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  11. 鎌倉仏教

鎌倉仏教

ジャパンナレッジで閲覧できる『鎌倉仏教』の国史大辞典のサンプルページ

国史大辞典
鎌倉仏教
かまくらぶっきょう
鎌倉仏教は新仏教の成立と南都仏教の復興に分けて論ぜられる。新仏教は法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、日蓮の日蓮宗であるが、その成立の原因については仏教思想の変遷を主軸とする研究と、社会・経済の変遷に即して見る研究とがある。しかし仏教思想の流れを主とし、社会・経済の面を従として考察すべきであろう。新仏教の開宗者は一遍を除いてみな叡山の出身者であるから、天台宗を母胎としていることは明らかであり、したがって天台教学を修学している間にそれぞれが思想的疑問にぶつかって、それを解決しようとして新しい道を探求したと見るべきである。その思想的疑問というのは道元が叡山修学中に提起したと伝えられる「顕密二教共に談ず、本来本法性(ほっしょう)、天然自性身と、若し此の如くならば則ち三世の諸仏甚(なに)に依て更に発心して菩提を求むる耶」(『建撕記』、原漢文)という、天台本覚思想の矛盾についてである。その主旨は天台・真言二宗では衆生は本来仏であると説いているが、それならば三世の諸仏は何故に発心修行したのであるかというのである。天台宗の本覚思想は宗祖最澄が入唐して密教をとり入れたのに始まり、円仁・円珍によって密教を重視する台密という傾向を発達させ、さらに良源を経て源信・覚運に至ると浄土教を加え、天台教学と密教・念仏を融合して即身成仏の行法を工夫したのであった。源信は『観心略要集』の中で、阿弥陀の三字には仏の一切の教法・智徳が含まれているから「其の名号を唱ふるは即ち八万の法蔵を誦し、三世の仏身を持(じ)するなり」(原漢文)と述べ、覚運は『念仏宝号』の中で、極楽教主の弥陀仏と久遠実成(くおんじつじょう)の釈迦仏と密教の大日如来との一体を説き、「願はくは聖、大智慧を得せしめ、自他同じく大菩提を証せんことを」(原漢文)と述べている。つまり衆生と諸仏と一体であるという前提に立って、衆生の即身成仏のための直接的な方法を苦心工夫したのである。こういう本覚思想に基づく即身成仏の方法に法然以下の開宗者はひそかに疑問を抱いて、それぞれの道を選んで解決をはかろうとしたものと推測される。法然は安元元年(一一七五)四十三歳のとき、唐の善導の『観経疏』の「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるを、是を正定業(しょうじょうごう)と名づく、彼の仏願に順ずるが故に」という文を読んだ際、阿弥陀仏の本願を信ずる他力の信に帰入することができて解決に到達した。これは体験的な解決であるから、理論的な論証は不要であったのである。法然はこうして弥陀の本願に帰入して専修(せんじゅ)念仏の一宗を開いたのであるが、建久九年(一一九八)『選択本願念仏集』を撰述したころまでは、本覚思想の滓が多少残っていた。同書の第三章「念仏往生本願篇」に弥陀の名号には諸仏の四智・三身といった内証の功徳、相好・光明といった一切の外用(げゆう)の功徳が含まれているから、名号の功徳が最も勝れていると論じている。これは上述の源信の思想と全く類同である。けれども最晩年の『一枚起請文』になるとそういった本覚思想は全く払拭されて、「一文不知の愚とんの身になして」「ちしやのふるまいをせずして、只一かうに念仏すべし」という念仏一筋に浸りきる心境に到達した。