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  11. 応天門の変

応天門の変

ジャパンナレッジで閲覧できる『応天門の変』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

応天門の変
おうてんもんのへん
平安時代前期、応天門の炎上をめぐって起きた政治的疑獄事件。貞観八年(八六六)閏三月十日の夜、朝堂院の正門、応天門が焼失した。はじめ左大臣源信(みなもとのまこと)に放火の嫌疑がかけられたが、八月三日に至り、左京の人、備中権史生の大宅鷹取が、大納言伴善男の所為であると告発。そこで善男に対する取調べの行われているおりから、告人大宅鷹取の娘が、善男の従者生江恒山・伴清縄によって殺されるという事件が起り、善男に対する嫌疑はさらに深まった。ついに恒山らは、源信を失脚させるために善男とその子中庸が共謀して放火したと自白し、中庸、ついで善男も承伏した。九月二十二日、伴善男・中庸以下五人の主犯は大逆罪に問われたが、死一等を減じて遠流、紀夏井ら八人も縁坐によって配流の処分をうけた。ついで善男の有した莫大な資財田宅も没収された。善男は貞観十年、伊豆の配所で死し、古来の名族、伴(大伴)・紀両氏の勢力は失墜した。『三代実録』では、善男父子を真犯人ときめつけているが、多くの史家はこれに疑問をむけており、単なる不審火が予想外の事件に発展したものとも考えられる。問題は、事件前後における政界事情の複雑さにあった。断罪された伴善男は、弘仁朝以来、次第に政界に地歩を占めてきた文人派能吏を代表する人物であり、血統をほこる信・融・勤ら嵯峨源氏と政治的に対立するとともに、承和の変(承和九年(八四二))以来、摂関政治の確立をめざして着々と布石を進める太政大臣藤原良房にとっても邪魔な存在となってきていた。良房は、事件進展中の八月十九日に、人臣にしてはじめての摂政に任じ、落着後の十二月には姪の高子を入内させ、また嗣子基経を中納言に特進させている。放火の真犯人は誰であったかわからないが、この事件を最もうまく利用したのが良房であったことは、誰の眼にも明らかである。要するにこの事件は、律令政治が崩壊し、政界が藤原北家を中心にして私的に再編成されてゆく平安時代前期の大きな政治過程の上に位置づけて理解さるべきである。そして藤原氏は、この事件を契機として、摂関政治の確立という目標に一歩接近したことはたしかである。なお有名な『伴大納言絵巻』は、この事件を題材として絵巻物化を試みたものである。→伴善男(とものよしお)
[参考文献]
『大鏡裏書』、『宇治拾遺物語』(『日本古典文学大系』二七)、佐伯有清『伴善男』(『人物叢書』一五六)、上原栄子「藤原良房と伴善男」(竹内理三編『平安王朝―その実力者たち―』所収)、青木和夫「伴大納言」(和歌森太郎編『人物・日本の歴史』二所収)、林陸朗「伴大納言善男」(『日本歴史』四四)、中村太郎「応天門の変―摂関政治への一道標―」(『立命館文学』八三)
(薗田 香融)


日本大百科全書(ニッポニカ)

応天門の変
おうてんもんのへん

866年(貞観8)平安宮大内裏 (だいだいり)の正門である応天門の炎上をめぐる政治的陰謀事件。応天門の炎上(閏 (うるう)3月10日)からしばらくたって、門に火をつけさせたのは左大臣の源信 (まこと)であると口火を切ったのが、時の右大臣藤原良相 (よしみ)と大納言 (だいなごん)伴善男 (とものよしお)であった。その経過は、かならずしも明確ではないが、彼らは、左近衛 (さこんえ)中将参議の藤原基経 (もとつね)に事の由を告げ、基経は養父の太政 (だいじょう)大臣藤原良房 (よしふさ)にこれを知らせ、良房が源信を擁護したとも、あるいは良相、善男が兵を発して源信の家を包囲させ、これを知った良房が事の真相を探ったとも伝えられている。こののち、良房の工作で源信は難を逃れたものの政界からは身を引いた。

