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淳和天皇

ジャパンナレッジで閲覧できる『淳和天皇』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
淳和天皇
じゅんなてんのう
七八六 - 八四〇
八二三―三三在位。延暦五年(七八六)桓武天皇の第三皇子として生まれた。母は藤原百川の女、旅子。諱は大伴。弘仁元年(八一〇)九月の薬子の変のため、同月十三日に皇太子高岳親王が廃されたので同日中務卿から皇太弟となり、同十四年四月十六日嵯峨天皇の譲位により践祚。清原夏野らを登用し、良吏を登用し地方官に大幅な権限を与え勘解由使を再設するなどの政治改革を行い、さらに検非違使を整備し、一方親王任国や勅旨田を置いて皇室財政の強化をはかり、『日本後紀』の編纂を継続させ、『令義解』をも撰述させた。天長十年(八三三)二月二十八日皇太子正良親王(仁明天皇)への譲位後は淳和院に住み、承和七年(八四〇)五月八日死去。五十五歳。同十三日遺骨は遺詔に従い京都大原野の西山嶺に散骨された。
[参考文献]
井上満郎『平安時代軍事制度の研究』、石母田正『古代末期政治史序説』、坂本太郎『六国史』(吉川弘文館『日本歴史叢書』二七)、押部佳周『日本律令成立の研究』、辻善之助『日本仏教史』一、笠井純一「天長・承和期における地方行政監察について」(井上薫教授退官記念会編『日本古代の国家と宗教』下所収)、福井俊彦「淳和朝官人」(早稲田大学高等学院『研究年誌』一一)
(福井 俊彦)

大原野西嶺上陵(おおはらののにしのみねのえのみささぎ)

京都市西京区大原野南春日町にあり、同町の西方にそびえる大原山(小塩山ともいう)の山頂に位置する。形状は東西五〇メートル、南北四〇メートルの東面する長円丘。この地は古くから経塚または清塚といわれ、小礫を積み重ねた塚が数基東西に並んでいたといわれる。『続日本後紀』によると、天皇は崩御に際して、山陵を営まず骨を砕いて山中に散ずべきことを遺命した。よって承和七年(八四〇)五月十三日乙訓郡物集村に火葬し、薄葬の遺詔に従って大原野の西山の嶺の上に散骨し、国忌(こき)・荷前(のざき)を停めた。この故に『延喜式』諸陵寮は当陵を載せていない。元禄十二年(一六九九)の江戸幕府による諸陵探索の折には、物集村の御廟塚と称する火葬の地を陵所に擬したが、幕末の修陵に際し、散骨の故地について山陵を起し、陵号を大原野西嶺上陵と称した。なお御廟塚は、このとき改めて火葬塚に治定され、現在京都府向日(むこう)市物集女(もずめ)町出口に属している。
[参考文献]
上野竹次郎『山陵』上
(戸原 純一)


日本大百科全書(ニッポニカ)
淳和天皇
じゅんなてんのう
[786―840]

第53代天皇(在位823~833)。桓武(かんむ)天皇第3皇子。母は式家百川(ももかわ)の娘藤原旅子(たびこ)。諱(いみな)は大伴(おおとも)。薬子(くすこ)の変(810)で皇太子高岳(たかおか)親王が廃されたので、嵯峨(さが)天皇の皇太弟となり、天皇の譲位を受け即位。公卿(くぎょう)らに意見を提出させ、地方官に従来より大きな職務権限をもたせ、一方で勘解由使(かげゆし)の再置、巡察使の派遣などによって地方官の監督を強化しようとした。また清原夏野(きよはらのなつの)らの側近を登用して政治を進め、勅旨田や親王任国を置いて皇室財政を強化した。そのほか、令(りょう)の公的注釈書『令義解(りょうのぎげ)』や詩文集『経国集(けいこくしゅう)』を撰(せん)し、譲位後は主として淳和院に住んだ。遺詔により遺骨を砕いて散じたといわれる。承和(じょうわ)7年5月8日没、陵墓は京都大原野西嶺上陵(京都市西京区)。
[福井俊彦]



世界大百科事典
淳和天皇
じゅんなてんのう
786-840(延暦5-承和7)

第53代に数えられる天皇。在位823-833年。桓武天皇と妃藤原旅子との間に生まれ,名を大伴という。異母兄の嵯峨天皇の譲位によって即位した。嵯峨上皇が大内裏に近い冷然院(冷泉院)にいて重きをなし,皇太子には嵯峨上皇の皇子正良親王(のちの仁明天皇)が立ったが,淳和天皇は謙譲・温厚な性格で,兄上皇との間は円満に終始し,その在位の天長年間は政治的にはいたって安定していた。この間の史実は正史《日本後紀》の散逸によって多く伝わらないが,滋野貞主による百科事典《秘府略》,清原夏野らによる養老令の注釈《令義解》などの大著の成立は,淳和朝の文化的成果として特筆すべきであろう。死に当たって薄葬を遺詔したことも知られている。
[目崎 徳衛]

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七八六―八四〇 八二三―三三在位。延暦五年(七八六)桓武天皇の第三皇子として生まれた。母は藤原百川の女、旅子。諱は大伴。弘仁元年(八一〇)九月の薬子の変のため ...
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27. 雲林院
世界大百科事典
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28. うりん‐いん[‥ヰン]【雲林院】
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29. うりんいん【雲林院】
国史大辞典
京都市北区紫野にあった平安時代初期の離宮、のち寺院。この地は桓武朝以来遊猟地の一つであったが、淳和天皇の離宮として建てられたのが初見で、紫野院と呼ばれた。天長九 ...
30. うりんいんあと【雲林院跡】京都市:北区/蓮台野村地図
日本歴史地名大系
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31. うりんゐん【雲林院】
全文全訳古語辞典
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32. えい‐そつ[ヱイ‥]【衛卒】
日本国語大辞典
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日本歴史地名大系
が定められた折、基準となったとされる)などがあったという(同書、「集古十種」など)。このうち淳和天皇下賜印には「余戸郷印」と刻されていた。これらのことは当寺がこ ...
34. えん‐ねつ【炎熱】
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35. 延暦寺
世界大百科事典
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36. 大鏡 13ページ
日本古典文学全集
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