平安時代に盛行した写経の一種。写経は経典を正確に書写するのが目的で、原則として素紙(そし)(漉(す)き上げたままの加工しない紙)に墨書されるが、料紙を染めたり、金銀泥(きんぎんでい)の下絵を描いたり、金銀の箔(はく)や野毛(のげ)をまいたり、金銀泥で書写するような装飾を施したものを、総称して装飾経とよんでいる。遺品の多くは平安時代のものだが、その萌芽(ほうが)はすでに奈良時代にあり、紫紙に金字(こんじ)で書写した『紫紙(しし)金字金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』(奈良国立博物館ほか)、『紫紙金字華厳経(けごんきょう)』(東京・五島美術館ほか)、また紺紙銀字経として『紺紙銀字華厳経』(東京・根津美術館ほか)などを代表とし、ほかに薄紫の色麻紙に一面に雲母砂子(きらすなご)をまいた料紙を用いる金塵滅(きんじんめつ)紫紙の『解深密経(げじんみっきょう)巻第四』(京都・青蓮院(しょうれんいん))、さらに色紙(しきし)経として『藍紙(らんし)金光明最勝王経断簡』(東京国立博物館)や藍(あい)と紫の染め紙を交用した『金光明最勝王経断簡』(個人蔵)などが知られる。
平安時代に入っても、奈良時代の装飾技法を受けた『紺紙金字一切(いっさい)経』が制作され、鳥羽法皇菩提(とばほうおうぼだい)のための『荒川(あらかわ)経』(和歌山・金剛峯(こんごうぶ)寺ほか)、藤原秀衡発願(ひでひらほつがん)の『中尊寺(ちゅうそんじ)経』(うち15巻金銀交書(こうしょ)経、岩手・大長寿院ほか)などの遺品が伝存している。一方、平安貴族の間に精神性を込めた華麗な経巻も作成されるようになったが、これは宮廷貴族の『法華経(ほけきょう)』信仰の流行がその一因で、写経成仏、女人成仏を説くところからさらに人気が集まり、写経熱が高まった。さらに、源信(げんしん)(恵心僧都(えしんそうず))の説く浄土思想の信仰や末法思想が流行し、極楽往生や一門の繁栄を願う人々は仏事供養に明け暮れし、「尽善尽美(ぜんをつくしびをつくす)」という各自の美意識と財力の限りを尽くして、華麗きわまりない装飾経を生むこととなった。その代表的なものとして1141年(永治1)鳥羽法皇の逆修(ぎゃくしゅ)供養としての『久能寺(くのうじ)経』(静岡・鉄舟寺(てっしゅうじ)ほか)や長寛(ちょうかん)2年(1164)の年紀のある平清盛自筆の願文(がんもん)ほか32巻を完備する『平家納経(へいけのうきょう)』(広島・厳島(いつくしま)神社)がある。また、金銀泥で鳳凰(ほうおう)や草花の下絵を描いた『竹生島経(ちくぶじまきょう)』(滋賀・宝厳寺(ほうごんじ)ほか)、一字を宝塔形の中に書写した『戸隠切(とがくしぎれ)』(長野・戸隠神社ほか)、『一字蓮台(れんだい)法華経』(福島・竜興寺)、歌絵(うたえ)の冊子として用意され、写経の料紙に転用された『観普賢経(かんふげんきょう)冊子』(東京・五島美術館)、華麗な風俗下絵を描いた『扇面法華経冊子』(大阪・四天王寺ほか)など多数があり、さらに亡者の手紙を料紙とした消息経(しょうそくぎょう)の代表遺品として『宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)』(大阪・金剛(こんごう)寺)、『仏説転女(ぶっせつてんにょ)成仏経』(東京国立博物館)なども注目される。
鎌倉時代ではとくに、物語絵巻の下絵料紙が後白河院(ごしらかわいん)追福の写経料紙に転用された『目無し経』が知られる。これらの装飾経は、書道史はもちろん、その装飾下絵や見返しなどが数少ない絵画遺品であることから、絵画史上でも重要な遺品といえよう。