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  11. 宇多天皇

宇多天皇

ジャパンナレッジで閲覧できる『宇多天皇』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
宇多天皇
うだてんのう
八六七 - 九三一
八八七―九七在位 貞観九年(八六七)五月五日、光孝天皇の第七皇子として誕生。母は桓武天皇皇子仲野親王の女班子女王、諱は定省(さだみ)。元慶年間(八七七―八五)侍従となり王侍従と称された。同八年四月十三日、他の皇子女とともに臣籍に降り、源朝臣姓を賜わったが、光孝天皇崩御の直前、天皇の意を察した藤原基経の推挙で、仁和三年(八八七)八月二十五日親王、二十六日立太子、同日天皇の崩御により践祚、十一月十七日即位。時に二十一歳。基経の功に報いるため同二十一日、万機巨細皆基経に関白させる詔を降したが、基経の辞表に対する重ねての優詔からいわゆる阿衡の紛議が起り、藤原氏の専横に対する不快の念を強めた。寛平三年(八九一)正月基経死んで後、嗣子時平の若年に乗じて親政にあたり、綱紀を粛正し、民政に努め、文運を興して、その治世は後世寛平の治と称せられた。遣唐使の派遣も計画されたが中止され、ここに日唐間の公的交通は終った。能吏の藤原保則や鴻儒の菅原道真らを重用したが、特に道真に対する信任は厚く、敦仁親王(醍醐天皇)の立太子も自己の退位も、ただ道真のみに内意を示してその意見を聞いた。同九年七月三日、三十一歳で皇太子敦仁親王に譲位、太上天皇の尊号を受け、その後は朱雀院・仁和寺御室・亭子院・六条院・宇多院などに住した。天皇は幼時より仏教を篤信し、昌泰二年(八九九)十月十四日、仁和寺で出家、法名を空理(のち灌頂を受けて金剛覚と改める)と号し、太上天皇の尊号を辞して法皇と称した。すなわち法皇の初例である。天皇は和歌にも堪能で、御製は『古今和歌集』にもあり、御集もあった。またしばしば歌会を催し、歌合を盛行させた。譲位に際しては醍醐天皇に訓戒(いわゆる『寛平御遺誡』)を与え、特に道真を重用すべきことを求めたが、延喜元年(九〇一)正月、時平の讒言で道真は失脚した。しかし、醍醐朝を通じてその発言力は大きかった。承平元年(九三一)七月十九日、仁和寺御室で六十五歳をもって崩御、大内山陵に葬られた。宇多院と諡され、また亭子院帝・寛平法皇とも称された。後宮には藤原温子(基経女)・同胤子(高藤女、醍醐天皇母)らがあり、皇子女は二十人。うち醍醐天皇以外の敦実親王ら各親王の後は源姓を賜わり、中にも敦実親王の系統は栄え、宇多源氏と称された。天皇の日記に『宇多天皇宸記』十巻があったが、今は伝わらず、逸文が存するのみである。
[参考文献]
『大日本史料』一ノ六 承平元年七月十九日条、目崎徳衛「宇多上皇の院と国政」(古代学協会編『延喜天暦時代の研究』所収)、所功「“寛平の治”の再検討」(『皇学館大学紀要』五)
(藤木 邦彦)

大内山陵(おおうちやまのみささぎ)

京都市右京区鳴滝宇多野谷にあり、仁和寺の北一キロにあたる。陵形は方形にして封土なく、周囲に空堀をめぐらしている。天皇崩御の承平元年(九三一)七月十九日の夜、遺骸を仁和寺より大内山の魂殿に遷し、九月六日未明同所に火葬、拾骨のことなくそのまま土を覆って陵所とした。当陵は遺詔によって荷前に列せず、その所伝は早く失われたが、『歴代廟陵考補遺』(安政二年(一八五五)浅野長祚著)は現陵の地を示し、文久修陵の際に修治を加えた。
[参考文献]
『大日本史料』一ノ六、承平元年七月十九日―二十八日条・同九月六日条、上野竹次郎『山陵』上
(戸原 純一)


日本大百科全書(ニッポニカ)
宇多天皇
うだてんのう
[867―931]