ここに天台教学を脱却した法然の全人格を見ることができる。ただそこには念仏するのは自分であるという意識が底にあるので、まだ自力的余習からは脱しきれていないようである。そういう自力的余習が全く消えて、純粋他力の信心に安住したのが親鸞である。親鸞は叡山の修学二十年間は源信の系統の天台本覚法門を学び、また堂僧として不断念仏を勤めていたようである。建仁元年(一二〇一)二十九歳のとき叡山を下りて京都の六角堂に参籠したが、やはり本覚法門の疑問に逢着したからであろう。そして法然の弟子となり、やがて承元元年(一二〇七)越後国に流され、建保二年(一二一四)常陸国稲田(茨城県笠間市稲田)に移住した。常陸にとどまることおよそ二十年、農民層の間に念仏の教えを弘めるとともに『教行信証』の撰述を続けたが、寛喜三年(一二三一)五十九歳のときに自力的根性がきれいに払拭されて、純粋他力の信を体験することができた。その結果、念仏を唱えるのは自分の力ではなく、阿弥陀仏から賜わった信の力によるのであるという新しい廻向(えこう)の意義を証(さと)り、自我の執が全くなくなった境地に到達した。この体験を説いた思想が諸仏等同説である。『浄土和讃』の中に「信心よろこぶそのひとを、如来とひとしとときたまふ、大信心は仏性なり、仏性すなはち如来なり」と詠んでいる。つまり信心に安住したときに如来と等しい境地になるということで、ただ理論的に衆生即如来と説く本覚思想とは次元を異にした体験の表現である。次に同じ浄土系統でも一遍の思想は全く傾向を異にしている。一遍は浄土教に天台本覚思想をとり入れた証空(法然の弟子)の法系であるから、文永十一年(一二七四)熊野権現から授けられたという偈の中にも「六字名号一遍法、十界依正一遍体」と本覚論的思想が説かれている。そして浄土三部経の中でも『阿弥陀経』を特に重んじ、同経の「臨命終時」の句により、平生時を常に臨終時と心得て念仏するようにと説くところから、時衆の宗名が生じた。また一遍は捨聖(すてひじり)と呼ばれるようにすべての煩悩を捨棄する「離三業(りさんごう)の念仏」を説き、諸国を遊行(ゆぎょう)しながら賦算と称して「南無阿弥陀仏(決定往生六十万人)」と書いた紙片を人々に配って念仏を勧めた。なお熊野権現から神勅を受けたことから明らかなように、神道との結びつきが目立ち、宇佐八幡宮・男山八幡宮・住吉神社・三嶋神社に参詣し、当時高まってきた神国思想の流れに乗って教勢を拡げていった。浄土の新宗派と並んで中国宋朝の禅宗が伝えられて発展していった。まず臨済宗は十二世紀末に能忍が達磨宗として弘めたが、入宋して正式に伝えたのは栄西である。栄西は建久二年帰朝して黄竜(おうりょう)派の臨済禅を伝え、博多に報恩寺などを建てて弘めたが、比叡山の訴えで同五年朝廷から禅宗の弘通を停止された。そこで栄西は『興禅護国論』を著わして諸宗の非難を排し、禅宗の立場を明らかにした。同書のはじめに参禅問道は戒律を先と為すことが説かれているように、栄西には戒律重視の思想があった。また栄西は入宋以前に伯耆大山(だいせん)寺の基好について台密を学び、延暦寺で灌頂を受け、葉上流という台密の一派を開いているので、その禅は純粋な臨済禅ではなく、禅・戒・密兼修の傾向が濃かった。したがって天台本覚思想に疑問をいだいた跡はなく、むしろそれに同調したように思われる。その法系もこの宗風を継承している。このような兼修禅に対して純粋な臨済禅を弘めたのは南浦紹明の法系の応燈関の一派と、宋から来朝した禅僧である。応燈関の一派は大徳寺派と妙心寺派に分かれて発展していった。