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聖徳太子

ジャパンナレッジで閲覧できる『聖徳太子』の新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

新版 日本架空伝承人名事典
聖徳太子
しょうとくたいし
?‐622(推古30)
六世紀末~七世紀前半の政治家、仏教文化推進者。用明天皇の皇子で母は穴穂部間人あなほべのはしひと皇后(欽明天皇皇女)。生年は『上宮聖徳法王帝説』に甲午年(五七四)とあるが確かでない。幼名を厩戸豊聡耳うまやどのとよとみみ皇子といい、のちに上宮聖王、聖徳王、法大王のりのおおきみ、法主王などとも呼ばれた。聖徳太子の称は『懐風藻』の序文(七五一)が初見。初め上宮うえのみやに住み、のちに斑鳩宮いかるがのみや(いまの法隆寺東院の地)に移ったというが、一四、一五歳のころ蘇我馬子の軍に加わって物部守屋を討ち、そのとき四天王に祈念して勝利を得たので、のちに難波に四天王寺を建立したという。『日本書紀』によれば、五九二年(崇峻五)一一月に馬子が崇峻天皇を殺すと、翌月に推古女帝(敏達天皇皇后)が即位し、翌年(推古一)四月に太子を皇太子にして万機を摂政させたというが、この時期はまだ大兄おおえの制が行われており、単一の皇位継承予定者である中国的な皇太子の制がすでに存在したかどうかは疑わしく、『日本書紀』以前に太子のことを太子と記した確かな史料もほとんどない。また太子の執政をもって積極的な皇権回復策とする見方もあるが、推古天皇の即位は崇峻天皇の暗殺という異常な事態の下で行われたことであり、女帝即位の初例であったためとみるのが妥当である。この時期は蘇我氏権力がまさにその絶頂にさしかかったときであり、推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって、女帝も太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。したがって、この時期に多く見られる大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり、とくにその中の冠位十二階の制定、十七条憲法の作成、遣隋使の派遣、『天皇記』『国記』以下の史書の編纂などは、蘇我氏権力を否定し、律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化しているが、これらもすべて基本的には太子の協力の下に行われた蘇我氏の政治の一環とみるべきものである。
しかし太子は若くして高句麗僧慧慈えじに仏典を、博士覚哿かくかに儒学等の典籍を学び、その資質と文化的素養は時流を抜くものがあったらしい。みずから十七条憲法の文章を作ってその第二条に「篤く三宝を敬え」と述べ、仏典を講説して法華・維摩・勝鬘三経のいわゆる『三経義疏ぎしょ』を著したと伝えられ、また四天王・法隆・中宮・橘・広隆・法起・妙安の七寺を興したと伝えられるなど、当時の仏教文化の興隆に大きな役割を果たしたことを物語る所伝が少なくない。ただしそのためか、太子はひじりであったとか、中国南岳の慧思禅師の後身であるとか述べて、超人間的存在であったごとく説くことが、主として仏家の間に早くから生じた。太子の伝記は『書紀』に劣らず古いとされる『上宮記』『上宮聖徳法王帝説』などから始まって、数多く作られた。九一七年(延喜一七)成立の『聖徳太子伝暦』に至って、太子の伝説化はほぼ完成されたといってよく、以後平安時代から鎌倉時代にかけて、太子信仰が広く普及していった。太子は敏達・推古両天皇の女の菟道貝鮹うじのかいだこ皇女、膳加多夫古かしわでのかたぶこの女の菩岐岐美郎女ほききみのいらつめ、蘇我馬子の女の刀自古郎女とじこのいらつめ尾治おわり王の女の猪名部橘いなべのたちばな女王などを妃とし、山背大兄やましろのおおえ王(刀自古郎女の所生)をはじめ数多くの子女を生んだが、六二二年二月二二日に斑鳩宮で病死し、河内の磯長墓しながのはか(大阪府南河内郡太子町太子の叡福寺境内)に葬られた。
[関 晃]
聖徳太子の伝承
『日本書紀』がすでにその事跡を神秘化している聖徳太子は、奈良時代には法隆寺や四天王寺でまつられていた。法隆寺では天平年間(七二九‐七四九)に行信によって上宮王院(東院)が創建され、太子をかたどった観音像(救世ぐぜ観音)が八角円堂(夢殿)に安置された。当時の太子伝承は「上宮聖徳法王帝説』に記され、太子が一時に八人の言をわきまえた聡敏な人であったこと、『維摩経』や『法華経』の疏を製作中、夢に金人が現れて解答を与えたことなどを記す。この説話は、『上宮皇太子菩薩伝』に夢堂の禅定、『上宮聖徳太子伝補闕記』に大殿の三昧定という形を経て、一〇世紀に成立した編年体の『聖徳太子伝暦』で夢殿にこもって金人より妙義を聴き、また夢殿入定中に唐へ渡り前生所持の法華経を持ち帰るという説話となる。このような説話の発展が示すように、太子は日本における仏教の伝来と流布を象徴する貴種であった。『伝暦』が百済の阿佐王子の敬礼文として「救世大慈、観音菩薩、妙教流通、東方日国、四十九歳、伝灯演説、大慈大悲、敬礼菩薩」を伝えるように、太子は救世観音、また如意輪観音の化身とされ、あるいは聖武天皇に再誕して大仏を造ったともいう。真言宗では、平安時代に弘法大師や聖宝に再誕したという説が生まれ、天台宗では、最澄がすでに太子を聖人としてたたえ、『伝暦』などにみえる『七代記』逸文によれば、太子の前生に天台宗の祖である南岳慧思禅師をあて、こう山で達磨大師とめぐり会いともに日本に転生して仏法を流布しようと誓ったという。すでに『書紀』にみえる、「太子が片岡に遊行した際、飢者に遇って衣食を与え、哀れんで歌を詠む。飢者は死んで葬られ、太子が命じて墓を調べるとその屍は消えていた」という説話は神仙譚的な性格をもち、以降『日本霊異記』『補闕記』などに記され、『伝暦』ではさきの説話と結びつき、慧思は太子、達磨は飢人であるとする。
