶっきょう)
[参考文献]
中村元『ゴータマ・ブッダ』(『中村元選集』一一)
(中村 元)
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検索コンテンツ
1. さか【釈迦】
日本国語大辞典
「しゃか(釈迦)」に同じ。*仏足石歌〔753頃〕「舎加(サカ)の御足跡石に写し置き敬ひて後の仏に譲りまつらむ捧げまうさむ」*源氏物語〔1001~14頃〕松風「月
2. 釈迦画像
日本大百科全書
1896年に発見されたアショカ王碑文は釈迦の誕生地ルンビニーを裏づけ、のちにほかの骨壺の発掘もあり、釈迦の実在は不動となった。 今日の文献学を総合すると、最古の
3. 釈迦
世界大百科事典
仏教の開祖。釈迦はサンスクリット語のシャーキャムニŚākyamuniの音訳,釈迦牟尼(むに)(〈釈迦族の聖者〉)の略。釈尊(しやくそん)は釈迦牟尼世尊(せそん)
4. しゃか【釈迦】画像
日本国語大辞典
仏伝に基づいた誕生像、降魔像、涅槃像などに作られ信仰された。釈迦牟尼。釈迦牟尼如来。釈迦仏。釈迦文仏。悉達多(しったるた)。悉達太子。*観智院本三宝絵〔984〕
5. しゃか【釈迦】[頭見出し]
故事俗信ことわざ大辞典
釈迦(しゃか)一代(いちだい)・釈迦(しゃか)が還俗(げんぞく)してきても・釈迦(しゃか)が祖父(じい)の姉聟(あねむこ)を尋(たず)ぬるよう・釈迦(しゃか)で
6. しゃか【釈迦】
全文全訳古語辞典
名は悉達多。「釈迦」は本来は彼が属した種族の呼称。二十九歳で出家し、三十五歳で悟りを開き、各地で多くの人々を教化し、八十歳で沙羅双樹の下で入滅。その入滅の日が二
7. しゃか【釈〓
国史大辞典
わが国では普通に釈迦牟尼(〔S〕Śākya-muni,〔P〕Sakya-muni)の略称として、ゴータマ=ブッダのことをいう(〔S〕はサンスクリット、〔P〕は
8. 釋迦(しゃか)
古事類苑
宗教部 洋巻 第1巻 71ページ
9. 釈迦(しゃか)[宗教]画像
情報・知識 imidas
釈迦はサンスクリットのシャーキャムニ(Śākyamuni)の音訳、釈迦牟尼(釈迦族の聖者)の略。仏陀・釈尊ともいう。 本来の姓名はゴータマ・シッダールタといっ
10. しゃか【釈迦】
日本人名大辞典
?−? 織豊時代の蒔絵(まきえ)師。京都朱雀(すざく)あたりにすみ,提婆(だいば)とならぶ名工といわれた。
11. しゃか【釈迦】
仏教語大辞典
仏伝に基づいた誕生像、降魔像、涅槃像などに作られ信仰された。釈迦牟尼。釈迦牟尼如来。釈迦仏。釈迦文仏。悉達多。悉達太子。 三宝絵 中・序 「釈迦の御のり正覚成給
12. 【釈迦】しゃか
新選漢和辞典Web版
釈迦牟尼(しゃかむに)。仏教の開祖の名。 ②インドの一種族。
13. 釈迦(著作ID:2888144)
新日本古典籍データベース
しゃか 仏教 
14. 釈迦(著作ID:4373549)
新日本古典籍データベース
しゃか 真言 
15. しゃか【釈迦】[標準語索引]
日本方言大辞典
→ほとけ【仏】しゃか:釈迦の団子まきの時の小粒のものはなくそだんご
16. 〓凉寺本尊釋迦 (見出し語:釋迦)
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 890ページ
17. 以釋迦人名 (見出し語:釋迦)
古事類苑
姓名部 洋巻 第1巻 654ページ
18. 以釋迦姓 (見出し語:釋迦)
古事類苑
姓名部 洋巻 第1巻 300ページ
19. 東福寺釋迦像 (見出し語:釋迦)
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 951ページ