来朝した宋僧の中で蘭渓道隆は北条時頼の帰依をうけて建長寺の開山となり、その法系を大覚派といい、無学祖元は北条時宗に迎えられて円覚寺の開山となり、その法系は仏光派と呼ばれ、夢窓疎石が出るに及んで室町時代の五山禅林に圧倒的勢力を占めた。このほか兀庵(ごったん)普寧・大休正念・一山一寧なども来朝している。曹洞宗を伝えたのは道元である。道元が叡山で修学中、十五歳のとき天台本覚思想に大きな疑問をいだいたことははじめに述べた。この疑問を解決しようとして建仁寺に栄西を訪ね、栄西の死後その弟子の明全に従い、貞応二年(一二二三)ともに入宋することになった。そして天童山の如浄(にょじょう)の下で参禅し、宋の宝慶元年(嘉禄元、一二二五)二十六歳で身心脱落(しんじんだつらく)の悟りを開き、ここにかつての本覚思想の疑問は体験的に解決したのであった。安貞元年(一二二七)帰朝後は深草の興聖(こうしょう)寺で懐奘(えじょう)以下の弟子を指導し、比叡山から迫害を受けると越前国の御家人波多野義重の招聘によって寛元元年(一二四三)越前国に下向し、永平寺に止住した。道元は師如浄の誡めに随って権門勢家に近づかず、只管(ひたすら)坐禅弁道につとめ、僧堂生活の規則を作って厳しく学人を接得した。その説法は『普勧坐禅儀』『正法眼蔵』に集録されているが、正伝の仏法は坐禅において現われると説いて祗管打坐(しかんたざ)を勧める。そして坐禅といっても悟りを得るための手段ではなく、坐禅はそのまま悟りの境地であるといって、これを修証一等、本証妙修と呼ぶ。表現は本覚思想と変わらないが、道元には身心脱落の体験があるから、理論だけの本覚思想とは根本的に違うのである。このように道元は坐禅を生命とする宗風を開いたが、三代の法嗣のときに永平寺に争論が起り、瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)が能登国に永光(ようこう)寺・総持寺を開いてからは教団勢力の発展をはかるようになって、道元の宗風は失われてしまった。以上の諸宗とは異なって天台宗の法華思想を継承して一宗を立てたのは日蓮である。日蓮は十余年にわたる叡山の修学を終えて建長五年(一二五三)故郷の安房国に帰り、清澄山で法華宗を開いた。その宗旨は『法華経』だけが釈迦の真実の教えであるから、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えて『法華経』を信ずるようにというのである。文応元年(一二六〇)『立正安国論』を書いて幕府に提出したために伊豆に流され、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と唱えて他宗批判をしたために、文永八年佐渡流罪となった。このような迫害を受けるたびに日蓮は『法華経』の行者の自信をますます強め、佐渡においては自身が末法の世に『法華経』流布を釈迦から直接付嘱されたという上行(じょうぎょう)菩薩の再誕であるとの信念をもつに至った。そして佐渡では『開目鈔』『観心本尊抄』の二大著作を撰し、自宗の根本教義を宣述した。『観心本尊抄』の中で、「妙法蓮華経」の五字には釈尊の因行果徳が含まれているから、この題目を唱えれば釈尊の因果の功徳が譲り与えられると説いている。これは天台本覚思想を集約した修行方法で、その主旨を図に顕わしたのが曼荼羅であるから、日蓮の思想は本覚思想を中核とし、それに真言宗の曼荼羅、念仏宗の口称念仏を融合したものと見ることができる。さて新仏教の背景である社会情勢は、旧仏教の堕落に伴う僧兵の乱暴と天災地変の頻発、盗賊の横行などで末法思想が深刻になり、民衆の間に新しい救済が望まれていた。そういう民衆の要望を満たしてくれたのが浄土教諸宗と日蓮宗である。