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  11. 比企能員

比企能員

ジャパンナレッジで閲覧できる『比企能員』の日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

比企能員
ひきよしかず
[?―1203]

鎌倉時代初期の武将。能員の養母比企尼は源頼朝 (よりとも)の乳母 (うば)であり、頼朝が伊豆に配流されると武蔵 (むさし)国比企郡(埼玉県比企郡・入間郡)に移り住み、なにかと頼朝のめんどうをみた。その関係から能員も早くから頼朝に仕え、平氏打倒、奥州征伐にも活躍した。さらに比企尼の娘が2代将軍頼家 (よりいえ)の乳母となり、また能員の娘が頼家に嫁して(若狭局 (わかさのつぼね))一幡 (いちまん)を生んだ。かくして能員は幕府創業以来の功臣として、また頼家の側近としてしだいに重きをなしていった。しかし1203年(建仁3)頼家の重病に際し、後を一幡が継ぐことによる比企氏の勢力増大を恐れた北条氏によって、能員は9月2日謀殺され、続いて一族も滅ぼされた。

[山本博也]



世界大百科事典

比企能員
ひきよしかず
?-1203(建仁3)

平安末期~鎌倉初期の武将。藤原氏。藤四郎あるいは四郎を称した。《愚管抄》によれば阿波国出身という。あるいは安房国か。伯母比企尼(ひきのあま)は源頼朝の乳母で,能員は比企尼の養子であった。平氏打倒に成功した頼朝は尼の推挙により能員をとりたて,1189年(文治5)の奥州征伐では北陸道大将軍に任じた。能員の妻(渋河兼忠女)や義妹(平賀義信妻,河越重頼妻)はいずれも頼朝の長子頼家の乳母で,能員の娘若狭局は頼家の妻であり,かつ長子一幡を生んでいた。頼朝の死後,2代将軍頼家の外祖父として勢力の伸張をはかる北条時政らに対し,頼家は比企氏と結んでこれに対抗しようとした。1203年頼家が病に倒れると,つぎの将軍に頼家の弟千幡(実朝)を擁立しようとする北条氏と,頼家の長子一幡につがせようとする頼家・比企氏との対立は頂点に達し,ついに能員は北条時政によって謀殺された(比企氏の乱)。
[小田 雄三]

