NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
ジャパンナレッジは約1900冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 社会
  6. >
  7. 政治
  8. >
  9. 天皇
  10. >
  11. 光厳天皇

光厳天皇

ジャパンナレッジで閲覧できる『光厳天皇』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
光厳天皇
こうごんてんのう
一三一三 - 六四
一三三一―三三在位。正和二年(一三一三)七月九日、持明院統の後伏見天皇の第一皇子として一条内経の一条邸で生誕。母は前左大臣西園寺公衡の女寧子(のちの広義門院)。名は量仁。大覚寺統の後醍醐天皇の皇太子には、同統の邦良親王が立てられていたが、嘉暦元年(一三二六)三月、邦良親王が没すると、鎌倉幕府の支持により、七月、量仁親王が皇太子となった。元弘元年(一三三一)後醍醐天皇の討幕計画が発覚し(元弘の乱)、天皇が笠置にのがれると、九月二十日、幕府の推戴により量仁親王(光厳天皇)が践祚し、後伏見上皇が院政を行なった。践祚に際しては、先帝が新帝に剣璽を授ける剣璽渡御を行う例であるが、先帝が笠置にいたため、剣璽渡御のない異例の践祚となり、幕府側が後醍醐天皇を捕えてのち、十月六日になって光厳天皇は剣璽の引き渡しを受けた。後醍醐天皇は隠岐に流されたが、各地の武士が討幕の兵をあげ、元弘三年、千種忠顕・足利高氏(のち尊氏)らは六波羅を攻略した。六波羅探題の北条仲時・時益は、光厳天皇と後伏見・花園両上皇を奉じて東国にのがれようとしたが、時益まず戦死し、ついで仲時らも近江の番場で敗死し、天皇・両上皇は捕われ、五月十七日、後醍醐天皇の詔により、光厳天皇は廃された。しかし、やがて後醍醐天皇の建武新政は失敗し、建武二年(一三三五)足利尊氏は叛旗をひるがえした。翌三年、尊氏は都に攻め上り、敗れて九州にのがれたが、途中で光厳上皇の院宣を得て、朝敵となることを免れた。尊氏はやがて勢力を回復、再び京に攻め上り、八月十五日、光厳上皇は弟の豊仁親王(光明天皇)を践祚させ、院政を始めた。ここに大覚寺統の後醍醐天皇と持明院統の光明天皇とが並立することになり、南北両朝分立の端緒となった。光厳上皇の院政は光明・崇光(光厳の皇子)の二代、十五年に及んだが、足利氏の内紛によって一時南朝方の勢力が強まり、正平六年(一三五一)南朝の後村上天皇は北朝の崇光天皇を廃し、さらに翌七年には光厳・光明・崇光の三上皇を京都から南朝の根拠地に移した。すなわち三上皇は、同年河内の東条に、さらに大和の賀名生(あのう)に、同九年には河内の金剛寺に移された。かねてから光厳上皇は夢窓疎石に帰依していたが、幽囚の生活の中で、禅をはじめとする仏道への関心はさらに深まり、正平七年八月八日、賀名生で出家し、法名を勝光智と称した。金剛寺に移ってのちは孤峯覚明を尊信し、禅衣を授けられ、法名を光智と改めた。延文二年(一三五七)二月、京都に帰り、深草の金剛寿院に入った。この間京都では、足利氏が後光厳天皇(崇光上皇の弟)を擁立していたが、光厳法皇は世俗を断って禅に精進し、清渓通徹・春屋妙葩に師事した。晩年は丹波山国(京都府北桑田郡京北町)の常照寺(常照皇寺)で禅僧としての日々を送り、無範和尚と号していたが、貞治三年(一三六四)七月七日、同寺で死去。五十二歳。その後ろの山に葬られた。これを山国陵という。
[参考文献]
『大日本史料』六ノ二五 貞治三年七月七日条、『光厳天皇遺芳』、中村直勝『光厳天皇』(『中村直勝著作集』六)、赤松俊秀「光厳天皇について」(『京都寺史考』所収)
(上横手 雅敬)