また禅宗の僧堂規範は武士の生活態度と相通ずるものがあり、武士も宋・元の文化を受容するまでに成長したので、鎌倉時代の禅宗は皇室・貴族をはじめとして武士階級に受容されていった。終りに南都仏教の復興について簡単に触れることにする。南都の六宗は一般に学解(がくげ)仏教といわれるように教学の研究が主であったから、新仏教のように実践修行の分野での根本的改革はなされなかった。まず華厳宗では高弁が出て華厳教学を研究し、栂尾(とがのお)山を華厳の道場とした。しかし華厳の学匠というよりは戒律を厳守したことによって貴族層の崇敬をあつめた。また弥勒信仰をいだき、兜率往生を願っている。法相宗の貞慶(じょうけい)も唯識教学の著書はあるがやはり厳格な持戒者であり、弥勒信仰をいだいていた。次に律宗は復興が最も著しかった。律宗は京都の北京律と奈良の南京律に分かれた。北京律には俊〓(しゅんじょう)が出て入宋して南山律を伝え、京都の泉涌寺を再興して戒律の講説を行なったが、その内容は天台・禅・律三宗の合一したものであった。南京律には叡尊・忍性が出て戒律思想の民衆化をはかったが、その内容は戒律と密教が融合した真言律宗であったのである。戒律の民衆布教のために叡尊は非人救済事業をおこし、忍性は奈良に北山十八間戸と呼ばれる癩患者の宿舎を作ったりしたので、世人の尊敬をあつめ鎌倉幕府の厚い帰依をうけた。
[参考文献]
辻善之助『日本仏教史』二・三、大野達之助『新稿日本仏教思想史』、赤松俊秀監修『日本仏教史』二、家永三郎『中世仏教思想史研究』
(大野 達之助)
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1. かまくらぶっきょう【鎌倉仏教】
国史大辞典
鎌倉仏教は新仏教の成立と南都仏教の復興に分けて論ぜられる。新仏教は法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、日蓮の日蓮宗であるが、
2. 鎌倉仏教[宗教]画像
イミダス 2018
比叡山で浄土教を学んだ法然(源空 1133~1212)は「南無阿弥陀仏」と口称する念仏のみによって救われるとする専修念仏(せんじゅねんぶつ)を説き、新興の武士
3. むがくそげん【無学祖元】(Wúxué Zǔyuán)
世界人名大辞典
寺に開山初祖となる[82].建長寺に戻り[84]さらに2年して寂した.弟子に高峰顕日がおり,鎌倉仏教界の主流となる.〖著作〗 仏光国師語録, 10巻(大日本仏教
4. あかまつとしひで【赤松俊秀】
国史大辞典
研究』、『教行信証』『親鸞伝絵』など真宗史や覚超・覚鑁・一遍の研究などをあつめた『鎌倉仏教の研究』『続鎌倉仏教の研究』、親鸞伝の『親鸞』(『人物叢書』六五)、寺
5. あかまつ-としひで【赤松俊秀】
日本人名大辞典
多方面にわたる業績をあげた。昭和54年1月24日死去。71歳。北海道出身。京都帝大卒。著作に「鎌倉仏教の研究」など。
6. 悪人正機説[宗教]画像
イミダス 2018
すべての者が悪人だからといって、意識的に悪事を行うことは「本願ぼこり」として、厳しく戒めた。(→「鎌倉仏教」) [図・式]図「日本の宗教の信者数」
7. 尼
世界大百科事典
法華滅罪之寺といい,10尼が置かれた。平安時代以降,貴族が経済的に衰退し,その子女が仏寺に入る例が多かった。鎌倉仏教は,従来の女性軽視の立場を反省し,女性の救済
8. 一遍
世界大百科事典
拡大して広く民衆を救おうとしたとき,民衆の生活と密接に結びついている土着の信仰への対応を迫られた。鎌倉仏教の展開の最終段階に登場した一遍は,神祇信仰をはじめ,伝
9. いっぺん【一遍】
