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明治天皇

ジャパンナレッジで閲覧できる『明治天皇』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
明治天皇
めいじてんのう
一八五二 - 一九一二
一八六七―一九一二在位。嘉永五年(一八五二)九月二十二日、孝明天皇の第二皇子として京都石薬師門内の権大納言中山忠能の邸に生まれる。生母は忠能の娘典侍中山慶子。幼称は祐宮(さちのみや)。幼少時は中山邸で起居したが、安政三年(一八五六)九月から内裏に移った。万延元年(一八六〇)七月十日儲君となり准后(のちの英勝皇太后)の実子とされ、九月二十八日親王宣下、睦仁(むつひと)の名を賜わった。この間、嘉永六年―安政元年の黒船来航・開国をきっかけに国内政局は激動し、幕政改革の試みや尊王攘夷運動の高まりにより、それまでほとんど政務にかかわらなかった朝廷はにわかに政局の中心となった。朝廷では一時尊攘派が勢力をもったが、文久三年(一八六三)八月十八日の政変で尊攘派は勢力を失った。元治元年(一八六四)七月、武力入京をはかった急進的尊攘派の長州藩兵と宮門警固にあたる幕兵や会津・桑名・薩摩藩兵らとが御所の周辺で激しく交戦し(禁門の変)、砲銃弾が打ち込まれたり、深夜正体不明の人々が入り込んだりするなど御所内は大騒動となり、睦仁親王は一時気を失って倒れたという。その後、同盟を結んだ薩長両藩を中心とする倒幕運動が高まる中で、慶応二年(一八六六)十二月二十五日孝明天皇が急死し、翌三年正月九日十六歳の睦仁親王が践祚して天皇となった。同年十月十四日薩長両藩に討幕の密勅が下されたが、同日十五代将軍徳川慶喜から大政奉還が上表され、翌日勅許された。慶応三年十二月九日には天皇が御学問所で親王・諸臣を引見し、勅諭を下して王政復古の大号令を発した。それにより摂政・関白・将軍などは廃止され天皇のもとに新政府が成立した。そして同年十二月九日夜―十日早朝、天皇親臨のもとに小御所会議が開かれ、徳川慶喜に対する辞官・納地要求を決定した。慶応四年正月三日旧幕府勢力と新政府との間に鳥羽・伏見の戦がおこり(戊辰戦争の発端)、これに勝利をおさめた新政府は、同年正月十五日列国公使に王政復古と開国和親の方針を通達した。この日、御所では天皇の元服の式典が開かれた。同年三月十四日、天皇は、宮中の紫宸殿において、公卿・諸侯・百官有司を従え、天神地祇をまつり、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」など、五箇条の誓文を宣言した。前年以来のびのびとなっていた即位の礼は、戊辰戦争における新政府の勝利が決定的となった慶応四年八月二十七日、紫宸殿において行われた。同年九月八日、改元が実施され年号は明治と定められ、一世一元の制が採用された。ついで天皇は京都から東京(同年七月江戸を改名)に移り、十月十三日江戸城(東京城と改称、のち皇城、ついで宮城)に入り、ここを皇居とした。同年十二月いったん京都に帰り、十二月二十八日女御一条美子が入内して皇后に冊立された(のちの昭憲皇太后)。明治二年(一八六九)三月再び東幸、政府諸機関をも東京に移した。同年六月全国を王土王民とする観念から版籍奉還が実現し、同四年七月には廃藩置県の詔が発せられた。このように明治維新(当時の表現では御一新)以来、「天皇親政」「万機親裁」の理念が大いに喧伝され、天皇を中心とする中央集権体制の確立が進められたが、それとともに宮中改革も実施され、天皇が政務をとるための表御座所の設置などにより、それまで公家と女官に取り囲まれていた天皇の生活環境は大きく変化した。学問所では元田永孚・加藤弘之らが侍講として漢学・洋学を講じ、また山岡鉄太郎(鉄舟)・村田新八らが侍従として剣道・乗馬など武術の訓練にあたり、いささかひ弱く女性的だった少年天皇は次第に文武両道に長じた勇武の青年君主に成長していった。