一方、『法王帝説』には、太子が蘇我馬子とともに物部守屋と戦ったとき、四天王像を挙げて、守屋を滅ぼせば四天王の寺を造ろうと誓い勝利を得たという、四天王寺創建の縁起が含まれる。この太子と守屋の合戦譚は、『補闕記』『伝暦』『四天王寺御手印縁起』等、四天王寺の縁起を中心に、古代における仏教の勝利を代表するものとなり、やがて中世には寓意と霊験に満ちた合戦物語として太子伝唱導の中心となった。『善光寺縁起』にも、この説話は、物部氏が難波の堀江にはらい捨てた、天笠の月蓋長者の造ったという一光三尊阿弥陀如来像を、本田善光が信濃国まで運んでまつるという、本尊一光三尊阿弥陀如来の将来をめぐる記述のなかに含まれ、太子伝とも重なって絵解きされていた。四天王寺にはすでに奈良時代に聖霊院と絵堂が建立され、当時『障子伝』と呼ばれる絵解きのための伝記が作られたらしい。一二世紀には『台記』に絵解きの消息が知られる。一〇六九年(延久一)には法隆寺東院絵殿に障子絵伝が描かれ、一一二一年(保安二)には西院に聖霊院が造立されたのは四天王寺の影響があろう。
中世には、橘寺、広隆寺など周辺の太子にかかわる天台寺院、そして、太子創建と伝える京都の六角堂に参籠した親鸞が夢告を受け回心したと伝える(聖徳太子内因曼荼羅)ことを契機とする、親鸞の太子信仰を継承する高田専修寺派を中心とする浄土真宗寺院によって太子伝の絵解き唱導が広く行われ、大量の絵伝と物語化した太子伝記が生みだされた。その典型は、一三二〇年(元応二)ころに四天王寺で製作された『正法輪蔵』で、それは中世に醸成された太子をめぐる豊かな秘事口伝を含む。たとえば太子の乗る黒(烏)駒は、『補闕記』に烏斑の駒に乗り富士や北国に遊行したことを記すが、『伝暦』以降、これを甲斐の黒駒として、最愛の妃かしわで大娘をめとる事跡とともに二七歳の条に記される。『正法輪蔵』ではこれを輪王の七宝中の馬宝と女宝であると解釈し、黒駒に乗る太子は、諸国の霊山を巡行して熊野や伊勢などの神々の本地垂迹ほんじすいじゃくの相を明らかにし問答して結縁する。それは、東北に多い黒駒太子像が示すように山岳宗教と結びついて生まれた伝承だろう。黒駒とともに太子に随行する舎人とねりの調子麿(丸)は、太子没後も墓を守ったというが、一三世紀に法隆寺の顕真がその子孫と称して太子伝の秘事口伝『聖徳太子伝私記』を集成したように、太子伝承を担う存在として意識されていた。その秘事口伝は、『上宮菩薩秘伝』を作った叡尊門下の律僧集団にも伝えられ、また絵解きの展開と深く結びついている。
その過程で成立した代表的な説話が、膳妃に関するものである。太子行幸の際、三輪川の辺で老母を養うため芹を摘み礼をなさぬ少女を見とがめて問答し、かえってその孝心を賞して住居の陋屋を訪れ婚儀をなす。これは漢籍『蒙求』などの採桑妃説話などを換骨奪胎したものだが、同時に膳妃は勢至菩薩が月輪として降った化人であるという。それは、太子を観音、母后間人妃を阿弥陀とするのに応じ、やがて磯長しながの太子廟(叡福寺)は、三骨一廟としてこの三人を葬り、弥陀三尊をかたどる浄土教の聖地となる。四天王寺も、太子が西門は極楽の東門である(御手印縁起)といい、また日想観も太子が始めたとして浄土教の中心となり、太子と浄土信仰は不可分の関係にある。
『伝暦』には、太子が周囲の人々と自身の運命や過去の因果、また遷都や寺院建立について、さまざまな予言をすることが述べられる。それは中世に『聖徳太子未来記』という形で盛んに意識された一種の歴史的認識ともかかわり、太子が、神仏ならびに聖界と人間世界との媒介者であることを物語ると思われる。また『伝暦』以降の太子伝は、仏教とともに半島から諸技芸などの移入を太子に結びつけて記すが、中世を経て現代まで、寺院の周辺で活動していた大工や猿楽(能楽)などの諸芸能は太子を開祖とする縁起をもつ。金春禅竹の『明宿集』などはその好例であるが、それは、中世に諸職人や諸道の人々が王権と結びついて活動していたこととかかわるものだろう。
秦河勝、→物部守屋
[阿部 泰郎]
皇太子イカルガの岡本の宮に居住いましし時に、えに有りて宮より出で遊観に幸行す。片岡の村の路の側に〓カタヰ有りて、病を得て臥せり。太子見て、〓ミコシより下りて、倶に語りて問訊ひ、著たる衣を脱ぎ、病人に覆ひて幸行しき。遊観既にはりぬ。〓を返して幸行すに、脱ぎ覆ひし衣、木の枝にかかりて彼の乞〓无し。太子、衣を取りて著る。臣有り、白して曰はく「賤しき人に触れて穢れたる衣、何の乏びにか更に著る」といふ。太子詔りたまはく「佳シ、汝知ら不」とのたまふ。彼の乞〓他処ことどころにして死ぬ。太子聞きて使を遣してもがりし、岡本の村の法林寺の東北うしとらの角に有る守部山に墓を作りて収め、名づけて人木墓と曰ふ。後に使を遣し看しむるに、墓の口開か不して、入れし人无く、唯歌を作り書きて墓の戸に立てたり。歌に曰はく、