山国陵(やまくにのみささぎ)

京都府北桑田郡京北町大字井戸字丸山の常照皇寺内にあり、南南西に面し、域内に後花園天皇陵・後土御門天皇分骨所と後花園天皇後宮嘉楽門院(藤原信子)の分骨塔と伝える塔がある。光厳天皇崩御の翌日、貞治三年(一三六四)七月八日住庵の後山にあたる当所で火葬、そのまま陵とし、遺命により、陵上には石塔を置かず、楓・柏・椿を三、四株植えたという。常照皇寺は天皇開基の寺のため、同寺が陵を篤く祭祀してきたが、幕末修陵の際に山国陵と称して大いに修補を加えた。なお光厳天皇の分骨所(宝塔)が大阪府河内長野市の金剛寺に、髪塔(五輪塔)が京都市右京区嵯峨天竜寺北造路町の金剛院内にある。
[参考文献]
『大日本史料』六ノ二五 貞治三年七月八日条、上野竹次郎『山陵』下
(中村 一郎)

所領

元弘三年(一三三三)六月後醍醐天皇は隠岐から帰洛すると、後伏見上皇に対し、後伏見・花園両上皇および永福門院の所領を安堵させ、八月には播磨国を光厳上皇の所領と定めた。しかし建武三年(一三三六)六月、足利尊氏が光厳上皇を奉じて上洛すると、八月光厳上皇に長講堂領・法金剛院領・熱田社領・室町院領半分などを進上した。またその十月、光厳上皇は仁和寺法守法親王に法勝寺円堂の寺務職を管領させた(『仁和寺文書』)。さらに康永二年(一三四三)四月、同上皇は、皇太子興仁親王に因幡国と法金剛院領・熱田社領を譲り管領した(『椿葉記』所収「光厳院御処分状案」)。正平六年(一三五一)南北両朝が合一しても、後村上天皇は長講堂領・法金剛院領を安堵し、熱田社は官社とした。上皇は延文二年(一三五七)二月天野行宮から帰京すると、長講堂領などを管領するが、貞治二年(一三六三)四月これを崇光院に譲り、置文を定めた(『椿葉記』所収「光厳院御置文案」)。
[参考文献]
帝室林野局編『御料地史稿』、八代国治『国史叢説』、岩橋小弥太『花園天皇』(『人物叢書』九九)
(奥野 高広)

日本大百科全書(ニッポニカ)
光厳天皇
こうごんてんのう
[1313―1364]

北朝第1代の天皇(在位1331~33)。名は量仁(ときひと)。法名勝光智、のちに光智。後伏見(ごふしみ)天皇の第1皇子。母は広義門院寧子(やすこ)。元弘(げんこう)の変中鎌倉幕府の推戴(すいたい)によって皇位についたが、まもなく形勢が逆転し、六波羅探題(ろくはらたんだい)北条氏一族に奉ぜられて東国に逃れる途中、官軍に敗れて帰京した。その間に後醍醐(ごだいご)天皇から廃位せしめられた。建武中興(けんむのちゅうこう)が崩壊して弟の光明(こうみょう)天皇が位につくと、院政の主として政務をとった。しかしながらその後足利(あしかが)氏の内訌(ないこう)によって南朝が優勢となり、北朝が廃せられると、光明、崇光(すこう)両上皇らとともに幽閉の身となり、南朝の根拠地たる大和(やまと)(奈良県)の賀名生(あのう)および河内(かわち)(大阪府)天野(あまの)の金剛寺に幽居の数年を過ごし、その間に出家を遂げた。光厳天皇は先に夢窓疎石(むそうそせき)を尊信して禅宗に帰依(きえ)したが、のちに孤峯覚明(こほうかくみょう)を深く尊信し、また清渓通徹(せいけいつうてつ)や春屋妙葩(しゅんおくみょうは)にも師事した。金剛寺から京都郊外の伏見に帰ってからは世俗を絶って光厳院に居住し、晩年には丹波山国(たんばやまぐに)(京都市右京(うきょう)区井戸)の常照寺(じょうしょうじ)に隠棲(いんせい)して禅道に参入し、貞治(じょうじ)3年7月7日同所に崩御。御陵は同寺の後山の山国(やまぐに)陵。
[村田正志]