また明治初年以来、全国各地に行幸して国内民衆に対して新しい日本の君主としての存在を印象づけた。外国の使臣や賓客ともしばしば会見したが、特に明治十二年来日した前アメリカ大統領グラントとの会談で、近代国家建設途上の日本に対するさまざまな助言・忠告を受けたことが、天皇にとって国際的視野の拡大の良い機会になったといわれる。立憲政治の実現については、明治八年四月に立憲政体漸次樹立の詔を発してその方向を明らかにし、同十四年十月十二日には明治二十三年を期して国会を開設するという勅諭を発布した。また十五年一月四日にはいわゆる軍人勅諭を下して、天皇が大元帥として軍隊の統率にあたるという理念を示した。ヨーロッパでの憲法調査を終えて帰国した伊藤博文は、明治十七年三月参議のまま宮内卿(のち宮内大臣)を兼任し、宮中の制度・慣習の近代的改革や女官の風俗の洋装化を進めるとともに、熱心に天皇に対する政治教育にあたった。憲法制定を前にして、天皇自身がヨーロッパ的立憲君主たるにふさわしい政治的素養を身につけるように厳しく訓練したのである。天皇はもともと武術や学問ほどには政務への関心を示さず、不例や悪天候を理由に公式行事にも欠席することが多く、国務をとる時間も短かったといわれるが、これに強い不満を抱いた伊藤は、明治十九年九月、「機務六箇条」を制定し、国務大臣が主管事務について拝謁を求めた時は、たとえ御内儀(私室)にてもこれに応ずること、重要国務の審議にあたっては、政府の要請により内閣に臨御することなどを定めた。このような帝王教育の過程で、伊藤らと、天皇自身、あるいは天皇側近の保守派との間には、時として、対立・軋轢を生ずることもあったが、その結果、天皇も次第に政務に熱意を示すようになり、第一次伊藤・黒田・第一次山県などの諸内閣ではしばしば内閣に臨御した。また、明治二十一年五月―二十二年二月の枢密院における憲法・皇室典範および憲法付属諸法令の草案審議では、合計百回近い会議にほとんど毎回出席して、顧問官や閣僚たちの論議を黙聴し、会議が終ってからも、しばしば伊藤らを呼んで説明を求めるという精励ぶりであったという。明治二十二年二月十一日、大日本帝国憲法(いわゆる明治憲法)が欽定憲法として発布された。この憲法においては、天皇は統治権の総攬者と位置づけられ、法律の裁可・公布・執行、帝国議会の召集・停会・衆議院の解散、緊急勅令・命令の発布、文武官の任免、陸海軍の統帥・編制と常備兵額の決定、宣戦・講和・条約の締結、戒厳の宣告、大赦・特赦・減刑など広汎な大権をもつものとされた。しかし同時にそれは、憲法の条規に従って、国務大臣の輔弼のもとに行使されるという立憲君主制としての原則も明文化された。また、ヨーロッパの立憲君主国の憲法におおむね明記されているように、天皇の「神聖不可侵」規定も取り入れられた。明治憲法のもとで、天皇がみずからの意志と判断で大権を積極的に行使し、政治的リーダーシップを取ることは行われず、あくまで国家諸機関や元老の「輔弼と協賛」(助言と同意)により、大権を行使するという憲法運用上の慣行が次第に成立していった。明治二十四、五年ごろから、特に第二次伊藤内閣以降は、天皇の内閣への親臨はほとんどなくなり、特に重要国務の諮問を除いては、枢密院の会議に出席することも少なくなった。閣僚人事などについては、森有礼や陸奥宗光の入閣の場合のように政府首脳と意見を異にし、難色を示すことも時としてみられたが、天皇が輔弼の人々の意に逆ってあえてみずからの意思を押し通すことはほとんどなかった。明治二十七年八月、清国に対する宣戦布告に際しては、閣僚らの意見でやむなく宣戦したが本意でないとして、伊勢神宮・孝明天皇陵への奉告の勅使派遣を一時拒否し、また、宮中三殿での奉告祭にも出席しないという出来事もあったが、日清戦争中は、広島に大本営を設置し、二十七年九月―二十八年四月ここに起居して、政務・軍務をとっている。明治三十七―三十八年の日露戦争の勝利により、日本の国際社会における影響力は増大し、世界の列強に伍することとなった。