 このような混乱があったのち、応天門に火をつけたのは伴善男・中庸 (なかつね)父子らの共謀によるものであると、備中権史生 (びっちゅうごんのししょう)大宅鷹取 (おおやけのたかとり)が訴え出たため、善男父子が放火の犯人として取り調べを受けることになった。善男は、あくまでも犯行を否認し続けていたが、結局、放火犯と断定されて、父子は伊豆、隠岐 (おき)に遠流となり、関係者も配流の刑に処せられた。

 事件の真相はつかみにくいが、当時の政局の動きから察すると、藤原良房・基経らが、源信や伴善男を政界から追放するために、応天門の炎上を巧みに利用して、初めは善男らを動かして源信を抑え、のちには伴善男を罪人に仕立てて政界から駆逐したとみなされる。良房は、この事件を契機に人臣初の「摂政 (せっしょう)」となり、藤原氏による摂関政治の創始に力を注ぐことになった。

[佐伯有清]



応天門の変[百科マルチメディア]
応天門の変[百科マルチメディア]

伊豆に遠流(おんる)と定まった伴善男(とものよしお)。検非違使(けびいし)一行に護送される網代車(あじろぐるま)の中から簾(すだれ)をあげ、袖(そで)と指貫(さしぬき)をのぞかせている。『伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)』 模写国立国会図書館所蔵


世界大百科事典

応天門の変
おうてんもんのへん

866年(貞観8)におこった応天門炎上をめぐる政治疑獄事件。承和の変などとともに藤原氏の他氏排斥事件の一つといわれている。事件の発端はこの年閏3月10日夜に朝堂院の正門である応天門が炎上したことであった。最初大納言伴善男(とものよしお)は左大臣源信の所業としてその処罰を主張したが,太政大臣藤原良房らの工作で無実が明らかになった。ところが8月3日に左京の備中権史生大宅鷹取が伴善男・中庸父子が真犯人であると告げた。尋問に対して善男は頑強に否認しつづけたが,その僕従であった生江恒山,伴清縄を拷問したところ,善男がその子中庸をして行わしめたことを自白し,9月22日に善男は死一等を減じられて伊豆に遠流となったのをはじめ,中庸,紀豊城など共犯および縁者13人の流刑がきまり,25日には善男らの全国に散在した田宅資財が没収された。正史は当然真犯人は善男であるとしているが,大宅鷹取が善男に私怨をいだいていたらしいことや,炎上後約5ヵ月後に告言していること,事件の審理中に良房が摂政になり,事件落着直後に継嗣基経が中納言に特進していることなど,事件の背後に良房の暗躍が予想される。善男自身が能吏であり,良吏の誉れ高かった紀夏井(きのなつい)も縁坐したことから,当時急速に進出していた良官能吏のグループを,応天門炎上事件を利用して,良房らが排除しようとした疑獄事件の性格がつよい。この事件を素材とした絵巻として《伴大納言絵詞》がある。
[佐藤 宗諄]