日本架空伝承人名事典
拡大して広く民衆を救おうとしたとき、民衆の生活と密接に結びついている土着の信仰への対応を迫られた。鎌倉仏教の展開の最終段階に登場した一遍は、神祇信仰をはじめ、伝
10. いんじん【印信】
国史大辞典
信と信順・無疑の三つに解している。印信とは符契を信とする書信の義で伝法の証明書にしている。後世、鎌倉仏教になると、袈裟・法具などの付嘱・譲状・法信物まで印信と称
11. 栄西[文献目録]
日本人物文献目録
和尚』鏡島元隆『東大寺再建と栄西禅師』林岱雲『比叡山に於ける栄西禅師の旧跡』奥村玄道『末法と鎌倉仏教』赤松俊秀『山を下りし栄西禅師』西義雄『洛陽東山建仁禅寺開山
12. 応和宗論
日本大百科全書
思想と始覚門(しかくもん)思想、理想主義と現実主義との対立ともいうべきもので、その止揚解決は鎌倉仏教にゆだねられたとみることができる。薗田香融
13. おおいごう【大井郷】東京都:品川区
日本歴史地名大系
右岸には真言宗万福寺、天台宗常林寺ジヨウリンジ、浄土真宗西光寺・光福寺などの寺院があった。南北の品川地域は鎌倉仏教系の寺院が圧倒的であるのと対照的に、大井には顕
14. おわりのくに【尾張国】愛知県
日本歴史地名大系
。また、すでに尾張には天台・真言の両派が伝えられていたが、戦乱の続く不安な世相もあって新しく鎌倉仏教が広まった。武士の間には臨済宗・曹洞宗が信仰された。尾張は浄
15. 神奈川(県)画像
日本大百科全書
獅子が湯立を行うのは珍しく、宮城野の湯立獅子舞(国選択無形民俗文化財)も仙石原と同系統のものとされる。鎌倉仏教の時宗(じしゅう)に連なる念仏芸は、藤沢の清浄光寺
16. 鎌倉[市]画像
世界大百科事典
かけようとしたが,幕府によって鎌倉入りを阻止され,結局は郊外の片瀬の地で多くの人々を教化した。鎌倉仏教の興起と都市鎌倉は,やはり深い関連があったのである。特に鎌
17. 鎌倉時代画像
日本大百科全書
上皇の理想主義的情熱や、波瀾(はらん)の世を生きる歌人たちの緊張は、歌壇の停滞を打破している。上横手雅敬鎌倉仏教平安時代以来、仏教の基本的課題は、末法の世におけ
18. かわちのくに【河内国】大阪府地図
日本歴史地名大系
八尾市の→西郡村)、地域における社会的地位の強化をはかっている。鎌倉中期、戒律の復興を唱えて鎌倉仏教の世界に大きな足跡を残した西大寺の叡尊は、北条氏一門の帰依と
19. 感身学正記 1 西大寺叡尊の自伝 89ページ
東洋文庫
建保六年(一二一八)に泉涌寺に 住して伽藍を再興して以来、北京律の道場となった(石田充之編『鎌倉仏教成立の研究俊彷
20. 感身学正記 1 西大寺叡尊の自伝 134ページ
東洋文庫
橋勧進を行っていることも、律宗が水上交通路に進出したことの一例として注目すべぎであろう(細川涼一「鎌倉仏教の勧進活動」『中世寺院の風景』新曜社、一九九七年)。元
21. 感身学正記 1 西大寺叡尊の自伝 197ページ
東洋文庫
去帳』比丘衆衆首分に「信願房 知足院」。良遍については、 田中久夫「仏教者としての良遍」(『鎌倉仏教雑考』思文閣出版、一九八二年)。同「著作者略 伝(良遍)」(
22. 感身学正記 1 西大寺叡尊の自伝 253ページ
東洋文庫
 年)。田中久夫「円照から受戒した人たち」(『鎌倉仏教雑考』)。古田紹欽「円爾弁円と実相 房円照」(『南都仏教』三九号、一九七七年)。円照の母如円や姉円性(とも
23. 感身学正記 1 西大寺叡尊の自伝 256ページ
東洋文庫
二五六i五七頁に小伝があり、出家後の仏教信仰については、田中久夫「葉 黄記に見える葉室定嗣の信仰の一面」(『鎌倉仏教雑考』)に詳しい。今後、後嵯峨院側近と して