世界大百科事典
光厳天皇
こうごんてんのう
1313-64(正和2-正平19・貞治3)

北朝第1代の天皇。在位1331-33年。後伏見天皇の第3皇子。名は量仁,母は広義門院寧子。祖父伏見上皇の意向で持明院統の正嫡として,1326年(嘉暦1)後醍醐天皇の皇太子となった。31年(元弘1)後醍醐天皇の討幕挙兵失敗後,幕府の要請で践祚した。33年後醍醐天皇の隠岐よりの還幸によって退位,太上天皇の号を贈られた。36年(延元1・建武3)足利尊氏が後醍醐天皇に離反して,光明天皇を擁立し,上皇に院政を奏請したので,以後北朝において崇光天皇の代まで院政をしいた。51年(正平6・観応2)足利尊氏・義詮の一時南朝降伏により,賀名生(あのう)・河内金剛寺に幽閉され,57年還京した。その間に出家し,帰還後は丹波国山国荘の常照寺に隠棲した。幼時より花園天皇に輔育され,帝王教育を受けながら,波乱万丈の生涯を送った。陵所は京都市の旧京北町にある(山国陵)。
[飯倉 晴武]

上記は、日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書サービス「ジャパンナレッジ」のサンプル記事です。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。


光厳天皇の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 571
※検索結果は本ページの作成時点のものであり、実際の検索結果とは異なる場合があります
検索コンテンツ
1. 量仁親王・光厳天皇・光厳上皇・光厳法皇
日本史年表
5・9 北条仲時,近江国番場で自刃. 光厳天皇 捕えられる(太)。 1333年〈【幕府】正慶2/・【朝廷】元弘3 癸酉②〉 5・25 後醍醐天皇, 光厳天皇 を ...
2. 光嚴天皇(こうげんてんのう)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 34ページ ...
3. 光厳天皇
日本大百科全書
び河内(かわち)(大阪府)天野(あまの)の金剛寺に幽居の数年を過ごし、その間に出家を遂げた。光厳天皇は先に夢窓疎石(むそうそせき)を尊信して禅宗に帰依(きえ)し ...
4. 光厳天皇
世界大百科事典
1313-64(正和2-正平19・貞治3) 北朝第1代の天皇。在位1331-33年。後伏見天皇の第3皇子。名は量仁,母は広義門院寧子。祖父伏見上皇の意向で持明院 ...
5. こうごん‐てんのう[クヮウゴンテンワウ]【光厳天皇】
日本国語大辞典
南北朝時代、北朝の第一代天皇。後伏見天皇の第一皇子。名は量仁(かずひと)。後醍醐天皇の皇太子となり、元弘元年(一三三一)北条高時に擁立されて践祚(せんそ)、翌年 ...
6. こうごんてんのう【光厳天皇】画像
国史大辞典
[参考文献]『大日本史料』六ノ二五 貞治三年七月七日条、『光厳天皇遺芳』、中村直勝『光厳天皇』(『中村直勝著作集』六)、赤松俊秀「光厳天皇について」(『京都寺史 ...
7. こうごんてんのう【光厳天皇】
日本人名大辞典
1313−1364 南北朝時代,北朝第1代天皇。在位1331-33。正和(しょうわ)2年7月9日生まれ。後伏見天皇の第1皇子。母は藤原寧子(広義門院)。鎌倉幕府 ...
8. 光厳天皇[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:2件 【逐次刊行物】:2件 『光厳天皇』中村直勝『光厳天皇と常念寺』森徳一郎『光厳上皇』粟野秀穂『光厳天皇宸翰に就いて 大徳寺蔵伝後醍 ...
9. 光嚴天皇出家 (見出し語:光嚴天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 875ページ ...
10. 光嚴天皇山陵 (見出し語:光嚴天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 1004ページ ...
11. 光嚴天皇建常照寺 (見出し語:光嚴天皇)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 865ページ ...
12. 光嚴天皇行幸六波羅 (見出し語:光嚴天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 675ページ ...
13. 花園天皇誡光嚴天皇 (見出し語:光嚴天皇)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 165ページ ...
14. 光厳天皇花押[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
15. 光厳天皇 所領一覧1[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
16. 光厳天皇 所領一覧2[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
17. こうごんてんのうしんき【光厳天皇宸記】
国史大辞典
鎌倉時代末期、光厳天皇の日記。光厳天皇は皇太子であった元徳年間(一三二九―三一)から日記をつけていたことが知られるが、現存の日記はすべて元弘二年(正慶元、一三 ...
18. 光厳天皇御凶事記(著作ID:2534454)
新日本古典籍データベース
こうごんてんのうごきょうじき 東坊城秀長(ひがしぼうじょうひでなが) 記録 貞治三 ...
19. 光厳院御即位記(著作ID:178165)
新日本古典籍データベース
こうごんいんごそくいき 光厳天皇御即位次第記 後円光院関白記 鷹司冬教(たかつかさふゆのり) 記録  ...
20. 光厳院宸記(著作ID:974867)
新日本古典籍データベース
こうごんいんしんき 光厳院御記 光厳天皇宸記 光厳天皇(こうごんてんのう) 日記  ...
21. 光嚴天皇行幸六波羅 (見出し語:六波羅)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 675ページ ...
22. 後光厳天皇
日本大百科全書
北朝第4代の天皇(在位1352~71)。名は弥仁(いやひと)。法名光融。光厳天皇の第2皇子。母は陽禄門院(ようろくもんいん)秀子。南朝後村上(ごむらかみ)天皇の ...
23. 後光厳天皇