鵤の富の小川の絶えばこそわが大君の御名忘られめ
使還りて状を白す。太子聞き嘿然もだありて言は不。
日本霊異記上巻「聖徳皇太子異しき表を示す縁」
(九歳、土師連八嶋が蛍惑星の歌を奏す)太子云。……他国より夷、競来るべし、と仰せらる。果して次年、都に乱入す。(中略)
十六歳御年、……(守屋)朝敵になりて、河内国弓削鞍作と云所にて、城〓を構。其勢、二十万余騎。太子の御勢、二百五十余騎也。太子は、三箇度寄給えども、負て逃て、むくの木、八に割れて、其木の中へ逃かくれ給。仍、神妙〓と賞め給。神妙椋の木とて、今にこれ有。彼辺に寺を建。(中略)
二十七歳御時、甲斐黒駒、出来いできたる。調使丸舎人、異国御舎人として、九月に之に乗給。天皇に暇を申て、三日三夜に、日本国を廻見給。……調使丸をくつわに之を付、虚空を飛て、富士山に到給。浅間大菩薩、本地観音。富士山頂にも地獄池有り。中に太子入給。善光寺如来、地より出給て、太子共に語う。日本国の神々に合い奉て、物語し給しを、雲上記として十二巻、天皇に奏給。又、仏閣建立すべき所々、見知し給。
三輪大明神は、氏神にてわたらせ給えば、御参詣あるに、高橋の下に、芹つむ小女あり。諸人は、太子の御行をみるに、此女は、見奉らず。太子、使を遣わし、御尋有ども、女、答えず、ただ落涙す。太子、自ら立寄給て問給に、多武峯下、かしわでと云所に、化生の人にて、かしわでの里に翁が子と成る女人也。……八月十五夜の月、二に割れて、多武峯音羽山の傍に落。翁、行て見ば、三歳女子、かしわの葉を敷きて御座おわします。翁にいだかれて帰給。十余日養ば、六七歳に成。三ケ年を歴ては、十四五歳に成給て、芹を摘て、父母二人を養給う。二人共に、飢に依て死去せんとす。彼女、悲歎極まりなし。太子の御尋によて、之を申す。
太子の女御は三人。一人は推古天皇御女。一人は蘇我大臣女。一人は今の芹摘の后、是也。其中に、殊に芹つみは太子の御最愛也。(中略)
さて、太子、黒駒に召して、日本国を三日三夜に廻り御覧せられけるに、大峯の善鬼も召出されて、山内の有様ども、御尋ありけり。富士山計こそ、馬の足には触りけれ。其外は、虚空をそ、黒駒、雲に乗て飛行しけり。
堂本家本聖徳太子絵伝詞書
二十九年辛巳春二月に、太子、斑鳩の宮にいまして、妃に命じて沐浴せしめ、太子もまた沐浴したまいて、新しく潔き衣袴をて、妃に謂いて曰く。「吾、今夕こよい遷化すべし。なんじ、共に去るべし。妃、また新潔の衣裳を服たまいて、太子のそいの床に臥したまいぬ。
伝暦巻下
その後、御葬礼の儀式あり。先ず御入棺ありければ、ふたつの屍の軽きこと、只衣のみ。……貴賤群集して市を成し、悲泣する声、野も山も響くばかりなり。……殊に哀れを留めたるは黒駒、御棺を見奉らんと欲して……虚空に二三丈躍り上り、つらつら御棺を見奉りて大地に下り、前足を折りて御陵を拝すること三度、両眼より血の涙を流して……実に悲歎に堪えざる気色にて死す。……
御舎人調使丸、大に愁歎して……独り御廟の前に平臥して起きず。……鬢髪を剪り、飲食を断じて、丹精に祈請して……一心不乱に称名念仏すること七日七夜……往生極楽の本懐を遂ぐ。
醍醐寺本聖徳太子伝
御厩へ取りあげ婆ゝアかけ付る
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):80‐10
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
厩戸の皇子へのこが大キそう
編者/評者:初世川柳(評)
出典:『川柳評万句合勝句刷』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):蓮‐2
刊行/開き:1788(天明8年)(開き)
御厩の前で出生し、厩戸皇子と称した。第一句、厩の縁で「駈付る」といった。第二句、馬並みかと。
聖徳太子酒呑みと下女思ひ
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):79‐1
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
「生得大酒」と聞こえたため。
まづ耳のはやひがもりや気にくはず
編者/評者:編者未詳
出典:『柳多留拾遺』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):5‐8
刊行/開き:1796~97(寛政8~9)(刊)
八耳やつみみの皇子と称されるほどの聡明さが、物部守屋を敵に回す因となった。
達磨の尻に片岡の土が付き
編者/評者:五世川柳(編か)
出典:『新編柳樽』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):36‐月‐8
片岡山に飢者と歌の応答をした説話は、のちにこの乞食が達磨大師であったということに発展、末期の狂句にこの達磨説が多い。
根を掘って聞けば芹摘稀な孝
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):120‐21
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
芹摘の妃。「根を掘って」は深く立ち入っての意。


