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1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。

東洋文庫 344

『夢渓筆談1』(沈括著 梅原郁訳注)

2021/09/23
アイコン画像    左遷された男が書き上げた
中国科学技術史上注目すべき書

 王安石という中国史に名を残す人物がいる。

 〈北宋(ほくそう)の大政治家・大文章家。唐宋八大家の一人。神宗(しんそう/北宋第6代皇帝)のとき、進歩的な政治、新法を実施して、反対党から攻撃された。(一〇二一~一〇八六)〉(ジャパンナレッジ『新選漢和辞典 Web版』)

 この王安石のエピソードである。王安石は喘息を患っていた。紫団山産の人参が喘息に効くと、部下が携えてきた。紫団山は人参の産地で有名だった。ところが王安石はこれを拒否する。


 〈ふだん紫団(しだん)の人参がなくても、今日まで生きてきている〉


 宋代の百科全書的随筆集『夢渓筆談』に収められているのだが(巻九 人事一)、さてこの話をどう受け取るべきか。大政治家にして大文章家の王安石のブレの無さを強調しているのか、はたまた頑固さを揶揄しているのか。

 穿った見方をしてしまうのは、著者・沈括(しんかつ)と王安石の関係が微妙だからである。沈括は、〈王安石のブレーン〉(同「世界大百科事典」)として出世した人物だ。ところが訳注者による「沈括略伝」(本書第3巻)によると、王安石は皇帝に向かい、〈沈括は壬人(じんじん、注:上におもねる、へつらい人)ですから、お近づけになってはいけません〉と注進したという。

 実際の沈括は、王安石が一線から退いたあとも出世を続けたかに見えたが、すぐに〈弾劾され地方に左遷された〉(同「ニッポニカ」)。その後、知事として活躍するが、〈延州での対西夏戦に失敗して失脚〉(同「世界大百科事典」)、再び日の目を見ることはなく、余生を使って綴られたのが『夢渓筆談』だ。

 引き立てた上司から「へつらう男だ」と言われ、上司失脚後は取って代わるかと思いきや、自身も中央から追われていく。沈括からみれば、王安石との関係は複雑だったはずで、それが件のエピソードに繋がっていく。書かざるを得なかったところに、沈括の切実さがある。

 その前提を踏まえると、このエピソードも刺さる。


 〈むかしの人が「身分の高い人には、ひとを見る目があるものが多い」といっているのは、人物に接する機会が多いからである〉


 人物に接する機会が多いにもかかわらず、自分という人間を評価できないならば、その人はいかほどのものか。沈括がしのばせたメッセージは、嘆きか、諦めか。

 晩年の沈括が見出したのは、『夢渓筆談』の執筆だった。今日本書は、〈中国科学技術史上注目すべき内容と価値をもつ〉(同「世界大百科事典」)と評価されている。



本を読む

『夢渓筆談1』(沈括著 梅原郁訳注)
今週のカルテ
ジャンル科学/随筆
時代・舞台11世紀の北宋(中国)
読後に一言『夢渓筆談』の1/3以上を科学的記述が占める。このあたりの「科学的視点」に関しては、次回で。
効用本書には、音楽や天体の話も載せる。提挙司天監(宮中天文台長)の任に付いたこともある沈括の天体への知見は、当時として突出している。
印象深い一節

名言
本来、月は光のない、銀の球のようなもので、太陽に照らされてはじめて光るにすぎません。(巻七「象数一」)
類書明代末の科学技術を紹介する『天工開物』(東洋文庫130)
唐代の百科全書的随筆『酉陽雑俎(全5巻)』(東洋文庫382ほか)
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