[索引語]
比企尼 若狭局 北条時政 比企の乱
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1. 比企能員
日本大百科全書
鎌倉時代初期の武将。能員の養母比企尼は源頼朝よりともの乳母うばであり、頼朝が伊豆に配流されると武蔵むさし国比企郡(埼玉県比企郡・入間郡)に移り住み、なにかと頼朝
2. 比企能員
世界大百科事典
?-1203(建仁3) 平安末期~鎌倉初期の武将。藤原氏。藤四郎あるいは四郎を称した。《愚管抄》によれば阿波国出身という。あるいは安房国か。伯母比企尼(ひきのあ
3. ひき‐よしかず【比企能員】
日本国語大辞典
鎌倉初期の武将。幼名藤四郎。頼朝挙兵以来、功を重ね、娘若狭局が二代将軍頼家の子一幡を生んだので外戚として権勢をふるった。頼家の後嗣問題で北条氏と対立し、謀殺され
4. ひきよしかず【比企能員】
国史大辞典
?―一二〇三 平安・鎌倉時代前期の武将。比企藤四郎と称す。父母は未詳。源頼朝の乳母比企尼の養子。阿波国の人という。義兄比企朝宗が没したのち比企氏を継ぐ。養母の
5. ひき-よしかず【比企能員】
日本人名大辞典
?−1203 平安後期-鎌倉時代の武将。比企尼(ひきのあま)の養子。源頼朝につかえ,頼家の養育係になる。平家追討,藤原泰衡(やすひら)追討に功をたてる。娘若狭局
6. 天野遠景
日本大百科全書
頼朝の死(1199)を機会に出家して蓮景れんけいと号した。1203年(建仁3)9月、北条時政ときまさの命で比企能員ひきよしかずを斬きった。新田英治
7. 天野遠景
世界大百科事典
景。1203年(建仁3)北条時政に従い比企能員を謀殺。晩年は不遇だったらしい。→天野氏青山 幹哉 天野藤内
8. あまのとおかげ【天野遠景】
国史大辞典
。正治元年(一一九九)梶原景時誅伐にも参加し、建仁三年(一二〇三)九月北条時政の命を受けて、比企能員を誘殺した。死期も近い承元元年(一二〇七)六月二日、治承四年
9. あまの-とおかげ【天野遠景】
日本人名大辞典
文治元年鎮西(ちんぜい)奉行となる。のち鎌倉にかえり,建仁(けんにん)3年北条時政の命をうけて比企能員(ひき-よしかず)を殺害した。伊豆(いず)田方郡(静岡県)
10. いが-ともみつ【伊賀朝光】
日本人名大辞典
母は源邦業(くになり)の娘。関東の豪族。鎌倉幕府の成立により源頼朝につかえる。のち北条氏のもとで比企能員(ひき-よしかず)一族,和田義盛(よしもり)一族の討滅に
11. いちまん【一幡】
日本人名大辞典
1198−1203 鎌倉時代,源頼家(よりいえ)の長男。建久9年生まれ。母は比企能員(ひき-よしかず)の娘。建仁(けんにん)3年父危篤(きとく)のとき没後の諸国
12. いわどのむら【岩殿村】埼玉県:東松山市地図
日本歴史地名大系
被ったが、正法寺の参詣客も多く、村民の生活は貧しくはなかった。地内には小塚数十基がある旗塚、比企能員追福のために建立されたと伝える判官塚、入定塚などの古跡がある
13. うえじはちまんぐう【上地八幡宮】愛知県:岡崎市/上地村
日本歴史地名大系
見藤六の所に休息し、庭内の祭神八幡宮に武運長久並びに戦勝を祈願。範頼が三河守に叙任した後に、比企能員を奉行として建久元年(一一九〇)に社殿を完成したという。祭神
14. うえだし【上田市】長野県
日本歴史地名大系
推定される。源頼朝は惟宗氏(島津氏)を市の南西、産川流域の塩田庄の地頭とし、更に重臣信濃目代比企能員を守護の任にあてたと考えられる(「工藤能綱譲状案」工藤文書・
15. 奥州征伐
世界大百科事典
のもとに届けられた。頼朝は軍を三つに分け,東海道軍は千葉介常胤・八田知家を将とし,北陸道軍は比企能員(よしかず)を将とし,みずからは中央軍を率いて白河関をこえた
16. おうしゅうせいばつ【奥州征伐】
国史大辞典
聞かず」の進言によって、出陣を決定した。七月、三軍の部署が定められた。東海道は千葉常胤・八田知家、北陸道は比企能員・宇佐美実政。中路は頼朝がじかに進む。七月十九
17. 大江広元
世界大百科事典
頼家の訴訟親裁を止め,13人の有力御家人による合議政治を開始した事件,1203年(建仁3)に比企能員を討ち,頼家を伊豆に退けた事件,それぞれに広元は大きくかかわ
18. おおえのひろもと【大江広元】画像