国史大辞典
聖徳太子
しょうとくたいし
五七四 - 六二二
推古天皇の摂政皇太子。本名は厩戸皇子。この名にちなんで厩前誕生の物語が『日本書紀』にみえるが、それは説話であって事実とは認められない。厩戸はおそらく誕生の地名から出た名であろう。太子にはほかに多くの名が伝えられる。上宮太子はその一つで、太子の住んだ宮殿の名から出たというが、今も奈良県桜井市に上之宮(うえのみや)という地名が残るから、それによるものであろう。太子の聡明さを讃えた和風の称号として、豊聡耳(とよとみみ)命・豊聡八耳命などがあり、主として仏教の立場から徳を讃えた称号に聖王・法王・法大王・法王大王などがある。聖王は推古天皇十五年(六〇七)の年紀のある法隆寺金堂薬師如来像光背銘に、法王大王は推古天皇四年の年紀のある伊予湯岡碑銘にみえるから、生前からの称号とみることができる。聖徳と熟したのは文武天皇慶雲三年(七〇六)造立の法起寺塔露盤銘が初出であるから、没後の諡と解すべきであろう。父は用明天皇、母は皇后穴穂部間人皇女。ふたりはともに欽明天皇の子であるが、母を異にする。用明天皇の母は蘇我稲目の女堅塩媛、間人皇女の母は同じく稲目の女、堅塩媛の妹小姉君。父は同じでも母が異なれば、その子の結婚は自由であることが古代の慣習であるが、この場合父母の母は稲目の女で同母の姉妹である。太子にとって蘇我氏の血は濃密な比重をもって体内にまじっていたといえる。太子の生誕の年については古来諸説があるが、没年が推古天皇三十年二月二十二日というのは、法隆寺金堂釈迦如来像光背銘や中宮寺天寿国曼荼羅繍帳銘の一致するところで動かしがたく、享年四十九に疑わしいところはないので、それから逆算して敏達天皇三年をとるのが定説である。太子の生涯の事績を幼年時代から一年の落ちもなく記しているのは『聖徳太子伝暦』であるが、これは神異譚を交えたものだから、事実として認めることはできない。ほぼ事実として信じてよいものは、『日本書紀』崇峻天皇即位前紀の用明天皇が在位わずか二年で崩じたあとに起った、蘇我・物部氏の争いに、蘇我側の陣営に属して働いたことである。時に太子は十四歳であった。この時政治の主導権は、敏達天皇の皇后豊御食炊屋姫と大臣蘇我馬子にあったと思われるが、太子が守屋との合戦に蘇我側に立ったことは、以後の太子の生涯を規定する重要な意味をもったと考えられる。用明天皇のあとをついだ崇峻天皇は蘇我馬子との確執がもとで馬子の意を受けた東漢直駒によって殺害される。豊御食炊屋姫が五九二年即位して、日本で最初の女帝推古天皇の時代が始まる。天皇はその翌年当時二十歳の厩戸皇子を立てて皇太子とし、摂政とした。この摂政は後世の清和幼帝について設けられた藤原良房のように、天皇に代わって万機を行う任をもったのではなく、むしろ天皇の命をうけ、蘇我馬子とともに輔弼の任にあたるほどの位置にあったと解せられる。太子が摂政となって最初に天下に布告したことは、仏教を正式に国の宗教として受容することを公にしたことである。仏教は欽明朝に公伝されてからこの方、蘇我氏は一貫してこれを興隆することに熱心であったが、皇室の態度は一定せず、消極的であった。推古朝になってはじめて朝廷の態度が定まり、豪族たちもこれから君親の恩に報いるために、競って寺を建てるようになった。推古天皇三年高句麗の僧恵慈、百済の恵聡が来日した。両僧は仏教を弘めるに功績があり、特に恵慈は太子の仏教の師となった。師弟の契りは深く、太子の深い仏教への造詣は恵慈に負うところが少なくなかった。恵慈は推古天皇二十三年国に帰るが、三十年太子の訃を聞いて悲しみに堪えず、自分も来年の同月同日死んで浄土で太子にお目にかかろうとして、それを実行したと伝えられるほどである。恵慈・恵聡の二僧は来日以後法興寺に住まわされたが、この寺は蘇我馬子が守屋討伐の際の発願にもとづいて、百済から渡来した工人たちを駆使して建てた寺であり、日本で最初の堂塔伽藍を完備した大寺院であった。天皇と皇太子はともに誓願して銅繍丈六仏像各一躯を作り、これを法興寺の金堂にすえた。鞍作鳥の作であり、このころから法興寺は蘇我氏の私寺よりも国の官寺たる性格を帯びることになった。『日本書紀』は推古天皇八年から十一年にかけ、朝鮮半島で新羅と事を構え、任那を救うために将軍を派遣したと記す。しかし任那は欽明朝にすでに滅ぼされており今更大軍を派遣するのもおかしく、仏教の平和主義を信条とする太子の精神からいっても進んで行うほどのものであったかどうか疑われる。あとに任命した皇族将軍の死や、別の皇族将軍の妻の死によって、この挙を中止したと記すのは、太子の望むところであったろうと考える。推古天皇九年二月太子は宮室を斑鳩に造り、十三年にはそこに遷った。時の都飛鳥の豊浦からは十数キロもはなれた所であるが、ここに宮を造った理由は竜田を越えて河内に通ずる交通路の要衝にあったこと、また妃の膳姫にゆかりある土地であったことなどによるのであろう。斑鳩宮の跡は今法隆寺東院の地に求められ、発掘の結果幾棟かの掘立柱の建物が検出された。推古天皇十一年から太子の内政改革が始まる。十二階冠位を定めたことはその一つである。色を異にした冠を諸臣に与え、その身位の上下を明らかにしたもので、大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の儒教の徳目を冠名とした十二階である。この冠位は本人の勲功によって昇級したから、これまでのカバネに代わり個人の奉公の念を高める上に効果があり、これを授与する天皇の尊厳を増す意味もあったであろう。この制度の源流は朝鮮半島の三国にそれぞれ求められるが、名称に五常の徳目を用いた例はなく、太子の理想主義的政治の姿勢を明瞭に示している。推古天皇十二年には『憲法十七条』を発布した。これは官吏への教訓にすぎないという説もあるが、よく読めば太子の深遠な国家観・政治思想を表わしたもので、立国の根本義を規定した法といってよい。太子の考えた国家は君・臣・民の三つの身分から成る。君は絶対であるが、礼を重んじ、信を尊び、賢者を官に任じ、民の幸福を図らねばならぬ。臣は君の命を受け、五常の徳を守り、公平に人民を治めねばならぬ。そしてすべての人は和の精神を体して国家の平和を保ち、仏教に従って枉った心を直さねばならぬ。この俗界での君・臣・民の三身分は仏国世界での仏・菩薩・衆生に比せられるものであり、菩薩の利他行によって衆生の救われる仏国の理想をここにも実現しようとするのである。『憲法十七条』には儒家・法家の具体的政策も述べられているが、根底には仏教思想が牢固として存在する。仏教篤信の太子の親しく作ったといわれるのにふさわしい。推古天皇十五年小野妹子を国使として隋に遣わし、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」(原漢文)の国書を呈した。隋の煬帝はこれを快しとしなかったが、翌年鴻臚寺掌客裴世清を答礼使として日本に遣わした。その帰国にあたり、妹子は再び隋に赴き、学生学問僧八人を同行し、かの地の文物を学ばせた。隋に対する対等外交の勝利であり、五世紀代の倭王が南朝諸国に対して行なった服属外交を清算したものであった。推古天皇二十二年第二回の遣隋使が犬上御田鍬を大使として派遣された。遣隋使の派遣、学生学問僧の留学が、のちの日本文化の発展に寄与した功は偉大であった。このほか百済人味摩之が帰化して伎楽を伝えたことは、日本にはじめて中国西域の音楽をひろめたものとして意義深く、また百済の僧観勒が来日して暦本および天文地理の書、遁甲方術の書を伝えたことは、後世平安時代では推古天皇十二年はじめて暦日を用いたという伝説を生んだ。暦法を伝えたことは欽明天皇十四年にすでにみえているから、推古天皇のときはさらにそれが一般化されたことをいうのであろう。推古天皇二十八年太子が馬子と議して「天皇記及国記臣連伴造国造百八十部并公民等本記」を録したと『日本書紀』にあるが、これは政府による歴史書編修の最初の試みとして注目に値する。新しい国造りの輪廓を定めて静かに国初以来の歴史を顧みる余裕を生じたのであろう。ここに用いられた天皇の号は、推古天皇十六年隋に送った第二回の国書に「東天皇、敬んで西皇帝に白す」(原漢文)とあるのなどと相まって、これまで大王とよばれた称号を、太子によって天皇と改められたのではないかという想像を起させる。以上編年的に太子の政治的な事績と思われるものを述べたが、最後に太子の仏教研鑽の瞠目すべき成果について記さねばならぬ。太子はその仏教に対する造詣を講経と製疏によって現わした。講経については『勝鬘経』と『法華経』の二部を対象とし、前者は天皇が太子を請じて行なったもので三日にして終ったこと、後者については天皇がその布施として播磨国の水田百町を賜わったことなどを『日本書紀』は記す。これらに対しては異伝もあって不確かなところもあるが、製疏の方は、『法華義疏』四巻、『維摩経義疏』三巻、『勝鬘経義疏』一巻が、太子の御製として天平十九年(七四七)勘録の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』に明記されているから、天平年間には法隆寺の重宝として珍蔵されていたことで確かな事実と考えられる。まして『法華義疏』は太子自筆の草本と認められるものが法隆寺に伝わり、明治の初め皇室に献納されて今に残るから、その存在に疑いを抱く筋はない。義疏は三書ともに経典の詳密な注釈書であって、各字句についての意味を説き教義を明らかにする。大陸学匠の先行の書をそれぞれ参考にしてはいるが、それに盲従はせず、独自の判断や解釈を示している。太子の到達した仏典理解の深遠さには舌を巻いて驚くのほかはなく、仏教の伝来初期にこれだけの受容咀嚼がなされたことが、後世の仏教発展の基に培ったことは大きい。しかも太子の仏教が知解の域にとどまらず、菩薩道の実践にまで及んだことは、後年の嫡子山背大兄王の殉教の行動からみて察せられる。親鸞が太子を「和国の教主」として尊んだのはもっともであって、太子は日本文化とくに日本仏教の恩人として大書すべき人物である。太子の墓は磯長墓といい、大阪府南河内郡太子町にある。→十七条憲法(じゅうしちじょうのけんぽう),→十二階冠位(じゅうにかいのかんい),→太子信仰(たいししんこう)
[参考文献]
聖徳太子研究会編『聖徳太子論集』、坂本太郎『聖徳太子』(『人物叢書』一七八)
(坂本 太郎)