近代国家の形成に果たした明治天皇個人の役割を正確に判定することは至難である。単なる政府首脳の操り人形でなかったことは間違いないが、ヨーロッパ流の絶対君主でなかったことも明白である。帝王教育を通じ期待に応えて国事に深く通暁した立憲君主に成長したことはいうまでもないが、「裁可者」として以上に、みずから積極的に政治指導にあたったとはいえないであろう。しかし、日本の急速な近代化を反映して、国民にとって天皇は「明治日本の栄光」を一身に具現する聖天子とイメージづけられ、政府の政策と相まって、天皇が半ば神格化されたカリスマ的存在となったことは否定できない。日露戦争後、長年の激務の影響か、天皇は糖尿病と慢性腎炎を併発し、その健康は徐々にむしばまれた。四十五年七月十五日枢密院会議に出席したが、会議中坐睡するなど、健康の不調なことが明らかであった。七月十九日、四〇度五分の高熱を発し、昏睡状態となり、尿毒症と診断された。いったんは小康を保つかにみえたが、七月二十九日には危篤状態となり、同夜半死去した。六十一歳。天皇の正確な死去の日時は判然としない。宮内省の公式発表では七月三十日午前零時四十三分とされているが、当時、宮中に詰めていた内務大臣原敬は七月二十九日の日記の中で、「午後十時四十分天皇陛下崩御あらせらる」と記し、また、同じく海軍次官財部(たからべ)彪は「実際ノ崩御ハ十時四十三分」と同日の日記に記している。いずれにしても、天皇の死去が宮内省の公式発表とは異なり、実際には七月二十九日の夜半であることは確かのようである。ほぼ二時間その時間を遅らせ七月三十日としたのは、践祚・朝見・改元などの儀式の時間的余裕がなかったためとみられる(『原敬日記』『財部彪日記』による)。七月三十日大正と改元され、大正元年(一九一二)八月二十七日、明治天皇と諡(おくりな)された。大葬は青山練兵場内葬場殿で同年九月十三日行われ、遺体は列車で京都に運ばれ、九月十五日伏見桃山陵に葬られた。
[参考文献]
宮内省編『明治天皇紀』、飛鳥井雅道『明治大帝』(『ちくまライブラリー』二〇)、鳥海靖『「明治」をつくった男たち』、木村毅『明治天皇』(『日本歴史新書』)、鶴見俊輔編『天皇』(『(週刊)朝日百科日本の歴史』一〇九)
(鳥海 靖)

伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)

京都市伏見区桃山町古城山(こじょうさん)にあり、伏見城旧本丸のやや南に位置している。崩御の日直ちに宮中に大喪使を置いて大喪に関することを掌理せしめ、大正元年(一九一二)八月六日陵所を撰定、十九日に地鎮祭が行われた。伏見桃山の地に陵所を定めたのは、遺詔によるといわれている。九月十三日夜青山に設けられた葬場殿において大喪の祭儀を行い、ひきつづき柩を列車にて陵所に遷し、十五日未明に至って埋葬を終え、この日陵号を伏見桃山陵と定めた。陵の形状は上円下方で各三段に築かれ南面し、すべて礫石で覆われていて、天智天皇陵を範としながら、後ろが高く前の開けた斜面に立地しているため、舒明天皇陵と似通った形状となっている。
[参考文献]
宮内省編『明治天皇紀』一二、上野竹次郎『山陵』下、日本歴史地理学会編『皇陵』(『歴史地理』大正二年秋季増刊)
(戸原 純一)


世界大百科事典
明治天皇
めいじてんのう
1852-1912(嘉永5-大正1)

第122代に数えられる天皇。1868年に即位し,明治国家の主権者として君臨した。孝明天皇を父とし権大納言中山忠能の女慶子を母として,京都の中山邸で生まれた。祐宮(さちのみや)と命名され,60年(万延1)儲君(ちよくん)となり,立親王の宣下とともに睦仁(むつひと)と改名した。66年(慶応2)12月25日,孝明天皇の急逝にともない,翌67年1月9日に践祚(せんそ)し,関白二条斉敬(なりゆき)が摂政となる。幕末の激動に対処して10月将軍徳川慶喜の大政奉還を勅許し,他方,薩摩,長州両藩主に対して討幕の密勅を下した。12月には王政復古の大号令によって旧来の政治制度を一新,翌68年1月からの戊辰戦争に征討軍を派遣して旧幕勢力を制圧した。