もしも人類が「ことば」を持たなかったならば、おそらくは正確な思考を進め、文化を高めることはできなかったであろう。それと同様に、もしも人類が文字を発明しなかったならば、文化を広く世間に伝え、遠く後世にまで残すことはできなかったであろう。文化と文字との関係は、あたかも「ことば」と文化との関係のようなものである。文字は「ことば」を表記する要具であるが、文字の持つ使命は、単に「ことば」の表記にあるだけではない。まことに、文字こそは、学問の府であり、文化の淵源である。
わが国の文字は、一に漢字に負うものである。漢字は、もちろん中国古来の文字であるが、今日では、日本の国字として消化されている。したがって、漢字についての知識の問題は、ひとり中国文化の理解に関連しての要件であるばかりでなく、わが国文化の跡をたどり、さらには今後の日本文化の健全な展開のために、一刻もゆるがせにできないものである。
漢字の特色は、文字が直ちに「ことば」である点にある。漢字は直ちに「ことば」であるから、一字一字がそのまま文化を表象している。その結果、漢字は文化の進展とともに発達増加して、その総数は数万に上り、一字の画数は数十を数え、一字の訓義も数十に及ぶほどのものがあるに至った。このように、文化の展開は、漢字を限りなく複雑なものにしたが、しかし人間の要求には、これと背反する一面があり、日ごとに複雑化する文化を整理し単純化して、これを実用に適したものにしようとする。その漢字における現象は、当用漢字の制定である。
当用漢字の制定は、今や中外にわたる事象である。このような歴史と現実との中にあって、過去を知り、また将来を正しく導くために、われわれはどの程度の漢字の知識を必要とするであろうか。また、これに応ずるには、どのような辞書を必要とするであろうか。思うに辞書というものは、その向き向きに応じて最も適切なものでなくてはならない。ここに編者は、小学館の懇請により、高等学校の漢文学習を主として、一般社会の実用に応じ、中学校の要望にも答え得る用意をもって、本辞典を編集した。
本辞典の要領の一々に至っては、これを「まえがき」の項に譲るが、編集に当たっての最大の目標は、学習と実用とに最も適切で、そのうえ、だれにも最も引きやすい辞書とすることにある。この目標を達するためには、各職場の多くの人たちの意見をも、じゅうぶんに取り入れたつもりである。幸いにしてこの一書が、所期の目的を達することができるとしたら、編者の喜びはこれに越すものはない。
最後に、本書の編集は、もっぱら、大木春基君・月洞譲君・市木武雄君・牛島徳次君の力に負うものである。ここに明記して、謝意を表する次第である。