24. きんせい【近世】 : 儒教
国史大辞典
発展をとげ、日本人による知的活動の成果を代表するものとして、わが国の思想史上に、仏教における鎌倉仏教と並ぶほどの、重要な意義を担うものとなっている。  近世の儒
25. けぎょう【加行】
国史大辞典
八百日・二百日・百日等にわたり行われるが、日数は時代・流派により異なり短縮化の傾向がみられる。鎌倉仏教諸宗の加行の創始は密教の影響によるものと考えられるが、浄土
26. 幸若舞 3 敦盛・夜討曾我他 101ページ
東洋文庫
何らかの根拠があった事は否定できない。もっとも赤松俊秀氏は、「熊谷直実の上品上生立願について」(『続鎌倉仏教の研究』「源空について」)の中で、『熊谷家文書』建久
27. 坐禅[宗教]
イミダス 2018
仏教の基本的な坐法となった。日本では中国で学んだ栄西(ようさい、えいさい)や道元の禅宗(→「鎌倉仏教」)が教外別伝(きょうげべつでん)、不立文字(ふりゅうもんじ
28. 四天王寺
世界大百科事典
,彼らによって念仏と太子信仰が各地に広められた。融通念仏をはじめた良忍や法然,親鸞,一遍など鎌倉仏教の宗祖たちの参籠も伝えられ,四天王寺の信仰をさらに増幅させる
29. しながわく【品川区】東京都地図
日本歴史地名大系
両郷にはともに多くの寺院が建立されたが、大井は顕密仏教系が卓越しているのに対し、南北品川には鎌倉仏教系が集中していた。この違いは大井・品河両氏の勢力の推移と鎌倉
30. しゃせきしゅう【沙石集】
国史大辞典
推して、読者は少なくなかったはずである。近世にはかっこうの仏教入門書として迎えられた。今も、鎌倉仏教のあり方を示す思想書として、また、中世庶民の世界をなつかしく
31. 宗教画像
日本大百科全書
しばしば為政者から迫害を受けた。 中世、とくに12、13世紀にはトマス・アクィナス、アル・ガザーリー、朱子、鎌倉仏教のような思想の体系化、深化が進んだが、一方、
32. 宗性[文献目録]
日本人物文献目録
【逐次刊行物】:2件 『宗性上人関係資料集 年譜 1‐3』大屋徳城(著), 平岡定海(編)『鎌倉仏教文化研究 1』-『東大寺宗性上人之研究並史料 3巻3冊』平岡
33. 俊芿
世界大百科事典
彼に帰依する者は,後鳥羽・順徳両帝,北条政子,北条泰時などの権門から,下は広く庶民に及び,その戒律復興の運動は鎌倉仏教界に大きな衝撃を与えた。後世その戒律を北京
34. しょうどうぶんがく【唱導文学】
国史大辞典
受けて願文や表白を作成・提供することが本業だったらしく、唱導に職業的流派が発生したことを物語っている。中世は鎌倉仏教の隆盛に伴い、『宝物集』『沙石集』『三国伝記
35. 声明
日本大百科全書
れが顕著である。しかし、実際の演唱と理論には食い違った部分もある。また、両宗派の音楽理論は、鎌倉仏教の各宗派にも少なからず影響を及ぼしている。 声明は単旋律音楽
36. 声明
世界大百科事典
基盤としつつ,それぞれ独自に展開していった。また臨済宗,曹洞宗を開いた栄西(えいさい)と道元はほかの鎌倉仏教の開祖と同様に一時比叡山に学んでいるが,中国に渡り宋
37. しょうみょうじしんとう【称名寺神道】
国史大辞典
これは称名寺における神道受容を促進するとともに、密教神道形成の基礎となっている。特に東密諸流を相承し、鎌倉仏教界の指導的地位にあった釼阿は、『日本書紀』をはじめ
38. しょうれんいんもんじょ【青〓院文書】
国史大辞典
『愚管抄』の承久の乱前成立説を決定づける慈円の自筆願文が発見されている(赤松俊秀「愚管抄について」(『鎌倉仏教の研究』所収))ように、なお今後の新文書の発見が期
