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  11. 鑑真

鑑真

ジャパンナレッジで閲覧できる『鑑真』の新版 日本架空伝承人名事典・世界大百科事典のサンプルページ

新版 日本架空伝承人名事典
鑑真
がんじん
688‐763
中国、唐代の高僧。唐の揚州江陽県の生まれで、揚州の大雲寺で出家し、二〇歳で長安や洛陽の高僧から戒律関係の教理や、律宗・天台宗の教義を学んだ。とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を研究し、南山律宗の継承者として日夜活動、「江淮こうわい化主」と尊敬され、得度や受戒をした弟子は四万人といわれた。七三三年(天平五)遣唐使の多治比広成に随行して奈良興福寺の栄叡と普照が入唐。揚州大明寺に鑑真を訪ね、日本へ戒律を伝えるため東航を要請した。弟子らが渡海の危険を訴えると、鑑真は仏法のために「何ぞ身命を惜しまん」と言い、自ら渡航の意思を決然と語った。しかし、鑑真一行の渡海は、暴風による遭難や鑑真の離国を惜しむ者の密告などで五回も挫折。この間一二年、栄叡は死去し、鑑真は両眼を失明した。七五三年に藤原清河を大使とする第一〇回遣唐使が帰国する便に乗船することになった。大使と阿倍仲麻呂が乗った第一船は驩州かんしゅう(現、ベトナム北部のビン付近)まで吹き流されて漂着。地元民と言葉が通じず、乗船者約二〇〇人の大半が殺された。鑑真と副使大伴古麻呂が乗った第二船は、沖縄を経て薩摩国坊津ぼうのつ(現、鹿児島県南さつま市)に漂着。なお、普照と副使吉備真備きびのまきびの第三船は現在の和歌山県白浜町に漂着した。鑑真が第二船に乗ったのは、時の皇帝玄宗が鑑真の才能を惜しんで渡海を許さず、大使藤原清河は鑑真の乗船を拒否。そのため副使大伴古麻呂が密かに乗船させたためである。七五四年(天平勝宝六)一月、平城京に到着した鑑真は、聖武上皇・孝謙天皇以下の歓待を受けた。奈良東大寺大仏殿前に戒壇を設け、上皇から僧尼まで四〇〇人に菩薩戒を授け、以後戒律制度が急速に整備されていった。七五九年(天平宝字三)新田部親王の旧宅跡を朝廷から譲り受け、唐招提寺を創建。七六三年五月、同寺で七六歳の生涯を閉じた。
近年の研究では、鑑真の失明は完全失明ではなく、視力残存失明であったらしいということが、「鑑真書状」を研究する過程で明らかになってきた。鑑真は『一切経』の校正にあたっており、多くの誤字の訂正を行っている事実が、このことを物語っている。唐招提寺に残る国宝の鑑真像は、日本最古の肖像座像とされる。鑑真の死の前年の春、弟子の忍基は講堂の梁が折れるのを夢に見て、鑑真の死期が近いことを悟り、その肖像(乾漆像)を造り始めたという。なお、芭蕉の「若葉して御目の雫ぬぐはばや」の句は、鑑真の座像を拝してのものである。鑑真が住職を務めた中国の大明寺は、一九六六年に文化大革命によって破壊されかかったが、周恩来首相の指示により閉鎖で事無きを得た。八〇年に唐招提寺の鑑真座像が「里帰り」するにあたり、法浄寺と変更されていた寺名が大明寺に戻され、拝観のため二一万人が訪れた。
[安宅 夏夫]


世界大百科事典
鑑真
がんじん
688-769

中国,唐代の高僧,日本律宗の開祖。中国の楊州江陽県の生れで,春秋時代の斉国の名士淳于〓(こん)の後裔と伝える。中国の南山律宗の開祖道宣の高弟道岸(654-717)より菩薩戒を,長安の実際寺で弘景から具足戒を受け,その後,諸宗を学び江淮の地で戒律の講義や授戒を行い,あるいは古寺修理,一切経を書写するなど,諸州屈指の伝戒師として信望があつかった。中国仏教界では,登壇受戒して具足戒をうけねば僧尼と認められず,受戒は出家の出発を約する重要な正門であった。日本では平城京遷都以後,仏教隆盛と並行して,僧尼令に違反する僧尼や,勝手に僧尼となる私度僧が群出するようになり,律令政府として唐の授戒制度や戒律研究の必要性を痛感するに至り,733年(天平5)の遣唐使派遣の際に,僧栄叡(ようえい),普照,玄朗などが,舎人親王の要請で入唐求法し,伝戒師の招請にあたった。この要請に応じて,736年に来航したのが,インド僧菩提僊那(ぼだいせんな)や唐僧道璿(どうせん)であったが,授戒には少なくとも三師七証の10僧を必要としたため,さらに諸州を巡り,揚州大明寺の鑑真に日本への渡航を懇願した。鑑真一行の渡航は5回企てられたが,師僧の出国を願わぬ弟子などの妨害と難破で失敗し,栄叡や補佐役の祥彦も病没,自身も視力を失うなど,幾多の辛酸をなめた。しかし伝戒の素志をひるがえすことなく,第10次遣唐船の帰国に際し,副使大伴古麻呂の第2船に乗って,ひそかに出国し,753年(天平勝宝5)12月に折からの暴風波浪をしのいで,薩摩国秋妻屋浦(現鹿児島県南さつま市,旧坊津町)に入港した。翌年2月に弟子法進,曇静,義静,思託や,日本僧普照,延慶などにともなわれて,待望の平城京に入り,東大寺大仏を拝し,客坊に止住した。この間,日本では前後12年,6回目の航海で渡来した鑑真に対する信望と帰依は異常なほどで,高官・高僧らは自身あるいは使者を送って労をねぎらい,勅使吉備真備も〈自今以後,授戒伝律はもはら大和尚にまかす〉という孝謙天皇の意向を伝えた。4月には大仏殿前に臨設の戒壇を築き,聖武上皇などに菩薩戒を授け,その後大仏殿西方に戒壇院を設立し,登壇授戒の制が整った。756年に大僧都に任ぜられ,仏教界を統べる僧綱の重職にあったが,彼の身をいとった孝謙天皇は僧綱を解き,鑑真は故新田部親王の旧宅地に唐招提寺を建立した。招提とは私寺の意味である。