第59代天皇(在位887~897)。光孝(こうこう)天皇第3皇子。母は式部卿(きょう)仲野親王女(むすめ)、班子女王(はんしにょおう)。諱(いみな)は定省(さだみ)。884年(元慶8)源氏を賜姓され臣下となっていたが、887年(仁和3)光孝天皇の病があつくなったとき、天皇の意をくんだ太政大臣(だいじょうだいじん)藤原基経(もとつね)の推挙を受け、皇太子となり、ついで践祚(せんそ)した。897年(寛平9)皇太子敦仁(あつひと)親王(醍醐(だいご)天皇)に譲位するまで在位10年。学者出身の菅原道真(すがわらのみちざね)を重用し、親政を行った。権門勢家の活動を抑制し、律令(りつりょう)の原則に立ち返った政策路線を採用、後世、寛平(かんぴょう)の治と称された。譲位後しばらくは道真追放をめぐり醍醐天皇と対立したが、その後協調的となり、上皇として政務に関与するところがあった。承平(じょうへい)元年7月19日、仁和寺(にんなじ)に崩ず。
[森田 悌]



世界大百科事典
宇多天皇
うだてんのう
867-931(貞観9-承平1)

第59代に数えられる平安前期の天皇。在位887-897年。亭子院帝,寛平法皇ともいう。時康親王(のち光孝天皇)と班子女王を父母として生まれた。陽成天皇廃立によって父が帝位につくと兄弟姉妹とともに臣籍に降って源定省(さだみ)と称し,官人として勤めていたが,父の強い希望によって,887年(仁和3)親王となり,帝位を継いだ。即位の直後,これまでの政治的実権を失うことを恐れた太政大臣藤原基経との間に,阿衡(あこう)事件と呼ばれる権力争いが起こり,これに敗れたため,891年(寛平3)の関白基経の死に至るまで,政権をゆだねざるをえなかった。その死後天皇は東宮より内裏に入って親政をはじめ,菅原道真,藤原保則ら有能な官人を用いて地方政治の刷新に努めた。これを〈寛平の治〉という。しかし故基経女の中宮温子が皇子を生まぬ以前にと,女御藤原胤子の生んだ皇太子敦仁親王に897年譲位した。宇多上皇は新帝醍醐天皇のために《寛平御遺誡》を定め,また故基経の子時平と並んで菅原道真を昇進させることによって,藤原氏の台頭を抑え隠然たる支配力を保持したが,899年(昌泰2)出家して空理(のち金剛覚)と号し,上皇を辞し法皇と称して修行にはげむ間に,901年(延喜1)道真が大宰府に左遷され,法皇の力も失われた。しかし909年時平が死に,かねて法皇に寵愛されていた弟忠平が政治をとると,法皇,天皇,忠平の融和を軸として,のちに〈延喜の治〉と呼ばれる政治的安定がつづき,930年(延長8)の天皇の死と翌年の法皇の死におよんだ。このように宇多天皇は政治上に大きな力を発揮したが,歴史的により大きな意義をもつのは,その文化的活動である。天皇は宮廷の年中行事を整備し,内裏の運営に当たる蔵人所を充実させた。また和歌の振興をはかり,大規模な歌合を催すなどして《古今和歌集》勅撰への気運を高めた。さらに密教においても,仁和寺内に御室(おむろ)を設けて住居とし,真言宗広沢流の祖となった。11世紀に頂点に達する国風文化の出発は,宇多天皇の指導によるところが大きい。
→宇多天皇御記
[目崎 徳衛] 宇多天皇は,その時代が平安時代の大きな変り目であったことと,不如意のうちに政治から遠ざけられたことから,種々の逸話をのこすことになった。天皇については,菅原道真との関係や仁和寺の建立のことなど,語り伝えられることは多いが,とくに説話の中では,官民の倹約を奨励したり,民の疲弊を聞いて悲嘆にくれたというように賢帝として伝えられ,また伊勢との和歌の贈答をはじめとし,詩歌に関する多くの説話によって,国文学勃興期の中心的な人物として語られている。さらに,醍醐天皇の女御の京極御息所を寵愛した天皇が,御息所を伴って河原院に赴いたところ,源融の亡霊があらわれて天皇の行いを非難したという説話が,種々の説話集に見えており,平安時代中期以降の天皇観の変化を示すものとなっている。
[大隅 和雄]

[索引語]
寛平法皇 源定省 寛平の治 延喜の治
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