39. 親鸞[文献目録]
日本人物文献目録
附・親鸞聖人及び其遺族の体験』藤原猶雪『鎌倉初期のンとム 親鸞上人の場合を中心に』潟岡孝昭『鎌倉仏教思想論 親鸞・道元・日蓮の倫理思想史的考察』戸頃重基『感ずる
40. じゅきょう【儒教】
国史大辞典
発展をとげ、日本人による知的活動の成果を代表するものとして、わが国の思想史上に、仏教における鎌倉仏教と並ぶほどの、重要な意義を担うものとなっている。  近世の儒
41. じんせきぐん【神石郡】広島県
日本歴史地名大系
油木町の油木八幡神社がある。奈良仏教にかかわる古代寺院跡も確認されていないが、現存寺院のいくつかが、鎌倉仏教の諸宗に改宗する以前には天台宗・真言宗の寺であった伝
42. せんちゃくほんがんねんぶつしゅう【選択本願念仏集】
国史大辞典
反響があまりにも大きく、栂尾の高弁、並榎(なみえ)の定照らをはじめ、聖道家からの批判攻撃を受けた。しかし鎌倉仏教に与えた影響はまことに大きい。『選択集』は根本祖
43. 太平記 303ページ
日本古典文学全集
未来記」の引用がある。[参考]和田英松『国史国文之研究』「聖徳太子未来記の研究」、赤松俊秀『鎌倉仏教史の研究』「南北朝内乱と未来記について」。日本古典鑑賞講座『
44. 太平記 317ページ
日本古典文学全集
ついて」『仏教史学』一〇‐四)。[参考]金井清光『時衆文芸研究』「太平記と時衆」。赤松俊秀『鎌倉仏教の研究』「時宗芸術史の一、二の問題について」。「肩に投懸は腹
45. 題目[宗教]画像
イミダス 2018
華経の功徳が凝集しているとし、これを唱えれば末法の世の人間は成仏できると説いた。日蓮宗(→「鎌倉仏教」)では、題目を記したものを本尊とし安置して崇拝するとともに
46. 中世社会
世界大百科事典
とりもどして〈人物〉とすることができないという仏陀法など,この界特有の新しい法理を生みだしたのである。やがて鎌倉仏教の広布,その一向専修的傾向が強化されるなかで
47. 天台宗画像
日本大百科全書
川・谷両流の密教は13流に分流した。各教義の心要を師から弟子に直伝(じきでん)する口伝法門(くでんほうもん)は鎌倉仏教成立の遠因にもなり、口伝によって独自に意義
48. てんだいしゅう【天台宗】
国史大辞典
その門流の隆寛・辨長・証空・聖覚・源智・親鸞、さらに一遍らは皆叡山で学んだ念仏の学僧であり、同じく鎌倉仏教を成立させた栄西・栄朝・道元・日蓮も叡山で学んでいる。
49. 道元[文献目録]
日本人物文献目録
道元』鏡島元隆『華閑世界起 道元の世界』大岡信『鎌倉新仏教における栄西と道元の位置』池上潔『鎌倉仏教思想論 親鸞、道元、日蓮の倫理思想史的考察』戸頃重基『教宗時
50. にしつがるぐん【西津軽郡】青森県
日本歴史地名大系
)がある。光明真言信仰は修験道とも関係をもちながら広まったと思われ、前述の関の古碑群がある。鎌倉仏教として、高沢寺(現鰺ヶ沢町七ッ石町)は曹洞宗総持寺(現神奈川
「鎌倉仏教」の情報だけではなく、「鎌倉仏教」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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平安中期の仏教書。天台宗の僧源信(恵心僧都)の著。43歳の984年(永観2)11月から書き始め、翌年4月に完成したもので、3巻10章からなる。濁世末代の人にとって極楽に往生する道を示す教えこそもっともふさわしいものであるという信念から、そのために必要な念仏について経典や論疏
宝物集(日本大百科全書・世界大百科事典)