鑑真により伝えられた戒律思想は,三戒壇の成立によって授戒制度が整備され,天平仏教に点睛を加え,将来した天台関係の論著は,平安時代仏教にも影響を与えた。伝律持戒に殉じた非凡な人物であっただけに,宮廷のあつい信頼や,藤原仲麻呂,石上宅嗣,淡海三船などの帰依を得て,また弟子法進,思託,恵雲,如宝なども多大の功績をのこしている。現在唐招提寺に伝わる鑑真像は,没前の姿を伝えている。
[堀池 春峰]

[索引語]
戒壇
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2. 鑑真
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3. 鑑真
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には少なくとも三師七証の10僧を必要としたため,さらに諸州を巡り,揚州大明寺の鑑真に日本への渡航を懇願した。鑑真一行の渡航は5回企てられたが,師僧の出国を願わぬ ...
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7. がんじん【鑑真】
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14. 鑑真自署[図版]画像
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15. がんじんわじょう‐ざぞう[ガンジンワジャウザザウ]【鑑真和上坐像】
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16. がんじんわじょうぞう【鑑真和上像】 : 唐招提寺
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17. 鑑真和上三異事(著作ID:144627)
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18. 唐大和上東征伝(著作ID:1477970)
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19. がんじんかかいだいしとうせいでん【鑑真過海大師東征伝】
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20. がんじんわじょうとうせいえでん【鑑真和上東征絵伝】
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日本歴史地名大系
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23. あきめむら【秋目村】鹿児島県:川辺郡/坊津町
日本歴史地名大系
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24. あすかべおう【安宿王】
国史大辞典
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25. あたぐん【阿多郡】鹿児島県:薩摩国
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26. 穴太寺
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27. 阿倍仲麻呂画像
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28. 阿倍仲麻呂
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)の友に任ぜられた。752年,入唐した遣唐使藤原清河,吉備真備らと帰国することを願い出て許可され,鑑真(がんじん)一行らをも伴って蘇州より出航したが,仲麻呂の乗 ...
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仲麻呂の進言による渤海路をとって十一年に帰朝している。天平勝宝五年(七五三)遣唐大使藤原清河とともに僧鑑真の渡日を要請し、ともに帰国を志したが失敗した。その後玄 ...
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31. あんどう-こうせい【安藤更生】
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昭和45年10月26日死去。70歳。東京出身。東京外国語学校(現東京外大)卒。本名は正輝。著作に「鑑真大和上伝之研究」「日本のミイラ」など。 ...
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この仙薬は,金,銀,水銀,ヒ素などの重金属を主成分とするもので,用量をすぎれば,かえって寿命を縮める結果になる。鑑真が来日して名声を得た理由の一つには,彼の医学 ...
33. いがく【医学】
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35. 医者
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本尊は薬師如来。天平宝字七年(七六三)鑑真によって創建されたと伝える。近くに鑑真が居住した跡といわれる唐鑑房や鑑真が持参した唐の竹を植えたと伝える唐竹谷といった ...
43. え‐がく【依学】
仏教語大辞典
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中国、唐代の僧。中国禅宗の第六祖。俗姓は盧(ろ)氏。諡号(しごう)は大鑑真空普覚円明(だいかんしんくうふかくえんみょう)禅師。六祖(ろくそ)大師ともいわれる。新 ...
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日本国語大辞典
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47. 延慶
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天平勝宝五年(七五三)遣唐副使大伴古麻呂の船で薩摩に着いた鑑真を大宰府に案内し(『唐大和上東征伝』)、翌年鑑真の入京・大仏礼拝の際訳語をつとめた(『東大寺要録』 ...
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奈良時代の僧。天平勝宝(てんぴょうしょうほう)5年(753)薩摩(さつま)(鹿児島県)についた鑑真(がんじん)を大宰府に案内し,奈良では通訳をつとめる。藤原仲麻 ...
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信者がこの上にのぼって誓い、これによって僧侶たり真の 信者たることが公認される。日本へ戒壇を伝えたのは鑑真和尚(六八八-七六三)であるが、 中国では ...
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