[索引語]
伴善男 源信 藤原良房 紀夏井 伴大納言絵詞
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1. おうてんもん の 変(へん)
日本国語大辞典
貞観八年(八六六)、平安京応天門の炎上をめぐる疑獄事件。大納言伴善男(とものよしお)は左大臣源信(まこと)の放火によるものと訴えたが、かえって、遠流に処された。
2. 応天門の変画像
日本大百科全書
866年(貞観8)平安宮大内裏だいだいりの正門である応天門の炎上をめぐる政治的陰謀事件。応天門の炎上(閏うるう3月10日)からしばらくたって、門に火をつけさせた
3. 応天門の変
世界大百科事典
866年(貞観8)におこった応天門炎上をめぐる政治疑獄事件。承和の変などとともに藤原氏の他氏排斥事件の一つといわれている。事件の発端はこの年閏3月10日夜に朝堂
4. おうてんもんのへん【応天門の変】
国史大辞典
太郎編『人物・日本の歴史』二所収)、林陸朗「伴大納言善男」(『日本歴史』四四)、中村太郎「応天門の変―摂関政治への一道標―」(『立命館文学』八三) (薗田 香融
5. 応天門の変
日本史年表
866年〈貞観8 丙戌③〉 9・22 応天門に放火した罪により、 伴善男 ・ 中庸父子 らを配流する( 応天門の変 )(三実)。
6. 応天門の変[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
伊豆に遠流おんると定まった伴善男とものよしお。検非違使けびいし一行に護送される網代車あじろぐるまの中から簾すだれをあげ、袖そでと指貫さしぬきをのぞかせている。『
7. いくえの-つねやま【生江恒山】
日本人名大辞典
平安時代前期の官吏。公卿(くぎょう)伴善男(ともの-よしお)の従者。貞観(じょうがん)8年(866)応天門の変の際,善男を密告した大宅鷹取(おおやけの-たかとり
8. いずのくに【伊豆国】画像
国史大辞典
、『延喜式』においても京を去る七百七十里の遠流の国として継続し、役小角・氷上川継・伴善男(応天門の変)・僧連茂(安和の変)・源為朝(保元の乱)・源頼朝らの有名人
9. いずのくに【伊豆国】静岡県
日本歴史地名大系
承和の変における橘逸勢(「続日本後紀」承和九年七月二八日条、「橘逸勢伝」、ただし配流途中に遠江国で死去)、応天門の変における伴善男(「三代実録」貞観八年九月二二
10. おうてん‐もん【応天門】
日本国語大辞典
東西の両廊には栖鳳(せいほう)、翔鸞(しょうらん)の二楼が連なる。延暦一二年(七九三)創建されたが、応天門の変で焼失し、貞観一三年(八七一)再建。*日本三代実録
11. おうてん-もん【応天門】
全文全訳古語辞典
〔名詞〕平安宮朝堂院南面の正門。朱雀門と南北に対す。貞観八年(八六六)はじめて焼失(応天門の変)、その様子は『伴大納言絵詞』に描かれる。
12. おおともうじ【大伴氏】画像
国史大辞典
の諱大伴を避けて氏を伴(とも)と改めた。その後、善男が大納言となったが、貞観八年(八六六)応天門の変により伊豆に流され、以後いっそうふるわない。天慶五年(九四二
13. おきのくに【隠岐国】島根県
日本歴史地名大系
年一二月一五日条)、同九年承和の変に関係した伴健岑(同書七月二六日条)、貞観八年(八六六)応天門の変に関係した伴宿禰中庸(「三代実録」九月二二日条)などや僧が記
14. かほくぐん【河北郡】石川県
日本歴史地名大系
寮勧学田に充てられた(「類聚国史」など)。承和年間(八三四―八四八)伴善男に返給されるが、応天門の変により再度没官され、貞観一七年(八七五)一二月一五日には造京
15. かみぐん【香美郡】高知県
日本歴史地名大系
香我美町)と伝え、親王は現在同地の若一王子宮に祀られている。また貞観八年(八六六)紀夏井は応天門の変に連座して土佐に流され(「三代実録」貞観八年九月二二日条)、
16. かむつはやしごう【上林郷】京都市:山城国(京都市域)郡郷/葛野郡
日本歴史地名大系
七日条には「庶人伴善男没官墾田三町二段五十歩、在山城国葛野郡上林郷、永施入天安寺」とあり、応天門の変で失脚した伴善男が本郷に領地をもっていたこと、その関係で伴氏
17. かめやまようせき【亀山窯跡】高知県:香美郡/野市町/母代寺村
日本歴史地名大系