世界大百科事典
1338-74(延元3・暦応1-文中3・応安7) 北朝第4代の天皇。在位1352-71年。光厳天皇の皇子。名は弥仁。1351年(正平6・観応2)兄崇光天皇が南朝 ...
24. ごこうごん‐てんのう[ゴクヮウゴンテンワウ]【後光厳天皇】
日本国語大辞典
北朝の第四代天皇。光厳天皇の第二皇子。母は陽祿門院秀子。名は彌仁(いやひと)。法名、光融。文和元年(一三五二)足利尊氏らに擁立されて践祚(せんそ)し、翌年即位。 ...
25. ごこうごんてんのう【後光厳天皇】画像
国史大辞典
一三三八―七四 一三五二―七一北朝在位。暦応元年(一三三八)三月二日光厳天皇の第二皇子として誕生。母は三条公秀の女陽禄門院藤原秀子。諱は弥仁(いやひと)。仏門 ...
26. 後光嚴天皇(ごこうごんてんのう)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 35ページ ...
27. ごこうごんてんのう【後光厳天皇】
日本人名大辞典
1338−1374 南北朝時代,北朝第4代天皇。在位1352-71。建武(けんむ)5=延元3年3月2日生まれ。光厳(こうごん)天皇の第2皇子。母は藤原秀子(陽禄 ...
28. 後光厳天皇花押[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
29. 後光厳天皇・後光厳院・後光厳上皇
日本史年表
直冬,桃井直常らが京都に迫り,尊氏,後光厳天皇を奉じて近江武佐寺に逃れる(柳原家記録)。 1355年〈【北朝】文和4・【南朝】正平10 乙未〉 3・28 後光厳 ...
30. 後光厳天皇御琵琶始並御伝受記(著作ID:4400033)
新日本古典籍データベース
ごこうごんてんのうおんびわはじめならびにごでんじゅき 音楽  ...
31. 後光厳天皇御譲位記(著作ID:2598052)
新日本古典籍データベース
ごこうごんてんのうごじょういき 譲位記 東坊城秀長(ひがしぼうじょうひでなが) 記録 応安四 ...
32. 後光厳天皇践祚部類記(著作ID:2598085)
新日本古典籍データベース
ごこうごんてんのうせんそぶるいき 部類記 観応三 ...
33. 後光嚴天皇行幸近江國 (見出し語:近江國【篇】)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 678ページ ...
34. 後光嚴天皇即位 (見出し語:後光嚴天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 260ページ ...
35. 後光嚴天皇御諱 (見出し語:後光嚴天皇)
古事類苑
姓名部 洋巻 第1巻 588ページ ...
36. 後光嚴天皇行幸近江國 (見出し語:後光嚴天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 678ページ ...
37. 後小松天皇遺勅不絶後光嚴天皇一流之事 (見出し語:後光嚴天皇)
古事類苑
禮式部 洋巻 第2巻 409ページ ...
38. 納後光嚴天皇遺骨於所所寺院 (見出し語:後光嚴天皇)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 1004ページ ...
39. 葬後光嚴天皇 (見出し語:後光嚴天皇)
古事類苑
禮式部 洋巻 第2巻 66ページ ...
40. 花園天皇誡光嚴天皇 (見出し語:花園天皇)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 165ページ ...
41. 足利高氏・足利尊氏
日本史年表
回復(鶴岡社務記録)。 1353年〈【北朝】文和2・【南朝】正平8 癸巳〉 9・21 尊氏 ・ 義詮 ,後光厳天皇を奉じて入京(園太暦)。 1358年〈【北朝】 ...
42. あしかがよしあきら【足利義詮】画像
国史大辞典
が男山に進出すると、義詮は南軍の強くなることを恐れてこれを破り、天皇を賀名生に追い、北朝の後光厳天皇を擁立した。ときに文和元年(正平七、一三五二)八月である。し ...
43. 足利義詮
日本史年表
回復(祇園執行日記)。 1353年〈【北朝】文和2・【南朝】正平8 癸巳〉 9・21 尊氏 ・ 義詮 ,後光厳天皇を奉じて入京(園太暦)。 1361年〈【北朝】 ...
44. あしかがよしみつ【足利義満】画像
国史大辞典
所執事伊勢貞継の邸で生まれ、幼名を春王という。康安元年(一三六一)十二月南軍入京し、義詮は後光厳天皇を奉じて近江に奔ったが、時に義満は四歳。建仁寺大竜庵に逃れ、 ...
45. 排蘆小船(近世随想集) 378ページ
日本古典文学全集
継いで『続後拾遺和歌集』を奏覧し、のち足利氏にも接近し、後光厳天皇の命によって『新千載和歌集』を撰進した。北朝第四代天皇。名は弥仁、法名は光融。光厳天皇第二皇子 ...
46. 排蘆小船(近世随想集) 379ページ
日本古典文学全集
その執奏により『新拾遺和歌集』の撰者となる。第十九番目の勅撰集。貞治二年、将軍義詮の執奏により後光厳天皇の撰進の命が為明に下る。五条烏丸に和歌所を構え、頓阿、経 ...
47. あだち-たかかげ【安達高景】
日本人名大辞典
31)後醍醐(ごだいご)天皇が幕府側に捕らえられると,執権北条高時の使者として京都にはいり,光厳天皇を擁立した。北条氏滅亡後,建武政権に対して反乱をおこしたが敗 ...
48. あつみのしょう【厚見庄】大阪府:羽曳野市
日本歴史地名大系
幸盛の濫妨が止められている。なお、本所はそのときも泉涌寺で、文和三年(一三五四)一二月九日の後光厳天皇綸旨(泉涌寺文書)によれば、泉涌寺の僧全皎を東寺大勧進職に ...
49. あづちちょう【安土町】滋賀県:蒲生郡
日本歴史地名大系
して発展、一六世紀には「石寺新市」も設けられている。南北朝期には繖山の観音寺(観音正寺)に後光厳天皇が、享禄年中(一五二八―三二)には同山西麓の桑実寺に将軍足利 ...
50. あのさねかど【阿野実廉】
国史大辞典
元徳元年(一三二九)右兵衛督、同二年宮内卿に進んだ。この間、引き続き鎌倉にあって、元弘元年(一三三一)十一月光厳天皇即位に伴う更迭人事の際に宮内卿を罷められたら ...
「光厳天皇」の情報だけではなく、「光厳天皇」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶

