1. 十七条憲法
日本大百科全書
しらぎ・百済くだら)にまでそれを誇負こふすることをねらったものと思われる。それが、おそらく十七条憲法の原形をなそう。17の数については、西域せいいきやインドを含
2. 十七条憲法
世界大百科事典
憲法十七条を作る〉として,以下に17ヵ条から成る長文の条例の文章を掲げており,これがふつう十七条憲法と呼ばれている。その内容は法制とはいっても近代の憲法や法律規
3. じゅうしちじょう‐けんぽう[ジフシチデウケンパフ]【十七条憲法】
日本国語大辞典
聖徳太子が制定したと伝えられる日本最初の成文法。成立年時については三種の記録があり、「日本書紀」では推古天皇一二年(六〇四)とする。官人の守るべき政治道徳上の心
4. じゅうしちじょうのけんぽう【十七条憲法】
国史大辞典
なり、人間の有限性の自覚を明らかにした内省を基調としつつ、仏教を為政者の心術として勧奨する十七条憲法は、大化改新以後の国家と仏教との結合につらなっておらず、むし
5. 【十七条(條)憲法】じゅう(じふ)しちじょう(でう)けんぽう(ぱふ)
新選漢和辞典Web版
《国》推古天皇の十二年に、聖徳(しょうとく)太子が制定し、群臣に示された十七条の戒め。憲法十七条。
6. 十七条憲法(著作ID:33125)
新日本古典籍データベース
じゅうしちじょうけんぽう 憲法十七条 聖徳太子憲法 聖徳太子憲法十七箇条 聖徳太子御憲法 聖徳太子十七箇条憲法 上宮太子十七個条憲法 聖徳太子(しょうとくたいし
7. 十七条憲法
日本大百科全書
一ひとつに曰いはく、和やわらかなるを以もちて貴とうとしとし、忤さからふること無なきを宗むねとせよ。人ひと皆みな党たむらあれど、亦また達さとる者ひと少すくなし。是
8. 十七条憲法開版
日本史年表
1285年〈弘安8 乙酉〉 3・‐ 法隆寺, 十七条憲法を開版 (同書刊記)。
9. 十七条憲法考異(著作ID:2912347)
新日本古典籍データベース
じゅうしちじょうけんぽうこうい 法制
10. あさまつりごと【朝政】
国史大辞典
『源氏物語』桐壼にみえるのが古い程度で、多くは国政一般を指す文学的表現と見てよい。官庁の早朝執務は『十七条憲法』を始め、常に強調されるところであるが、『続古事談
11. 飛鳥時代画像
日本大百科全書
のではない。その全国的施行は大化以後であり、そこに推古朝政治の一つの限界があった。 第二は十七条憲法である。これについても問題は多い。たとえば憲法の真偽について
12. 飛鳥時代
世界大百科事典
打破し,個人の能力によって昇進が可能な官僚組織を形成しようとする動きが現れる。冠位十二階と十七条憲法の制定がそれである。前者は冠位制をへて律令体制の基幹となる位
13. あすかじだい【飛鳥時代】
国史大辞典
中国が統一されて強大な隋が現われたことは、国政改革の必要を痛感させた。朝廷や太子は十二階冠位や『十七条憲法』を作り、隋に遣使して中国の制度をとりいれ、諸豪族の統
14. 飛鳥時代(年表)
日本大百科全書
暦・天文地理・遁甲方術の書をもたらす603(推古11)冠位十二階の制定604(推古12)聖徳太子、十七条憲法を制定607(推古15)小野妹子、遣隋使となる608
15. あすかぶっきょう【飛鳥仏教】
国史大辞典
「氏族仏教」と規定できる。推古天皇から政務を委ねられた聖徳太子が、仏教に心を寄せていたことは、『十七条憲法』や「天寿国繍帳」の銘文などによっても知られるが、しか
16. 出雲国風土記(風土記) 271ページ
日本古典文学全集
兮」の注に「枉、曲也」。『推古紀』十二年四月、
十七条憲法「何以直
枉」の「枉」の古訓、マカレルヲ
17. 汚職
日本大百科全書
頼みごと)が加わり、「七年以下の懲役」と刑が重くなっている。室伏哲郎五十嵐仁十七条憲法と汚職日本でも汚職の歴史は古い。聖徳太子の十七条憲法第5条には「頃このごろ