磯長墓(しながのはか)

大阪府南河内郡太子町の叡福寺の境域内にあり、『日本書紀』には磯長陵とある。丘陵の南斜面に築かれた南面する円墳。径は東西約五〇メートルで南北はやや短く、高さは南側から約一〇メートル前後を測る。周囲には結界石と称する碑石が二重にめぐり、羨道の前面には唐破風の屋蓋を伴う廊状の建物がある。当墓はかつては玄室内を拝することができたようで、三棺が納められているところから古来三骨一廟と称され、太子と前後して亡くなった母穴穂部間人皇女と妃膳大娘の三方を合葬した墳墓といわれている。『延喜式』諸陵寮の制は「兆域東西三町、南北二町、守戸三烟」で遠墓とし、合葬のことについてはのべるところがない。『園太暦』によると貞和四年(一三四八)には高師泰の兵が墓内に乱入して狼藉を行うなどのこともあったが、墓側には叡福寺があって奉斎に任じ、太子信仰と相まって所伝を失うことがなかった。玄室内の状況については、寛政二年(一七九〇)に東本願寺の乗如が内部を拝した折の記録や、明治初年の宮内省官人の実検記によってその規模を窺うことができ、古墳編年上の一つの規準とされている。
[参考文献]
梅原末治「聖徳太子磯長の御廟」(平安考古会編『聖徳太子論纂』所収)、たなかしげひさ「聖徳太子磯長山本陵の古記」(森浩一編『論集終末期古墳』所収)
(戸原 純一)