光厳天皇と同じ天皇カテゴリの記事
舎人親王(日本大百科全書(ニッポニカ))
天武天皇の第三皇子。母は天智天皇の娘新田部皇女。知太政官事穂積親王の亡きあとは皇親の長老として重んぜられ、新田部親王とともに皇太子首親王(聖武天皇)を輔翼する責務を負った
天皇(改訂新版・世界大百科事典)
日本国憲法に定める日本国および日本国民統合の象徴。天皇の歴史前近代の天皇オオキミとスメラミコト〈天皇〉は〈オオキミ〉とも〈スメラミコト〉とも呼ばれた。しかしこの二つの日本語は決して同義ではなく,むしろ両者の質の違い,それぞれの用いられる次元の相違に注目することが
皇位継承(改訂新版・世界大百科事典)
7世紀末までの皇位継承を《古事記》《日本書紀》によってみると,16代の仁徳天皇まではほとんどが父子間の直系相続であり,仁徳以後持統までは,父子間相続6,母子間1,兄弟間10,姉弟間2,叔父・甥間1,夫婦間2,三親等以上をへだてた相続3の計25例で
摂政(国史大辞典)
天皇に代わって万機を摂り行う者、または摂り行うことをいう。関白に類する職として関白とともに摂関といい、関白と同じく、摂ろく・執柄・博陸などの唐名があり、その地位に因んで一の人・一の所などと称され、殿下ともいわれた
関白(国史大辞典)
万機に関与する重職で摂政に類似する。したがって摂政と合わせて摂関・摂ろく・一の人・一の所などと称し、執柄・博陸・殿下などの唐名がある。関白の語は『漢書』霍公伝に、宣帝が諸事まず霍光に関白してから奏上せしめたとみえているが
天皇と同じカテゴリの記事をもっと見る