国史大辞典
政務専断は止められ、北条時政その他の重臣らと政務を合議することになった。建仁三年(一二〇三)比企能員の追討ならびに将軍頼家の修禅寺幽閉事件については広元の謀にお
19. おおかわかねとう【大河兼任】
国史大辞典
また津軽方面では宇佐美実政らを殺し、猛威をふるった。幕府では、再び御家人に出動を命じ、海道は千葉常胤、山道は比企能員を大将とした。兼任も一万余の軍勢を組織し直し
20. 糟屋氏
世界大百科事典
のころまでに鎌倉御家人の列に加えられたとみてよい。有季はその後数々の合戦で功をたて有力御家人比企能員の婿に迎えられたが,1203年(建仁3)の比企の乱で敗死し,
21. かすやのしょう【糟屋庄】神奈川県:伊勢原市
日本歴史地名大系
事奉行人であった文章生三善宣衡が作り、鋳師は広階忠次であった(「極楽寺鐘銘」県史一)。有季は比企能員の婿となり相当の勢力を張ったが、建仁三年(一二〇三)、比企氏
22. かまくらかいどう【鎌倉街道】神奈川県:総論
日本歴史地名大系
を将とする東海道軍は常陸・下総両国の武士を率いて宇太・行方・岩城・岩崎を経て阿武隈湊をつき、比企能員・宇佐美実政を将とする北陸道軍は「下道」を経て上野国の武士を
23. 鎌倉三代記
世界大百科事典
竹本喜代太夫・竹沢権右衛門など出演。頼家を津山介十郎,若狭の前を藤井小三郎。源頼家とその外戚比企能員(よしかず)の謀反を描く。能員は京の遊女2人を養い,1人を若
24. かまくらさんだいき【鎌倉三代記】
日本国語大辞典
〔一〕浄瑠璃。時代物。五段。紀海音作。正徳六年(一七一六)大坂豊竹座初演。源頼家と外戚の比企能員(よしかず)との謀叛(むほん)を中心に脚色したもの。〔二〕浄瑠璃
25. 国奉行
世界大百科事典
盛長の名がみえ,国役の執行や寺社の管領に当たっている。この時期に上野の軍事統率権をもつ守護は比企能員であったが,のちには盛長の子の景盛が国奉行と守護を兼ねており
26. けんじょうあと【剣城跡】群馬県:北群馬郡/吉岡村/下野田村
日本歴史地名大系
剣城は三角城ともいわれ比企藤五郎の居城と伝えられる。藤五郎は比企藤四郎能員の一族と思われ、建仁三年(一二〇三)比企能員が北条氏に滅ぼされたときに当城も落城したの
27. 源威集 193ページ
東洋文庫
於二弓馬殿一奏慶 伊輔朝臣艸、三日頴大将大納言官職共以二牒状り上、十一日畔、家人十人、小山朝政・足立遠光・比企能員・和田義盛・佐藤義連・榛貝朝重・千葉常秀・葛西
28. こまちむら【小町村】神奈川県:鎌倉市地図
日本歴史地名大系
とき、いずれの場合も小町が加えられている。商工業者の住居だけでなく、北条氏一族や村上判官代・比企能員・同朝宗・佐々木盛綱・新田忠常・工藤行光・佐貫広綱など(同書
29. しくみごう【志久見郷】長野県:下水内郡/栄村
日本歴史地名大系
樒・志久美・敷味は志久見の異記である。建仁三年(一二〇三)助広の子中野五郎能成は源頼家の近習として比企能員らと北条氏を滅ぼそうとしてかえって滅ぼされたが、北条時
30. 信濃国画像
日本大百科全書
義仲敗死後は源頼朝よりともの知行ちぎょう国となり、国司に加賀美遠光かがみとおみつ、目代もくだい兼守護に実力者比企能員ひきよしかずが任ぜられた。頼朝死後は北条氏の
31. 信濃国画像
世界大百科事典
信濃国は将軍家知行国(関東御分国)とされ,国司に甲斐源氏の加賀美遠光,目代に頼朝の腹心比企能員(よしかず)が補任され,比企能員は守護職を兼務した。鎌倉幕府が将軍
32. しなののくに【信濃国】画像
国史大辞典
に連なった。鎌倉時代のはじめ甲斐の小笠原(加賀美)遠光が信濃守護に補任され、将軍源頼家のとき比企能員が信濃目代として守護を兼ねたが、建仁三年(一二〇三)能員を滅
33. しなののくに【信濃国】長野県
日本歴史地名大系
信濃は鎌倉幕府の勢力下に入り、その知行国となった。この時、信濃守には小笠原遠光(加々美遠光)が、信濃守護人には比企能員が任ぜられた。頼朝の没後、幕府の実権が北条
34. 島津忠久
日本大百科全書
鎌倉初期の武将。島津氏の初代。「島津家譜」などの系図類によれば、源頼朝よりともの庶長子、母は比企能員ひきよしかずの妹丹後局たんごのつぼねで、近衛このえ家の家司け
35. 島津忠久
世界大百科事典