その間に五ヵ条の誓文を発布して新政府の基本方針を宣言するとともに政体書によって新しい政治体制を採用,また〈明治〉と改元,一世一元の制を定めた。翌69年には東京に遷都,さらに版籍奉還の上表を勅許し,71年には廃藩置県を断行して中央集権体制の基礎を築いた。他方,大教宣布の詔を出して神道の国教化をはかり,同時に天皇の絶対化が試みられた。とくに藩閥政府内の矛盾が表面化した征韓論をめぐる政争では,内治優先の勅裁を下し,また,75年には木戸孝允,板垣退助の政府復帰の条件として漸次立憲制を採用するとの詔を発して政体改革の方向を明らかにした。

自由民権運動の高まりに対しては,1881年詔勅をもって国会開設の期日を約束して運動の鎮静化をはかり,同時に欽定憲法主義と天皇大権の確立を基本方針とする憲法制定の原則を定め,それに対応する制度的整備に着手した。一方,78年の参謀本部の創設,82年の軍人勅諭によって統帥権の独立を確保し,軍隊を天皇の軍隊として位置づけ,以後,対清戦争を想定した軍備の増強に努めた。議会開設を前に内閣制の創設,府県制・郡制・市制・町村制を制定するなど,地域末端までの官僚支配の体系を整え,他方,莫大な皇室財産を確保して皇室自律主義を貫いた。89年,大日本帝国憲法を発布,天皇主権を明示するとともに,広範な天皇大権を保障し,さらに翌90年には教育勅語を渙発して国民教化の理念を定めた。議会開設後は,政府と議会の対立が先鋭化するとしばしば詔勅によって政争を収拾し,日清戦争,日露戦争に際してはみずから大本営において戦争指導に当たった。韓国併合に臨んで韓国王室を優待して併合の実をあげようと努めたが,このころから糖尿病による身体の衰えが目だつようになり,1912年7月30日病没した。

明治初年には三条実美,岩倉具視らの指導で君徳の培養のため身心を鍛え,また,全国各地を巡幸して国民との接触をはかった。日常生活は質素を旨とし,自己を律すること厳しく,天皇の威厳を堅持することに努めた。明治維新以後,明治国家の指導者として君臨し,多くの国民は天皇への畏敬の念を抱き,天皇の病気が発表されると,容態の変化に一喜一憂し,平癒を祈願した。したがって明治天皇の死は多くの人々にある脱落感を覚えさせ,これを明治国家の終焉(しゆうえん)としてうけとめる者も少なくなかった。
[宇野 俊一]

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39. あぶらのこうじ-たかなお【油小路隆董】
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1839−1908 明治時代の華族。天保(てんぽう)10年1月12日生まれ。明治天皇に侍従としてつかえ,宮中勤番をへて明治16年殿掌となる。賀茂葵祭,春日大社, ...
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42. あまるめしていあと【余目氏邸跡】岩手県:水沢市/水沢城下/大手小路
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46. アメリカ彦蔵自伝 2 190ページ
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あれは親衛隊がわざと間違った号令をかけて、良民をおとしいれようとしているのだ、と言う者もあった。 注 明治天皇は、一八七二年六月二十八日 (明治五年五 ...
47. アメリカ彦蔵自伝 2 277ページ
東洋文庫
日本に向かうために待機している。ペリ1提督は未着任。 ◇ここで栄力丸の仲間と別れた。◇十一月三日、明治天皇の生誕。 ...
48. アメリカ彦蔵自伝 2 287ページ
東洋文庫
△八∩ 〔明治五〕 乱i O工部省および大蔵省から招かる。 〈天一 2九〇明治天皇、長崎に行幸。 △令 八三 〇横浜に ...
