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後鳥羽天皇

ジャパンナレッジで閲覧できる『後鳥羽天皇』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
後鳥羽天皇
ごとばてんのう
一一八〇 - 一二三九
一一八三―九八在位。高倉天皇の第四皇子。母は修理大夫坊門信隆の娘殖子(七条院)。治承四年(一一八〇)七月十四日、五条町の亭に生まれた。この年五月には平氏打倒の兵を挙げた以仁王が敗死し、六月には遷都があって祖父後白河法皇・父高倉上皇・兄安徳天皇が福原に移り、八月には源頼朝が挙兵するという動乱期であった。寿永二年(一一八三)平氏が安徳天皇を伴って都落ちしたため、八月、後白河法皇の詔によって、後鳥羽天皇は閑院で践祚、尊成と名づけられた。三種の神器は平氏に持ち去られ、神器なしの異例の践祚であった。こうして安徳・後鳥羽両天皇が併立したが、文治元年(一一八五)平氏は壇ノ浦で滅亡、安徳天皇も入水した。建久元年(一一九〇)後鳥羽天皇は元服、摂政九条兼実の娘任子(宜秋門院)を中宮とした。当時は後白河法皇が院政を行い、政権を握っていたが、同三年、法皇が没し、天皇親政となると、実権は兼実に移った。しかし源通親らは兼実に対する反対勢力を形成していた。同六年、任子が後鳥羽天皇の皇女昇子を生んだのに対し、通親の養女在子(承明門院)が皇子為仁を生むと、通親の権勢は強まった。翌七年、通親の策謀で任子は宮中を追われ、兼実も罷免され、通親は全盛を迎えた。同九年正月、後鳥羽天皇は為仁(土御門天皇)に譲位して院政を始め、承久三年(一二二一)まで、土御門・順徳・仲恭天皇の三代、二十三年にわたり院政を行なった。特に建仁二年(一二〇二)通親が没してのちは政治を独裁した。上皇は貴族間の党派的対立を解消し、すべての貴族に支持される体制の樹立を図り、九条家をはじめ、通親の全盛下に不遇であった人々をも重用した。西面の武士を置いて直属軍を強化はしているが、最初から鎌倉幕府を倒そうとしたのではなく、むしろ将軍源実朝との関係を密にし、生母の弟である坊門信清の娘を実朝の妻として鎌倉に下すなど、公武の融和に努めた。その結果、当初は公武関係は円満であったが、幕府内での実朝の権限は弱く、執権北条氏を中心とする勢力は、上皇が実朝を介して御家人の権益を侵すことを警戒し、上皇と対立した。実朝は幕府内で孤立し、上皇との関係も次第に円滑を欠くようになった。承久元年上皇と幕府との対立を緩和する役割を果たしてきた実朝が殺されるに及び、上皇は討幕の決意を固めた。幕府は上皇の皇子を将軍として迎えることを求めたが、実朝の死で幕府の瓦解を望むようになった上皇はこれを拒んだ。結局、頼朝の遠縁にあたる九条頼経(兼実の曾孫)が鎌倉に下ることになった。上皇はこれを許したものの不満であり、討幕計画を進めた。さきに承元四年(一二一〇)上皇は土御門天皇に命じて弟の順徳天皇に譲位させたが、承久三年四月、順徳天皇も皇子(仲恭天皇)に譲位し、後鳥羽上皇の討幕計画を助けることになった。同年五月、後鳥羽上皇は執権北条義時追討の宣旨を発して挙兵、承久の乱が起ったが、上皇方は完敗し、六月には幕府軍は京都に入った。七月、上皇は鳥羽殿に移され、子の道助入道親王を戒師として出家、法名を金剛理、あるいは良然といった。出家の際、藤原信実に肖像を画かせたが、大阪府水無瀬神宮所蔵の画像(国宝)はこの時のものと伝える。幕府は後鳥羽上皇の兄守貞親王(後高倉法皇)に院政を求め、後鳥羽上皇の所領を没収して守貞に献上した。仲恭天皇は退位させられ、守貞の皇子(後堀河天皇)が践祚した。七月二十三日、後鳥羽上皇は鳥羽殿を出発、隠岐の苅田御所に移された。その後十八年、上皇は和歌に心を慰め、仏道に励むわびしい生活を送ったが、延応元年(一二三九)二月二十二日、配地で没した。六十歳。同地で火葬され、遺骨は山城大原の西林院(一説に勝林院)に移され、のち仁治二年(一二四一)大原の法華堂に安置された。御陵は京都市左京区の大原陵と島根県隠岐郡海士町の火葬塚とがある。配流地により隠岐院とよばれ、延応元年五月顕徳院の諡が贈られたが、上皇の怨霊が噂され、仁治三年には後鳥羽院と改められた。上皇は和歌にすぐれ、建仁元年には院御所二条殿に和歌所を置いてすぐれた歌人を集め、かれらの協力で元久二年(一二〇五)『新古今和歌集』を勅撰し、隠岐配流後に至るまでみずから追加・削除を行なった。また上皇は蹴鞠・琵琶・秦箏・笛などの芸能のほか、相撲・水練・射芸などの武技をもたしなみ、太刀を製作・鑑定するなど、文武にわたり多才多芸であった。上皇は多数の御領荘園を所有し、豊かな財力によって各所に院御所を造った。その院政期間における院御所の造営・移転は十八回を数える。特に水無瀬・鳥羽・宇治には壮麗な離宮を営み、そこに赴いて遊宴を行なった。洛中・洛外の社寺・名勝への御幸も多く、特にあつく熊野を信仰し、参詣は二十八回に及んだ。『新古今和歌集』のほか、日記『後鳥羽天皇宸記』、歌集『後鳥羽院御集』『遠島御百首』、歌論書『後鳥羽院御口伝』、仏書『無常講式』、有職故実書『世俗浅深秘抄』など多数の著書がある。→大原陵(おおはらのみささぎ)
[参考文献]
『大日本史料』五ノ一二 延応元年二月二十二日条、『京都の歴史』二、中村直勝『天皇と国史の進展』(『中村直勝著作集』六)、田中稔「後鳥羽上皇」(『人物・日本の歴史』四所収)、上横手雅敬「鎌倉幕府と公家政権」(『(岩波講座)日本歴史』五所収)
(上横手 雅敬)

