三重県多気(たき)郡明和(めいわ)町斎宮(さいくう)・竹川(たけがわ)に所在する斎宮(斎王宮)の遺跡。斎王(斎宮)とは、伊勢(いせ)神宮に奉仕した未婚の皇女のことで、『日本書紀』垂仁(すいにん)天皇25年条にみえる倭姫命(やまとひめのみこと)がその起源と伝承されるが、実際に確認できる最初の斎王は天武(てんむ)天皇の皇女・大来皇女(おおくのひめみこ)(大伯皇女、661―702)であるとされている。斎王制度は南北朝期まで存続し、文献史料では飛鳥(あすか)時代の大来皇女から1333年(元弘3・正慶2)の祥子(しょうし)内親王まで67人の斎王が確認される。斎宮跡はその斎王のために整備された広大な宮殿・官衙(かんが)跡をさす。
文献上では斎宮を管理する令外官(りょうげのかん)(律令に規定のない官司)として「斎宮司(さいくうし)」(718年に「斎宮寮(さいくうりょう)」に昇格)の名がみえ、飛鳥時代あるいは奈良時代初期に斎宮に設置された。官衙である斎宮寮は、従(じゅ)五位官を頭(かみ)とする寮と、従七位官以下の主神司(かんつかさ)のほか、舎人(とねり)、蔵部(くらべ)、膳部(かしわでべ)などの12司で構成される。
1970年(昭和45)以来の発掘調査により、宮域の内をいくつかに区切る溝、棟方向をそろえた大小の掘立て柱建物跡、柵(さく)列、井戸跡などが明らかにされた。殿舎は檜皮葺(ひわだぶ)きと萱葺(かやぶ)きで、このうち斎王は内院を居所とし、寮と諸司は中院・外院に置かれたと推定される。出土遺物としては、二彩、三彩、緑釉(りょくゆう)、灰釉(かいゆう)の施釉(せゆう)陶器と各種の土器、石帯、八花双鸞(はっかそうらん)鏡、水晶製碁石、緑釉硯(けん)、陶硯などさまざまなものが確認される。古代・中世の政治、宗教、経済、文学などの諸分野の歴史的解明にとって重要な遺跡であり、1979年、東西約2キロメートル、南北約700メートルの範囲が「斎宮跡」の名称で国史跡に指定された。
飛鳥時代から奈良時代にかけての斎宮御殿や斎宮寮の具体的な姿は長らくわかっていなかったが、2020年(令和2)までに飛鳥時代の斎宮中枢の区画を構成する掘立て柱塀とその内部に大型掘立て柱建物1棟を確認し、さらにその西側隣接地で飛鳥時代の総柱建物跡(高床倉庫)計15棟を確認した。これらは、飛鳥時代の飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)や難波宮(なにわのみや)の宮殿と同様の建築基礎工法を採用して造られていることも判明した。2023年には奈良時代の「正殿」にあたる東西約17メートル、南北約15メートルの大型建物跡が確認され、二つの建物をつないで一つの大きな建物にする双堂(ならびどう)を建て、その外側を囲む廂(ひさし)の空間がある特異な構造をもつことも明らかになった。この建物は、聖武(しょうむ)天皇皇女の井上(いのえ)内親王など、奈良時代の斎王の宮殿の可能性が高く、奈良時代に斎宮が大規模に整備された可能性を物語っている。