49. あやのこうじ-ありかず【綾小路有良】
日本人名大辞典
1849−1907 明治時代の華族。嘉永(かえい)2年5月20日生まれ。孝明天皇,明治天皇に侍従としてつかえる。のち御歌所参候,雅楽部長,式部職などを歴任。宮中 ...
50. あやのこうじ-いえまさ【綾小路家政】
日本人名大辞典
明治10年3月23日生まれ。大炊御門家信(おおいみかど-いえこと)の8男。綾小路茂俊の養子となり,子爵をつぐ。明治天皇,大正天皇の侍従をつとめた。馬術にすぐれ, ...
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舎人親王(日本大百科全書(ニッポニカ))
天武天皇の第三皇子。母は天智天皇の娘新田部皇女。知太政官事穂積親王の亡きあとは皇親の長老として重んぜられ、新田部親王とともに皇太子首親王(聖武天皇)を輔翼する責務を負った
天皇(改訂新版・世界大百科事典)
日本国憲法に定める日本国および日本国民統合の象徴。天皇の歴史前近代の天皇オオキミとスメラミコト〈天皇〉は〈オオキミ〉とも〈スメラミコト〉とも呼ばれた。しかしこの二つの日本語は決して同義ではなく,むしろ両者の質の違い,それぞれの用いられる次元の相違に注目することが
皇位継承(改訂新版・世界大百科事典)
7世紀末までの皇位継承を《古事記》《日本書紀》によってみると,16代の仁徳天皇まではほとんどが父子間の直系相続であり,仁徳以後持統までは,父子間相続6,母子間1,兄弟間10,姉弟間2,叔父・甥間1,夫婦間2,三親等以上をへだてた相続3の計25例で
摂政(国史大辞典)
天皇に代わって万機を摂り行う者、または摂り行うことをいう。関白に類する職として関白とともに摂関といい、関白と同じく、摂ろく・執柄・博陸などの唐名があり、その地位に因んで一の人・一の所などと称され、殿下ともいわれた
関白(国史大辞典)
万機に関与する重職で摂政に類似する。したがって摂政と合わせて摂関・摂ろく・一の人・一の所などと称し、執柄・博陸・殿下などの唐名がある。関白の語は『漢書』霍公伝に、宣帝が諸事まず霍光に関白してから奏上せしめたとみえているが
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豊明節会(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
新嘗祭の翌日の辰日、および大嘗祭においては午日に、天皇が出御して行われる公儀の宴会。荷田在満『大嘗会儀式具釈』に「豊明トハ宴会ヲ云、古クハ宴会豊楽等ノ字ヲ直ニトヨノアカリト訓ズ、大嘗新嘗ノ後ニハ必宴会アリ、仍テ大嘗ノ豊明、新嘗ノ豊明ナドトハイヘド
文官分限令・文官懲戒令(日本大百科全書)
1899年(明治32)3月に第二次山県有朋(やまがたありとも)内閣の手で公布された、一般文官の身分および職分の保障に関する規定と、懲戒に関する規定。前者では、官吏の身分保障、免官、休職、降任、休職中の俸給、復職などについての原則が規定され、官吏の身分
太上天皇(国史大辞典・日本国語大辞典)
譲位した天皇の称。「だいじょうてんのう」とも訓む。略して上皇あるいは太皇ともいい、また御在所を意味する院の称も用いられ、さらにその御在所を神仙の居所に擬して仙院・仙洞・藐姑射山(はこやのやま)・茨山(しざん)などとも称された。
上皇(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
譲位した天皇の尊称。正式には太上(だいじょう)天皇と称する。中国の太上皇(たいじょうこう)、太上皇帝の称に始まり、太上は最上または至上の意。日本では697年(文武天皇1)譲位した持統(じとう)天皇が初めて太上天皇と称し、大宝令(たいほうりょう)
昭和天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一九〇一 - 八九 一九二六―八九在位。明治三十四年(一九〇一)四月二十九日午後十時十分、東宮御所に生誕。皇太子明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)と皇太子妃節子(のちの貞明皇后)の第一皇子。五月五日明治天皇より裕仁(ひろひと)と命名され
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