20. 法隆寺釋迦佛造像記 (見出し語:釋迦)
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 1289ページ
21. さか‐ぼとけ【釈迦仏】
日本国語大辞典
(「さ」は「しゃ」の直音表記)仏教の始祖である釈迦牟尼(しゃかむに)を敬っていう語。また、その像。*枕草子〔10C終〕二〇八・寺は「霊山は釈迦仏(さかぼとけ)の
22. しゃか‐あたま【釈迦頭】
日本国語大辞典
〔名〕釈迦の像のように、ちぢれてまきついた頭髪。*雑俳・楊梅〔1702〕「むっしゃくしゃ・竹の子の根は釈迦天窓」*俳諧・類柑子〔1707〕下・追悼之句聯「平沙に
23. しゃか‐いちだい【釈迦一代】
日本国語大辞典
慈悲の心におもひやる 釈迦一代はどうでもすぐるに」*俚言集覧〔1797頃〕「釈迦一代 物の牢固にて久く経べきを釈迦一代こらへると云」*人情本・春色雪の梅〔183
24. 釈迦一代
故事俗信ことわざ大辞典
1)第三「載許場を慈悲の心におもひやる釈迦一代はどうでもすぐるに」諺苑(1797)「釈伽一代」俚言集覧(1818頃)「釈迦一代物の牢固にて久く経べきを釈迦一代こ
25. しゃかいん【釈迦院】大阪府:池田市/才田村地図
日本歴史地名大系
聖武天皇の勅命で一寺建立、鉢多羅山若王寺釈迦院と号したのに始まり、この時斎田若干を賜ったという。「摂陽群談」には「当寺伝来の宝物、仏在世の鉄鉢は、当荘の窟より出
26. しゃかいん【釈迦院】広島県:府中市/土生村
日本歴史地名大系
[現]府中市土生町 辰山 救護山と号し、真言宗御室派。本尊釈迦如来。「備陽六郡志」は「救護山実蔵寺釈迦院」として町村栄明寺の末寺で、慶安元年(一六四八)宮内村(
27. しゃかいん【釈迦院】熊本県:八代郡/泉村/柿迫村
日本歴史地名大系
[現]泉村柿迫 木場 釈迦院岳(九八〇メートル)の頂上にある。金海山大恩教寺と号し、天台宗。本尊釈迦如来。寺伝によると、天台僧の弉善の開基という。弉善は宝亀八年
28. 釋迦院(しゃかいん)
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 1058ページ
29. しゃか‐いん【釈迦院】
仏教語大辞典
胎蔵界曼荼羅の東方、第二重、釈迦如来を中心に三十九尊を安置する一院。 参語集 三・十三大会事 「其上に釈迦院は仏頂也」
30. しゃかがいけようせきぐん【釈迦ヶ池窯跡群】大阪府:吹田市/吉志部小路村地図
日本歴史地名大系
[現]吹田市岸部北四―五丁目 吉志部神社が鎮座する丘陵の背後にある釈迦ヶ池の周辺には数基の須恵器窯跡が分布するが、独立した窯跡群ではなく、千里丘陵南東部の吹田市
31. 釈迦が還俗してきても
故事俗信ことわざ大辞典
釈迦が俗人にもどるような、あり得ないことが起こったとしても。たとえどのようなことがあろうとも。 人情本・貞操園の朝顔(19C中)初・四回「釈迦(シャカ)が還俗(
32. しゃか‐がしら【釈迦頭】
日本国語大辞典
〔名〕釈迦の頭のように髪が渦巻状をなした頭。歌舞伎のかつらでは、不動尊の役などに用いる。*俳諧・坂東太郎〔1679〕夏「生髪やかかれとてしも釈迦頭〈調吟〉」*雑
33. 釈迦が祖父の姉聟を尋ぬるよう
故事俗信ことわざ大辞典
途方もないこと、とらえどころのないことのたとえ。 日本俚諺大全(1906~08)「釈迦(シャカ)が祖父(オヂ)の姉聟(アネムコ)を尋(タヅ)ぬるやう」
34. 釈迦ヶ岳(奈良)
世界大百科事典
,八剣山(仏経ヶ岳),釈迦ヶ岳を経て前鬼(ぜんき)まで縦走する修行は,大峰奥駆けとよばれる難行である。釈迦ヶ岳は大峰七十五靡(なびき)の40番の宿にあたり,山頂