所領

建久三年(一一九二)二月、後白河法皇から後院領・六勝寺領・蓮華王院領・鳥羽法住寺殿・新日吉(いまひえ)社領・新熊野(いまくまの)社領・最勝光院領および平家没官領(『吾妻鏡』建久三年十二月十四日条)などの譲与をうけた。このときから宣陽門院領・殷富門院領・式子内親王領・好子内親王領・七条院領などを管領した(『明月記』『玉葉』、ほかに中宮で九条兼実女の宜秋門院領や最勝金剛院領なども管理したであろう)。同九年正月土御門天皇に譲位すると、千町歩の勅旨田を指示した(『三長記』)。また美濃・丹波(『伏見宮御記録』利四七上所収『三中記』建久九年四月二十一日条)や備中も分国であった。後鳥羽上皇の院政時代に、白河・鳥羽両天皇以来増殖した皇室領は同上皇の管領に帰した。(一)建暦元年(一二一一)六月八条院の遺領の大部分は、上皇の女春華門院に伝わり、十一月その遺領が順徳天皇に伝領し、上皇が管領。(二)同三年二月に青蓮院慈円は、所管の寺領などを上皇の皇子朝仁親王(道覚法親王)に譲った(『(京都帝国大学国史研究室蔵)史料集』、『華頂要略』五五上所収『慈鎮和尚建暦目録』)。(三)建保二年(一二一四)二月、平親範が所領の寺院と本領を宣陽門院に寄進。(四)同六年十月に七条院領のうち歓喜寿院領が成立、また後宮承明門院源在子の所領も管領。こうして後鳥羽上皇領は皇室所領史上最大のものとなったが、承久の乱によってすべて解消してしまった。なお、後鳥羽院法華堂(山城国大原勝林院大原陵)と摂津国水無瀬御影堂には多くの所領がある。
[参考文献]
帝室林野局編『御料地史稿』、八代国治『国史叢説』
(奥野 高広)


世界大百科事典
後鳥羽天皇
ごとばてんのう
1180-1239(治承4-延応1)