世界大百科事典
聖徳太子
しょうとくたいし
?-622(推古30)

6世紀末~7世紀前半の政治家,仏教文化推進者。用明天皇の皇子で母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后(欽明天皇皇女)。生年は《上宮聖徳法王帝説》に甲午年(574)とあるが確かでない。幼名を厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)皇子といい,のちに上宮聖王,聖徳王,法大王(のりのおおきみ),法主王などとも呼ばれた。聖徳太子の称は《懐風藻》の序文(751)が初見。初め上宮(うえのみや)に住み,後に斑鳩宮(いかるがのみや)(いまの法隆寺東院の地)に移ったというが,14,15歳のころ蘇我馬子の軍に加わって物部守屋を討ち,そのとき四天王に祈念して勝利を得たので,のちに難波に四天王寺を建立したという。《日本書紀》によれば,592年(崇峻5)11月に馬子が崇峻天皇を殺すと,翌月に推古女帝(敏達天皇皇后)が即位し,翌年(推古1)4月に太子を皇太子にして万機を摂政させたというが,この時期はまだ大兄(おおえ)の制が行われており,単一の皇位継承予定者である中国的な皇太子の制がすでに存在したかどうかは疑わしく,《日本書紀》以前に太子のことを太子と記した確かな史料もほとんどない。また太子の執政をもって積極的な皇権回復策とする見方もあるが,推古天皇の即位は崇峻天皇の暗殺という異常な事態の下で行われたことであり,女帝即位の初例であったためとみるのが妥当である。この時期は蘇我氏権力がまさにその絶頂にさしかかったときであり,推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって,女帝も太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。したがって,この時期に多く見られる大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり,とくにその中の冠位十二階の制定,十七条憲法の作成,遣隋使の派遣,《天皇記》《国記》以下の史書の編纂などは,蘇我氏権力を否定し,律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化しているが,これらもすべて基本的には太子の協力の下に行われた蘇我氏の政治の一環とみるべきものである。