18. 伽婢子 2 261ページ
東洋文庫
推古天皇の時の摂政皇太子。 用明天皇の第二皇子。母は穴穂部間人の女。推古 一四年(六〇四)に十七条憲法を制定するなど、 推古天皇の摂政として内政・外交に尽力、仏
19. 陰陽道
世界大百科事典
僧観勒が暦本,天文地理書,遁甲方術書など陰陽道関係の書物を献上した。聖徳太子は冠位十二階や十七条憲法制定に陰陽道をとりいれ,国史編纂には国家の起源にこれを利用す
20. おんみょうどう【陰陽道】
国史大辞典
理書・遁甲方術の書を献ったので書生三、四人を選んでこれを学ばしめた。聖徳太子は冠位十二階や十七条憲法の制定発布に、また国史編纂に陰陽五行説を利用した。大化改新に
21. 懐旧録 サンスクリット事始め 298ページ
東洋文庫
ついで七日久遍宮別邸における仏教講話を拝命し、久遍宮智子女王殿下(現今の本山の御裏方)にたいして、聖徳太子の十七条憲法や、厳如上人のご事蹟等について、詳しいお話
22. 家訓集 164ページ
東洋文庫
託された。この書の成立については中世の聖徳太子信仰や天神信仰 が係わっており、内容的には『十七条憲法』の影響が深いとされている。覧氏は前掲書補註の中 で"この得
23. 家訓集 249ページ
東洋文庫
底本は「若ふも」とあるが、他本を参考にして改めた。(40) 聖徳太子の手になるとされている『十七条憲法』のこと。この遺訓が一七ケ条の体裁をとつ ているのは、これ
24. 甲子夜話続篇 8 192ページ
東洋文庫
綸旨 院宣 二巻一、資財録〔古代什物帳也〕 二巻一、十七条憲法〔足利義輝公筆〕一、武将判物〔足利家代々〕一、武将消息〔木下
25. かんじ【漢字】
国史大辞典
特にその上に組織された行政機構に注目するようになった。七世紀初めにはそれが具体化して「十二階冠位」や「十七条憲法」の制定が行われ、やがて中国の政治体制(律令国家
26. 漢文
日本大百科全書
来人が中心をなしていたと思われる。現存最古の文章は推古すいこ天皇時代のもので、聖徳太子の『十七条憲法』や「伊予温泉碑文」などには古文ながら文章の修飾への留意がみ
27. 漢文
世界大百科事典
いが,日本人が本格的に漢文を習得した痕跡があらわれるのは推古朝である。すなわち,聖徳太子の十七条憲法《三経義疏(さんぎようぎしよ)》などがその成果である。また,
28. がいかん【概観】 : 飛鳥時代
国史大辞典
中国が統一されて強大な隋が現われたことは、国政改革の必要を痛感させた。朝廷や太子は十二階冠位や『十七条憲法』を作り、隋に遣使して中国の制度をとりいれ、諸豪族の統
29. 近世の日本・日本近世史 229ページ
東洋文庫
『御触書寛保集成』、『御当家令条』(近世法制史料叢書2)、『武家厳制録』(同上3)等に収められている。十七条憲法の条数にならって十七ヶ条から成っている。『徳川禁
30. 偽書
世界大百科事典
が行われ,聖徳太子撰《先代旧事本紀》も平安時代の偽書であろうといわれている。聖徳太子には〈十七条憲法〉をはじめ著作が多い。《天皇記》《国記》は太子と蘇我馬子の合
31. くじたいせいきょう[クジタイセイキャウ]【旧事大成経】
日本国語大辞典
編纂したものとされる。前半三八巻は史書の体裁をとり、後半三四巻は神儒仏三教一致の立場から、十七条憲法や霊元神道に関する教説を述べる。天和元年(一六八一)幕命によ
32. くに【国】
国史大辞典
といえよう。六世紀に国家組織の進展によって、各地域を代表する「国造」の名が現われ、推古朝の十七条憲法に「国司、国造」の語もあって、かれらの支配する国が政治過程に
33. 遣隋使画像
世界大百科事典
ば使者を送っており,外交的にはあまり効果をあげなかったらしいが,この後国内では冠位十二階・十七条憲法の制定など推古朝の主要な改革が行われた。607年(推古15,
34. 憲法
日本大百科全書