れと同形。最近灰原推定地で須恵器片も多く発見され、本窯跡の検討が必要になっている。付近には応天門の変に連座して土佐に流された紀夏井の伝承が多く、この窯も夏井が指
18. かもむら【加茂村】高知県:香美郡/土佐山田町
日本歴史地名大系
村内には鳴滝・清水・松尾など京都にちなむ地名が多くあり、紀貫之がこの地に遊んだとき名付けたとも、応天門の変で土佐に流された紀夏井が付近に住し、加茂大明神を勧請し
19. きうじ【紀氏】画像
国史大辞典
ついで征東大将軍に任ぜられるなど活躍した。しかし広浜・百継以後は公卿に昇るものなく、夏井は応天門の変に配流され、次第に藤原氏に圧倒されて衰運に向かい、名虎の娘二
20. きそさんせん【木曾三川】岐阜県:総論
日本歴史地名大系
たのであろうとするのが大方の見解である。この年は中央政界を揺るがした一大疑獄事件、すなわち応天門の変があった年で、この事件の処理に追われる中央政界には、地方での
21. 紀夏井
日本大百科全書
られたが、紙筆以外は受けなかったという。865年(貞観7)肥後ひご守に任ぜられたが、翌年の応天門の変で異母弟紀豊城の罪に連坐れんざして土佐国に流された。肥後を去
22. 紀夏井
世界大百科事典
も紙筆以外はすべて辞退したという。それが評価されて865年(貞観7)肥後守となったが,翌年応天門の変で異母弟紀豊城に縁坐して土佐に流罪となった。肥後を去るにあた
23. きのなつい【紀夏井】
国史大辞典
この事件によって決定的となった。→応天門の変(おうてんもんのへん),→紀氏(きうじ) [参考文献]佐伯有清『伴善男』(『人物叢書』一五六)、弥永貞三「春日暇景の
24. きの-なつい【紀夏井】
日本人名大辞典
をしき,百姓らの請願によって任期が2年延長されたという。貞観(じょうがん)7年肥後守。翌年応天門の変で異母弟紀豊城(とよき)の罪に連座し,土佐に流される。書や囲
25. くげりょう【公家領】
国史大辞典
有力貴族は山野藪沢を占定し、墾田永世私財法以後は墾田の開発を進め、独自な所領を確保し始める。応天門の変で没官された伴善男の所領は、墾田・陸田・山林・庄家稲・塩浜
26. けいか【経過】 : 摂関政治
国史大辞典
政となったのは、天皇がすでに成人したのちの貞観八年(八六六)のことで、これはその年に起った応天門の変の処理の間に天皇が自信を失い、老練な良房の補佐に頼ろうとした
27. 香南[市]
世界大百科事典
ん・なはり線,国道55号線が通り,住宅開発も進み,高知市のベッドタウン化しつつある。亀山は応天門の変に連座して土佐に流された紀夏井(きのなつい)の邸跡と伝え,近
28. 香南(市)画像
日本大百科全書
が通る。また、南国なんこく市の高知空港とは隣接している。 古代には淳仁天皇の弟池田親王や、応天門の変の縁座により紀夏井きのなついが流されたと伝え、ゆかりの神社や
29. こだい【古代】画像
国史大辞典
代わって良房の妹の順子が生んだ道康親王(文徳天皇)が皇太子となり、貞観八年(八六六)閏三月には応天門の変が起り、その結果ときの大納言伴(とも)善男が応天門放火の
30. 今昔物語集 42ページ
日本古典文学全集
伴大納言善雄の死後霊が化した疫病神と出会い、世の中に咳病が流行する理由を説き明かしてもらった話。応天門の変で伊豆に流罪となり憤死した伴善雄が死後、後霊化し、疫病
31. しょくにほんこうき【続日本後紀】
国史大辞典
途中藤原良房が天安元年(八五七)太政大臣となると右大臣藤原良相が加わったが、伴善男は貞観八年応天門の変で流罪となり、藤原良相は貞観九年に没し、安野豊道は天安元年
32. 新羅画像
世界大百科事典
貴族の奢侈品を交易していた。また日本僧円仁らの入唐を助けるなど海上運輸に従事した。866年応天門の変で藤原氏が苦境に立つと,新羅の侵入に内応する者がいるとして,
33. しらぎ【新羅】画像
国史大辞典
彼はまた、日本僧円仁らの入唐を助けるなど、海上運輸にも従事した。日本では貞観八年(八六六)に応天門の変で藤原氏が苦境に立つと、新羅の侵入に内応する者がいるとして
34. 十訓抄 75ページ
日本古典文学全集
心の働かせ方。伴善男(八〇九~六八)。平安初期の公卿。国道の子。正三位、大納言まで昇進するが、応天門の変で失脚、伊豆国に流される。静岡県の伊豆半島一帯。絵姿。肖
35. 十訓抄 173ページ
日本古典文学全集