鎌倉初期の仏教説話集。平康頼作説が有力。一巻本、二巻本、三巻本、七巻本の各系統に分かれるが、一巻本は1179年(治承3)ごろ、それを増補・改編したと思われる七巻本は1183年(寿永2)ごろの成立かと推定される。京都の嵯峨清凉寺の通夜のおりの座談の聞き書きという形をとっており
正法眼蔵随聞記(国史大辞典・日本古典文学全集・日本大百科全書・世界大百科事典)
道元が門下に示した示誡を孤雲懐奘が聞くに随って記録し、これをその門下が編集したもの。六巻。道元が宋から帰朝してのち、初開の道場である京都深草の興聖寺において、嘉禎年間(一二三五―三八)その門下の僧衆に示した示誡の集録である。明和七年
元亨釈書(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
鎌倉時代末期に虎関師錬が著わした仏教史書。三十巻。仏教の伝来から元亨二年(一三二二)までの約七百余年間にわたる諸宗僧侶の伝記や評論、および仏教関係の諸事蹟などを漢文体で記した日本仏教の略史である。『史記』『漢書』、または『仏祖統記』などの体裁にならって、全体の構成を
一言芳談(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
中世の念仏行者らの信仰をめぐる法語類を集録した書。もと一巻。編者は不詳。頓阿が編集したとの説もあるが信じ難い。『徒然草』に本書からの引用があるので、『徒然草』成立時を最下限としてそれ以前半世紀ぐらいの間(一二八〇―一三三〇)に成ったと思われる。法然をはじめ浄土信仰者
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聖書(集英社世界文学大事典・世界大百科事典)
ユダヤ教およびキリスト教の聖典。人類の歴史において,聖書ほど広く世界に行き渡り,人々の心を深く捉え,その社会・文化あるいは思想の形成に多大な影響を与え,また熱心な研究の対象となってきたものはおそらくないであろう。その意味で,聖書は人類の大いなる遺産
閻魔(日本架空伝承人名事典・日本国語大辞典・世界大百科事典)
閻魔は冥府の王として仏教とともに日本に入り、恐ろしいものの代名詞とされたが、地蔵菩薩と習合して信仰対象にもなった。奈良時代には閻羅王と書かれ、まれに閻魔国とも書かれている(『日本霊異記』)。閻羅は閻魔羅闍(えんまらじゃ)の略で、閻魔王の意味である。
信教の自由(日本大百科全書・世界大百科事典)
宗教を信仰し、宗教上の行為を行う自由。宗教の自由ともいう。信教の自由は、宗教的権威から人間精神を解放することにより、近代の精神的自由の確立に大きな役割を果たした。また、信教の自由は、人間の魂の救済にかかわる自由として、精神的自由の源をなし、近代以来の
三宝絵詞(東洋文庫・国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本国語大辞典)
平安中期,出家した尊子内親王に源為憲が献じた仏教入門書。表題には「絵」とあるが,絵は失われて詞書だけがのこる。本生譚,経典の功徳,仏教・年中行事などを内容とする。1990年01月刊
渓嵐拾葉集(国史大辞典・世界大百科事典)
叡山の光宗が応長元年(一三一一)から貞和四年(一三四八)にかけて叡山天台の行事・作法や口伝法門などを集録したもの。もと三百巻あったと伝えるが、現在は百十三巻。顕部・密部・戒部・記録部・医療部・雑記部の六部からなり、当時の天台の顕・密・禅・戒に関する
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