第82代に数えられる天皇。在位1183-98年。高倉天皇の第4皇子。名は尊成。母は坊門信隆の娘殖子(七条院)。1183年(寿永2)平氏が安徳天皇を伴って都落ちした後,祖父後白河法皇の詔によって践祚。践祚の後も後白河法皇が院政を行ったが,92年(建久3)法皇の没後は,法皇と対立していた関白九条兼実が実権を握った。源通親ら法皇の旧側近はこれと対立し,96年通親は策謀によって兼実を失脚させ政権を握った。98年後鳥羽天皇は通親の外孫にあたる皇子為仁(土御門天皇)に譲位,上皇として院政をはじめ,1221年(承久3)まで,土御門・順徳・仲恭天皇の3代にわたり院政を行った。院政開始後も通親が実権を持っていたが,1202年(建仁2)通親が没して後は後鳥羽上皇の独裁となった。上皇は貴族間の対立を克服し,すべての貴族が上皇を補佐する体制の確立を図り,通親に抑えられていた九条家一門などをも重用した。上皇はまた将軍源実朝との関係を密にし,上皇の主導の下に朝幕の融和を進め,生母の弟である坊門信清の娘を実朝の妻として鎌倉に下した。上皇は水練,相撲,狩猟などをたしなみ,刀剣を製作,鑑定し,西面の武士を置いたりしたが,これらは討幕のためではなく,武者の世には帝王にも武芸のたしなみや軍事力が必要だと考えたためである。

朝幕関係は最初は円滑であったが,実朝は実権を持たず,執権北条氏は上皇が実朝を介して御家人の権益を侵すのを懸念し,しばしば上皇と対立した。そのため両者の関係はしだいに悪化し,1219年実朝が殺されると上皇はついに討幕を決意した。実朝に子がなかったため,幕府は上皇の皇子を将軍に迎えようとし,内約も交わされていたが,実朝の死によって幕府の瓦解を望む上皇は,皇子の東下を許さず,かえって摂津国長江・椋橋両荘の地頭の改補を幕府に命じた。幕府はこれを拒み,上皇との対立はさらに深まった。結局頼朝の遠縁に当たる九条頼経が鎌倉に下ったが,上皇はこれにも不満で,討幕計画を進め,21年執権北条義時追討の宣旨を発して挙兵,承久の乱がおこった。しかし幕府軍の前に上皇方は完敗した。上皇は出家(法名は金剛理,あるいは良然)の上に隠岐に流され,18年の配所生活の末,同地で没した。御陵は京都市左京区の大原陵と隠岐の海士町陵。朝廷は上皇に顕徳院の諡(おくりな)を贈ったが,上皇の怨霊出現のうわさがあり,42年(仁治3)あらためて後鳥羽院と追号した。

上皇は和歌に秀で,和歌所を置き,《新古今和歌集》編纂にあたった。また蹴鞠,琵琶,奏箏などの芸能にもすぐれていた。上皇は多数の所領を持ち,豊かな財力によって各地に院御所を造った。水無瀬,鳥羽などにはとくに壮麗な離宮を営んだ。社寺参詣も多く,紀伊の熊野への参詣は,約30回に及んだ。著書には《新古今和歌集》のほか,《後鳥羽院宸記》《世俗浅深秘抄》《後鳥羽院御集》《遠島御百首》《後鳥羽院御口伝》《無常講式》がある。
[上横手 雅敬]

[索引語]
源通親 土御門天皇 承久の乱
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譲位した天皇の称。「だいじょうてんのう」とも訓む。略して上皇あるいは太皇ともいい、また御在所を意味する院の称も用いられ、さらにその御在所を神仙の居所に擬して仙院・仙洞・藐姑射山(はこやのやま)・茨山(しざん)などとも称された。
上皇(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
譲位した天皇の尊称。正式には太上(だいじょう)天皇と称する。中国の太上皇(たいじょうこう)、太上皇帝の称に始まり、太上は最上または至上の意。日本では697年(文武天皇1)譲位した持統(じとう)天皇が初めて太上天皇と称し、大宝令(たいほうりょう)
昭和天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一九〇一 - 八九 一九二六―八九在位。明治三十四年(一九〇一)四月二十九日午後十時十分、東宮御所に生誕。皇太子明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)と皇太子妃節子(のちの貞明皇后)の第一皇子。五月五日明治天皇より裕仁(ひろひと)と命名され
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