憲法といえば一般に形式的意味の憲法(憲法典)をさしていると考えて誤りはない。 憲法という語は聖徳太子の十七条憲法に初めてみいだされるが、これは現在いうところの憲
35. 憲法
世界大百科事典
…国憲ヲ定メントス〉とあったが,1880年代になって〈憲法〉が定着していった。聖徳太子の〈十七条憲法〉は,倫理的ないし宗教的規範,行政機構の内部規律などの要素が
37. けんぽう‐じゅうしちじょう[ケンパフジフシチデウ]【憲法十七条】
日本国語大辞典
聖徳太子が制定したわが国最初の成文法。官吏、貴族の守るべき道徳的な訓戒を一七か条に漢文で書いたもの。十七条憲法。*神皇正統記〔1339~43〕中・推古「十七年己
38. けんぽうじゅうしちじょう【憲法十七条】
国史大辞典
⇒十七条憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)
39. 建武式目
日本大百科全書
土倉どそうなどを保護して市中の経済活動を円滑にすることを意図している。17の数は聖徳太子の十七条憲法を意識したものであろうか。さらに後文では、公家社会の延喜えん
40. 建武式目
世界大百科事典
鎌倉に置くか他所に移すか,(2)どのような法理によって政道を進めていくか,の2編に分かれ,(2)は聖徳太子の十七条憲法と同じく17ヵ条から成っている。(1)は政
41. 孝経画像
日本大百科全書
しゅき)の『孝経刊誤』、元げんの董鼎とうていの『孝経大義』などがある。 わが国への伝来は「十七条憲法」以前と推定され、「大宝令たいほうりょう」には大学の必修科目
42. こうきょう【孝経】
国史大辞典
刪って改編し、同派に元の董鼎の『孝経大義』などの注がある。本邦伝来の年代は不明であるが、『十七条憲法』の詞章に出典を『孝経』とすると思われるところがあり、将来の
43. こうたいししょうとくほうさん【皇太子聖徳奉讃】
国史大辞典
徳奉讃』ともいう。第一首より第七十二首までに太子の伝記をうたい、七十三首以下末尾の三首で『十七条憲法』の三宝篤敬や訴訟における貧者の不利を述べた文句を引拠してい
44. こだい【古代】画像
国史大辞典
中国の法を積極的に継受する方向に動いた。七世紀初頭推古朝におけるわが国最初の成文法典たる『十七条憲法』の制定、また『隋書』倭国伝にみられるような中国の五刑の選択
45. こだいたいかのかいしんいぜん【古代―大化改新以前―】 : 法
国史大辞典
法の神授法的性格は薄れ俗人法へと移行した。氏族社会末期推古天皇十二年(六〇四)に、聖徳太子により制定された十七条憲法の性格については諸説紛々、政治的道徳的教訓規
46. こだいちゅうせい【古代・中世】 : 儒教
国史大辞典
への留学生派遣も始まって、儒教受容は一段と進展した。推古天皇十二年(六〇四)成立とされる『十七条憲法』は、その一つの到達点を示すものである。そこには仏教の影響も
47. 古代法
世界大百科事典
は異なるものとなっていた。石母田はこの段階での法を,国造法と称している。聖徳太子が制定した十七条憲法は,上記のような王法の一つの到達点を示すものである。この憲法
48. こゆうほうのじだい【固有法の時代】 : 古代
国史大辞典
中国の法を積極的に継受する方向に動いた。七世紀初頭推古朝におけるわが国最初の成文法典たる『十七条憲法』の制定、また『隋書』倭国伝にみられるような中国の五刑の選択
49. ころ・す【懲】
日本国語大辞典
和文には見られない。「打聞集‐釈迦如来験事」の「今ころしむべきなりとて、獄に坐られぬ」や「十七条憲法承安三年点」の「懲 コロシメ イマシメ」などに見える「ころし
50. 御成敗式目画像
日本大百科全書
条は、聖徳太子の十七条憲法を基に、天地人の三方に配して3倍の51条としたと伝えられる。建武けんむ式目も17条であり、武家社会に太子信仰のあったことは事実であろう