「光厳天皇」は天皇に関連のある記事です。
その他の天皇に関連する記事
豊明節会(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
新嘗祭の翌日の辰日、および大嘗祭においては午日に、天皇が出御して行われる公儀の宴会。荷田在満『大嘗会儀式具釈』に「豊明トハ宴会ヲ云、古クハ宴会豊楽等ノ字ヲ直ニトヨノアカリト訓ズ、大嘗新嘗ノ後ニハ必宴会アリ、仍テ大嘗ノ豊明、新嘗ノ豊明ナドトハイヘド
文官分限令・文官懲戒令(日本大百科全書)
1899年(明治32)3月に第二次山県有朋(やまがたありとも)内閣の手で公布された、一般文官の身分および職分の保障に関する規定と、懲戒に関する規定。前者では、官吏の身分保障、免官、休職、降任、休職中の俸給、復職などについての原則が規定され、官吏の身分
太上天皇(国史大辞典・日本国語大辞典)
譲位した天皇の称。「だいじょうてんのう」とも訓む。略して上皇あるいは太皇ともいい、また御在所を意味する院の称も用いられ、さらにその御在所を神仙の居所に擬して仙院・仙洞・藐姑射山(はこやのやま)・茨山(しざん)などとも称された。
上皇(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
譲位した天皇の尊称。正式には太上(だいじょう)天皇と称する。中国の太上皇(たいじょうこう)、太上皇帝の称に始まり、太上は最上または至上の意。日本では697年(文武天皇1)譲位した持統(じとう)天皇が初めて太上天皇と称し、大宝令(たいほうりょう)
昭和天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一九〇一 - 八九 一九二六―八九在位。明治三十四年(一九〇一)四月二十九日午後十時十分、東宮御所に生誕。皇太子明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)と皇太子妃節子(のちの貞明皇后)の第一皇子。五月五日明治天皇より裕仁(ひろひと)と命名され
天皇に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1900冊以上(総額850万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