阿衡を引きて、朕が本意にそむ 四ノ十六  藤原基経(八三六~九一)。平安前期の公卿。長良の子。応天門の変、阿衡の紛議を経て、権力を握り、人臣最初の関白となる。従
36. 十訓抄 232ページ
日本古典文学全集
ず。景行天皇より以来、六代の朝につかへて、征年二百八十二、在官二百四十四年なり。六ノ十六 応天門の変 清和天皇、いまだ幼くおはしましける時、大納言伴善男卿、身は
37. 十訓抄 233ページ
日本古典文学全集
浄縄佐渡国」(三代実録・貞観八年九月二十二日)。前話と同様、讒言により処罰されそうになったこと。史上有名な応天門の変。事件の真相は不明で、伴善男真犯人説は疑わし
38. 十訓抄 237ページ
日本古典文学全集
うっすらと雪が積り、兵士たちが進軍するという情景は、聞いただけで美しさにあふれているといったもの。前話の応天門の変に続き、歴史上の大事件、後三年の役とその後日談
39. じょうがん‐じだい[ヂャウグヮン‥]【貞観時代】
日本国語大辞典
貞観元~一九年(八五九~八七七)の一八年間を年号にちなんで呼んだもの。律令制の崩壊が進み、応天門の変が起こるなどして藤原氏の権力が確立した。空海・最澄等の渡唐僧
40. じょうがん の 治(ち)
日本国語大辞典
唐王朝の基礎を築く、太平な治を行なったので、それを年号にちなんでいう。(2)清和天皇の治世をいう。応天門の変、藤原良房の摂政就任など、平安中期の藤原時代がようや
41. すみよしおおともじんじゃ【住吉大伴神社】京都市:右京区/龍安寺門前村地図
日本歴史地名大系
武門の氏族で、平安遷都後この地に移住したものと考えられる。しかし貞観八年(八六六)伴善男が応天門の変の結果、放火の罪をきせられ伊豆に流され、伴氏の勢力は凋落の一
42. せいりつ【成立】 : 公家領
国史大辞典
有力貴族は山野藪沢を占定し、墾田永世私財法以後は墾田の開発を進め、独自な所領を確保し始める。応天門の変で没官された伴善男の所領は、墾田・陸田・山林・庄家稲・塩浜
43. 清和天皇
世界大百科事典
惟喬(これたか)親王を擁立しようとする紀氏らの動きがあり,清和朝の866年(貞観8)には〈応天門の変〉が起こるなど,政争がくり返された。清和天皇は病弱で政治をい
44. せいわ‐てんのう[‥テンワウ]【清和天皇】
日本国語大辞典
母は太政大臣藤原良房の娘明子。名は惟仁(これひと)。天安二年(八五八)八歳で即位。在位中に応天門の変が起こり、その後良房が摂政となる。また、「貞観格式」を編修さ
45. せいわてんのう【清和天皇】
国史大辞典
受けて九歳で践祚。政治は外祖父で太政大臣の良房に委ね、貞観六年(八六四)の元服後も変わらず、同八年応天門の変が起ると、改めて勅命により天下の政治を摂行させ人臣摂
46. せいわてんのう【清和天皇】
日本人名大辞典
天安2年9歳で即位(最初の幼帝)。母が補佐したが,実権は外祖父の藤原良房(よしふさ)ににぎられ,応天門の変(866)後,良房を摂政とする。貞観(じょうがん)18
47. せっかんせいじ【摂関政治】画像
国史大辞典
政となったのは、天皇がすでに成人したのちの貞観八年(八六六)のことで、これはその年に起った応天門の変の処理の間に天皇が自信を失い、老練な良房の補佐に頼ろうとした
48. ぜんみょうじ【善名寺】静岡県:田方郡/天城湯ヶ島町/吉奈村
日本歴史地名大系
旧蔵の仏像背銘(集古十種)に「伴氏二親生霊 善魚 善足」の陰刻がある。善魚・善足の二人を貞観八年(八六六)の応天門の変の首謀者として伊豆国に流された伴善男の子と
49. 曾我物語 25ページ
日本古典文学全集
すでに承和一四年(八四七)に死去。相撲人とするのは虚構。屋代本『平家物語』に「伴ノ良雄」とある。応天門の変の「伴善男」から虚構したか。『平家物語』は、二人の相撲
50. だじょうだいじん【太政大臣】
国史大辞典
代行し、実質的には摂政を勤めるに至ったが、勅で正式に摂政に任じられたのは貞観八年(八六六)応天門の変に際してであった。ついで清和天皇も貞観十八年に良房の養子の右
「応天門の変」の情報だけではなく、「応天門の変」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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