しかし太子は若くして高句麗僧慧慈(えじ)に仏典を,博士覚哿(かくか)に儒学等の典籍を学び,その資質と文化的素養は時流を抜くものがあったらしい。みずから十七条憲法の文章を作ってその第2条に〈篤く三宝を敬え〉と述べ,仏典を講説して法華・維摩・勝鬘3経のいわゆる《三経義疏(ぎしよ)》を著したと伝えられ,また四天王・法隆・中宮・橘・広隆・法起・妙安の7寺を興したと伝えられるなど,当時の仏教文化の興隆に大きな役割を果たしたことを物語る所伝が少なくない。ただしそのためか,太子は聖(ひじり)であったとか,中国南岳の慧思禅師の後身であるとか述べて,超人間的存在であったごとく説くことが,主として仏家の間に早くから生じた。太子の伝記は《書紀》に劣らず古いとされる《上宮記》《上宮聖徳法王帝説》などから始まって,数多く作られた。917年(延喜17)成立の《聖徳太子伝暦》に至って,太子の伝説化はほぼ完成されたといってよく,以後平安時代から鎌倉時代にかけて,太子信仰が広く普及していった。太子は敏達・推古両天皇の女の菟道貝鮹(うじのかいだこ)皇女,膳加多夫古(かしわでのかたぶこ)の女の菩岐岐美郎女(ほききみのいらつめ),蘇我馬子の女の刀自古郎女(とじこのいらつめ),尾治(おわり)王の女の猪名部橘(いなべのたちばな)女王などを妃として,山背大兄(やましろのおおえ)王(刀自古郎女の所生)をはじめ数多くの子女を生んだが,622年2月22日に斑鳩宮で病死し,河内の磯長墓(しながのはか)(いま大阪府南河内郡太子町太子の叡福寺境内)に葬られた。
[関 晃]

聖徳太子の伝承

《日本書紀》がすでにその事跡を神秘化している聖徳太子は,奈良時代には法隆寺や四天王寺でまつられていた。法隆寺では天平年間(729-749)に行信によって上宮王院(東院)が創建され,太子をかたどった観音像(救世(ぐぜ)観音)が八角円堂(夢殿)に安置された。当時の太子伝承は《上宮聖徳法王帝説》に記され,太子が一時に8人の言をわきまえた聡敏な人であったこと,《維摩経》や《法華経》の疏を製作中,夢に金人が現れて解答を与えたことなどを記す。この説話は,《上宮皇太子菩薩伝》に夢堂の禅定,《上宮聖徳太子伝補闕記》に大殿の三昧定という形を経て,10世紀に成立した編年体の《聖徳太子伝暦》で夢殿にこもって金人より妙義を聴き,また夢殿入定中に唐へ渡り前生所持の法華経を持ち帰るという説話となる。このような説話の発展が示すように,太子は日本における仏教の伝来と流布を象徴する貴種であった。《伝暦》が百済の阿佐王子の敬礼文として〈救世大慈,観音菩薩,妙教流通,東方日国,四十九歳,伝灯演説,大慈大悲,敬礼菩薩〉を伝えるように,太子は救世観音,また如意輪観音の化身とされ,あるいは聖武天皇に再誕して大仏を造ったともいう。真言宗では,平安時代に弘法大師や聖宝に再誕したという説が生まれ,天台宗では,最澄がすでに太子を聖人としてたたえ,《伝暦》などにみえる《七代記》逸文によれば,太子の前生に天台宗の祖である南岳慧思禅師をあて,衡(こう)山で達磨大師とめぐり会いともに日本に転生して仏法を流布しようと誓ったという。すでに《書紀》にみえる,〈太子が片岡に遊行した際,飢者に遇って衣食を与え,哀れんで歌を詠む。飢者は死んで葬られ,太子が命じて墓を調べるとその屍は消えていた〉という説話は神仙譚的な性格をもち,以降《日本霊異記》《補闕記》などに記され,《伝暦》ではさきの説話と結びつき,慧思は太子,達磨は飢人であるとする。

一方,《法王帝説》には,太子が蘇我馬子とともに物部守屋と戦ったとき,四天王像を挙げて,守屋を滅ぼせば四天王の寺を造ろうと誓い勝利を得たという,四天王寺創建の縁起が含まれる。この太子と守屋の合戦譚は,《補闕記》《伝暦》《四天王寺御手印縁起》等,四天王寺の縁起を中心に,古代における仏教の勝利を代表するものとなり,やがて中世には寓意と霊験に満ちた合戦物語として太子伝唱導の中心となった。《善光寺縁起》にも,この説話は,物部氏が難波の堀江に攘(はら)い捨てた,天笠の月蓋長者の造ったという一光三尊阿弥陀如来像を,本田善光が信濃国まで運んでまつるという,本尊一光三尊阿弥陀如来の将来をめぐる記述のなかに含まれ,太子伝とも重なって絵解きされていた。四天王寺にはすでに奈良時代に聖霊院と絵堂が建立され,当時《障子伝》と呼ばれる絵解きのための伝記が作られたらしい。12世紀には《台記》に絵解きの消息が知られる。1069年(延久1)には法隆寺東院絵殿に障子絵伝が描かれ,1121年(保安2)には西院に聖霊院が造立されたのは四天王寺の影響があろう。