35. 釈迦ヶ岳(福岡)
世界大百科事典
刻まれ,下部をJR日田彦山線の釈迦ヶ岳トンネル(4379m)が南北に貫いている。耶馬(やば)日田英彦山国定公園に含まれ,山腹は杉の植林が美しい。土井 仙吉 釈迦
36. 釈迦ヶ岳(大分・福岡県境)
世界大百科事典
大分県北西部と福岡県南部の県境に位置する山。頂上部は大分県側にあり,標高1231m。地質は第三紀末から第四紀の初期に噴出した各種安山岩からなる。標高約1000m
37. 釈迦ヶ岳(奈良県)
日本大百科全書
。頂上は展望が開け、約5メートルの銅製釈迦如来にょらい像が立っている。修験道しゅげんどう根本道場のある山上さんじょうヶ岳からの奥駈道おくがけみちは、釈迦ヶ岳を経
38. 釈迦ヶ岳(福岡県)
日本大百科全書
650メートル)は日田ひた越えの難所であったが、1956年(昭和31)JR日田彦山ひこさん線の釈迦ヶ岳トンネルが貫通した。スギの植林が進行し、山頂からの展望はよ
39. しゃかがたけ-くもえもん【釈迦ケ岳雲右衛門】
日本人名大辞典
出雲(いずも)松江藩主の抱え力士で,大鳥井雲右衛門の名で京坂で大関をつとめる。明和7年(1770)江戸にでて,釈迦ケ岳とあらため大関をつとめる。身長約227cm
40. しゃか‐が‐だけ【釈迦ケ岳】
日本国語大辞典
小禅師、屏風のそば道、釈迦嶽(シャカノタケ)、負釣行者帰、何れも得通の人に非ずんば、争か爰を通ん」*義経記〔室町中か〕七・判官北国落の事「山伏の行逢ひて、一乗菩
41. しゃかがだけ【釈迦ヶ岳】奈良県:吉野郡/下北山村
日本歴史地名大系
また毎年四月八日釈迦堂の戸開けで、前鬼坊が周八寸に三尺の皮付の大木を高さ三尺余の井楼に積んで大護摩をたくが、近村の人々は重箱に赤飯を入れ掌に置き、指でつまんで食
42. しゃかがだけ【釈迦ヶ岳】宮崎県:東諸県郡/国富町
日本歴史地名大系
り。その座し御像は釈迦仏と薬師如来なり」とある。その後九州の霊山巡錫中の最澄が訪れて、山頂に釈迦如来像を残し、薬師如来像を現在地(法華岳薬師寺)の道場に移したと
43. 釈迦金棺出現図
世界大百科事典
涅槃(ねはん)に入った釈迦が,忉利(とうり)天より下ってきた生母摩耶夫人のために,棺から再び金色身をあらわして仏滅の真理を説いたという《摩訶摩耶経》の所説を描い
44. しゃかきんかんしゅつげんず[シャカキンクヮンシュツゲンヅ]【釈迦金棺出現図】
日本国語大辞典
仏画。絹本着色。縦一五九・七センチメートル、横二二八・八センチメートル。平安中期の作。涅槃(ねはん)後の釈尊が、生母摩耶夫人(まやぶにん)のために、金棺上に再生
45. 釋迦悔過(しゃかけか)
古事類苑
宗教部 洋巻 第2巻 141ページ
46. しゃか‐こう【釈迦講】
仏教語大辞典
釈尊を讃歎する法会。 殿暦 永久三・九・三〇 「釈迦講〈於平等院本堂有此事〉」
47. しゃか‐さんじん【釈迦三身】
仏教語大辞典
三身一体の釈尊を認めて、こういったもの。 顕密二教論 下 「此文、明大日尊三身遍諸世界作仏事、亦如釈迦三身。釈迦三身・大日三身、各各不同。応当知之」
48. 釈迦三尊
日本大百科全書
釈迦仏を中尊に、薬王やくおう、薬上やくじょう、または文殊もんじゅ、普賢ふげんの2菩薩ぼさつを左右の脇侍わきじとする様式。江口正尊
49. しゃか‐さんぞん【釈迦三尊】
日本国語大辞典
〔名〕普通、釈迦の像を中央に、左に文殊菩薩、右に普賢菩薩をおく形式。ただし、宗により、左右に薬王・薬上両菩薩、または迦葉、阿難などを配する。*参天台五台山記〔1
50. 釈迦三尊[図版]画像
国史大辞典
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