-1227(安貞1) 鎌倉時代の薩摩・大隅・日向国守護。法名得仏。島津氏初代,惟宗姓。系図は源頼朝庶子。母は比企能員妹丹後局,惟宗広言の養子とするが不詳。幕末に
36. しまづただひさ【島津忠久】画像
国史大辞典
岡社参供奉人交名であるが、その後もおおむね惟宗氏を称す。『島津氏系図』には源頼朝庶長子、母は比企能員妹丹後局とし、また丹後局は頼朝の妻北条政子の嫉妬をおそれて西
37. しまづ-ただひさ【島津忠久】
日本人名大辞典
攻めに参加。建久8年薩摩(さつま)・大隅(おおすみ)守護,のち日向(ひゅうが)守護もかねる。比企能員(ひき-よしかず)の乱に連座し罷免されたが,のち薩摩守護のみ
38. しまづのしょう【島津庄】宮崎県:総論
日本歴史地名大系
千葉常胤で、それ以外の島津庄域の地頭は島津忠久である。しかし建仁三年(一二〇三)九月、忠久は比企能員の乱に連座して日向・大隅・薩摩三ヵ国守護職を没収され(「吾妻
39. しもいぐさむら【下伊草村】埼玉県:比企郡/川島町地図
日本歴史地名大系
によると比木(比企)藤四郎に対して「井草之内六貫文之御給田」などが与えられているが、藤四郎(比企能員の末という)の子孫は近世には当地に住していた(風土記稿)。田
40. しょうぼうじ【正法寺】埼玉県:東松山市/岩殿村地図
日本歴史地名大系
整えたという。もちろん、この縁起は伝承の域を出ず、また同略記によると、その後、源頼朝・北条政子・比企能員らの帰依を得たというが、これらについても確証はない。しか
41. せいこうじ【井岡寺】山形県:鶴岡市/青竜寺川・内川流域地区/井岡村
日本歴史地名大系
し、同三七年以後再整備された。庭園は慶長年間の造営といわれ、しだれ桜の大木がある。裏山には伝比企能員の墓、伝土肥実平の墓のほか庄内藩有力家臣の白井矢大夫・竹内八
42. そうごじ【宗悟寺】埼玉県:東松山市/大谷村地図
日本歴史地名大系
当寺は鎌倉幕府二代将軍源頼家が伊豆修禅寺(現静岡県修善寺町)で謀殺されたのち、頼家の室若狭局(比企能員の女)が仏門に入り、頼家の追福供養のため、大谷村の比丘尼山
43. 曾我会稽山(近松門左衛門集) 354ページ
日本古典文学全集
正治元年(一一九九)頼朝の死で家督を継ぎ、建仁二年(一二〇二)従二位征夷大将軍。翌三年に舅の比企能員と結んで北条氏討滅を企てて失敗、能員は殺害され、頼家は伊豆修
44. 曾我物語 275ページ
日本古典文学全集
二代将軍頼家の側近くにも仕えた。建仁三年(一二〇三)九月、比企の乱では、北条時政の命に従って比企能員を討ったが、頼家は時政討伐を命じた。それにもかかわらず忠常は
45. 曾我物語 284ページ
日本古典文学全集
一三三ページ注九。真名本「糟谷藤太兵衛」。有季のこと。糟屋権守盛久の子。→一二八ページ注三。比企能員の婿となり、比企の乱で自害する。五五ページに「伊豆国の住人竹
46. 太平記 21ページ
日本古典文学全集
底本「捴」を朱で後補。寿永元年(一一八二)生。家督を継いでまもなく北条氏のために勢力を失い、舅比企能員と結び北条氏討伐を企てたが失敗、建仁三年(一二〇三)伊豆修
47. 太平記秘伝理尽鈔 1 107ページ
東洋文庫
頼家の直断を止め、北条時政・義時・大江広元・三善善信・中原親能・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員・安達盛長・足立遠元・梶原景時・二階堂行政の一三人の合議と
48. たがわぐん【田川郡】山形県:出羽国
日本歴史地名大系
の反乱が起こり、鎮圧のため派遣された宇佐美実政は討死、千葉常胤と比企能員によりようやく鎮圧された。井岡遠賀神社裏山には比企能員と土肥実平のものと伝える墓所がある
49. たがわむら【田川村】山形県:鶴岡市/大山川流域地区
日本歴史地名大系
奥州藤原氏方の田河太郎行文は秋田三郎致文とともに出羽国の警固にあたった。しかし同月一三日出羽国へ進出した比企能員らの軍に敗れ、行文・致文らは梟首となった。行文は
50. たねがしま【種子島】
国史大辞典
併合された。中世には『建久図田帳』に五百余町の耕地が記載され、島津荘とされていたが、島津氏が比企能員の乱に坐し、一時勢力が後退した際に、北条氏が地頭代肥後氏を任
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