中世には,橘寺,広隆寺など周辺の太子にかかわる天台寺院,そして,太子創建と伝える京都の六角堂に参籠した親鸞が夢告を受け回心したと伝える(聖徳太子内因曼荼羅)ことを契機とする,親鸞の太子信仰を継承する高田専修寺派を中心とする浄土真宗寺院によって太子伝の絵解き唱導が広く行われ,大量の絵伝と物語化した太子伝記が生みだされた。その典型は,1320年(元応2)ころに四天王寺で製作された《正法輪蔵》で,それは中世に醸成された太子をめぐる豊かな秘事口伝を含む。たとえば太子の乗る黒(烏)駒は,《補闕記》に烏斑の駒に乗り富士や北国に遊行したことを記すが,《伝暦》以降,これを甲斐の黒駒として,最愛の妃膳(かしわで)大娘をめとる事跡とともに27歳の条に記される。《正法輪蔵》ではこれを輪王の七宝中の馬宝と女宝であると解釈し,黒駒に乗る太子は,諸国の霊山を巡行して熊野や伊勢などの神々の本地垂迹(ほんじすいじやく)の相を明らかにし問答して結縁する。それは,東北に多い黒駒太子像が示すように山岳宗教と結びついて生まれた伝承だろう。黒駒とともに太子に随行する舎人(とねり)の調子麿(丸)は,太子没後も墓を守ったというが,13世紀に法隆寺の顕真がその子孫と称して太子伝の秘事口伝《聖徳太子伝私記》を集成したように,太子伝承を担う存在として意識されていた。その秘事口伝は,《上宮菩薩秘伝》を作った叡尊門下の律僧集団にも伝えられ,また絵解きの展開と深く結びついている。

その過程で成立した代表的な説話が,膳妃に関するものである。太子行幸の際,三輪川の辺で老母を養うため芹を摘み礼をなさぬ少女を見とがめて問答し,かえってその孝心を賞して住居の陋屋を訪れ婚儀をなす。これは漢籍《蒙求》などの採桑妃説話などを換骨奪胎したものだが,同時に膳妃は勢至菩薩が月輪として降った化人であるという。それは,太子を観音,母后間人妃を阿弥陀とするのに応じ,やがて磯長(しなが)の太子廟(叡福寺)は,三骨一廟としてこの3人を葬り,弥陀三尊をかたどる浄土教の聖地となる。四天王寺も,太子が西門は極楽の東門である(御手印縁起)といい,また日想観も太子が始めたとして浄土教の中心となり,太子と浄土信仰は不可分の関係にある。

《伝暦》には,太子が周囲の人々と自身の運命や過去の因果,また遷都や寺院建立について,さまざまな予言をすることが述べられる。それは中世に《聖徳太子未来記》という形で盛んに意識された一種の歴史的認識ともかかわり,太子が,神仏ならびに聖界と人間世界との媒介者であることを物語ると思われる。また《伝暦》以降の太子伝は,仏教とともに半島から諸技芸などの移入を太子に結びつけて記すが,中世を経て現代まで,寺院の周辺で活動していた大工や猿楽(能楽)などの諸芸能は太子を開祖とする縁起をもつ。金春禅竹の《明宿集》などはその好例であるが,それは,中世に諸職人や諸道の人々が王権と結びついて活動していたこととかかわるものだろう。
→太子信仰
[阿部 泰郎]

[索引語]
上宮聖徳法王帝説 厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)皇子 上宮聖王 聖徳王 法大王 四天王寺 冠位十二階 十七条憲法 遣隋使 聖徳太子伝暦 太子信仰 磯長墓 叡福寺 救世(ぐぜ)観音 上宮皇太子菩薩伝 上宮聖徳太子伝補闕記 善光寺縁起 障子伝 親鸞 正法輪蔵 甲斐の黒駒 黒駒太子 調子麿(丸) 聖徳太子伝私記 膳妃
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天正三年(一五七五)五月二十一日織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の軍を三河国設楽原(したらがはら、愛知県新城(しんしろ)市)で破った合戦。天正元年四月武田信玄が没し武田軍の上洛遠征が中断されると、徳川家康は再び北三河の奪回を図り、七月二十一日長篠城
姉川の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
元亀元年(一五七〇)六月二十八日(新暦八月十日)、現在の滋賀県東浅井郡浅井町野村・三田付近の姉川河原において、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦い。織田信長は永禄の末年(永禄二年(一五五九)・同七年・同八―十年ごろという
平成(国史大辞典)
現在の天皇の年号(一九八九―)。昭和六十四年一月七日天皇(昭和天皇)の崩御、皇太子明仁親王の皇位継承に伴い、元号法の規定により元号(年号)を平成と改める政令が公布され、翌一月八日より施行された。これは、日本国憲法のもとでの最初の改元であった。出典は
河原者(新版 歌舞伎事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
江戸時代に、歌舞伎役者や大道芸人・旅芸人などを社会的に卑しめて呼んだ称。河原乞食ともいった。元来、河原者とは、中世に河原に居住した人たちに対して名づけた称である。河川沿岸地帯は、原則として非課税の土地だったので、天災・戦乱・苛斂誅求などによって荘園を
平安京(国史大辞典・日本歴史地名大系・日本大百科全書)
延暦十三年(七九四)に奠(さだ)められた日本の首都。形式的に、それは明治二年(一八六九)の東京遷都まで首府であり続けたが、律令制的な宮都として繁栄したのは、承久二年(一二二〇)ころまでであって、その時代から京都という名称が平安京の語に替わってもっぱら
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