日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。


 手前味噌かもしれないが、日本のように、さまざまな種類のことばの辞典が刊行されている国は、あまり多くはない気がする。代表的なものは国語辞典だろうが、漢和辞典、ことわざ辞典、類語辞典など、実に多種多様である。中には、漢字4字で構成される「四字熟語」だけ集めた辞典まである。例えば、かつて私が在籍していた編集部から、比較的最近刊行された、飯間浩明編『四字熟語を知る辞典』(小学館 2018年)などがそれである。宣伝めくが、この辞典は近代文学からの豊富な用例が楽しい。
 このような四字熟語の辞典にまず間違いなく掲載されている語に、「天地神明」がある。「神明」は超自然的な存在、すなわち神のことで、「天地神明」は天地の神々という意味で、多く「天地神明に誓って」などと使う。
 例えば、明治元年、つまり1868年に明治天皇が新政府の基本方針として発表した『五箇条の御誓文』の中にも、「朕(ちん)、躬(み)を以て衆に先んじ、天地神明に誓ひ」という一節がある。
 この「天地神明」だが、「天地天命」だと思っている人の方が多いという、ちょっと困った調査結果がある。文化庁が行った2018年度(平成30年度)の『国語に関する世論調査』がそれで、「天地天命に誓って」を使うという人の方が、「天地神明に誓って」を使うという人の割合を、すべての世代にわたって上回っていた。特に、20 代では63.8%,30 代で59.7%が「天地天命」だと答えているのである。
 だが、四字熟語辞典には、「天地天命」は載っていない。そのような組み合わせの語は、従来なかったからである。「天命」は、天の命令、天が人間に与えた使命、あるいは、天が定めた人間の寿命という意味である。それに誓うというのでは意味をなさない。
 「天地天命」と答えてしまった人が多いのは、以下のような理由があったのかもしれない。「天地神明」という四字熟語を聞いたことがなく、また、「神明」という語にもなじみがないため、なんとなく発音が似ていて、多少なじみのある「天命」を選択してしまったといったような。さらに、テンチシンメイと言うよりも、テンチテンメイと言った方が語呂がいいような気がするので、気持ちはわからないでもない。
 「天地天命」は、国語辞典にも四字熟語辞典にも載っていない語なので、さすがにその使用例はないだろうと思ったら、国立国語研究所の「現代日本語書き言葉均衡コーパス」を検索すると1例だけあった。ティーンエージャー向けの1998年発表の小説なのだが、校閲の目をすり抜けてしまったようだ。
 「天地天命」は明らかに誤用から生まれた言い方なので、どんなに広まっても、四字熟語辞典、国語辞典に載せることはできない。だが、「天地天命」が今後も広まりを見せるのであれば、辞典としては、本来の言い方ではないという注意書きをする必要があるだろう。

◇神永さん、立川の朝日カルチャーで講座◇
日本語は、時代や世代によって、意味するところや使い方が微妙に変化し続ける日本語。辞書編集に40年間かかわってきた神永さんが辞書編集者をも悩ませる、微妙におかしな日本語をどう考えるべきか、文献に残された具体例を示しながら解説。
微妙におかしな日本語
■日時:2020年2月8日(土)13:00~14:30
■場所:朝日カルチャーセンター立川教室
(東京都立川市曙町2-1-1 ルミネ立川9階)
■受講料:会員 3,300円 一般 3,960円(税込)
申し込みなどくわしくはこちら↓
https://www.asahiculture.jp/course/tachikawa/75e58e6b-2bb1-8b87-d720-5d8dc50eb374

 

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 今年の十大ニュースは何かと聞かれたら、その一つに、11月にローマカトリック教会のフランシスコ教皇の来日を挙げる人は多いだろう。教皇は、被爆地の長崎と広島も訪問し、「核兵器のない世界は実現可能であり、必要である」と訴えるなど、大変話題になった。
 ところで、このフランシスコ教皇の呼び名だが、「おや?」と思った人も大勢いたのではないだろうか。学校では「ローマ法王」と習ったのに、なんで突然「フランシスコ法王」ではなく、「フランシスコ教皇」になったのだろうかと。
 実は、「法王」と「教皇」はどちらもラテン語のPaPaの日本語訳で、かつては日本カトリック教会内でも表記が割れていたのである。これが、1981年に当時のヨハネ・パウロ2世の訪日を機に、日本カトリック教会内では「教皇」に統一された。「教」の字が、教皇の職務を表すのに適切だから、というのがその理由である。
 ところが、ローマ教皇を元首とするバチカンも、かつては呼称が揺れていた。駐日バチカン大使館は、「ローマ法王庁大使館」とされてきたのである。これは、バチカンが日本との外交関係を樹立した当時の定訳に基づいて申請した名である。だが、これも今回、日本政府によって「ローマ教皇庁」と改められることになった。
 このようなこともあって、新聞などでも従来「法王」が使われてきたが、今回「教皇」に変更するようになったわけである。
 これは、辞書にも影響する問題なのだが、実はほとんどの辞書は、すでに「教皇」を解説のある本見出しとしていて、「法王」を参照見出しとしているのである。「教皇庁」も同様で、新聞よりも先に、日本カトリック教会の見解に従ったことになる。
 古い文献では「法王」と書かれているものも多いので、辞書から「法王」の語が消えることはないだろうが、「教皇」から「法王」に変更になった経緯は、記述しておく必要があるかもしれない。
 なお、以下は蛇足ながら、辞書編集者としての個人的な興味である。「教皇」という語は、いつごろから日本で使われていたのだろうかという。
 『日本国語大辞典』では、昭和初期の新語辞典『現代術語辞典』(1931年)の「教皇 ローマ法王」という例がもっとも古い。だが、さらに古い例がありそうだと思って探してみると、やはり存在した。それよりも40年ほど古い、新聞記者で評論家だった陸羯南(くがかつなん)の『近時政論考』(1891年)の中にある、

 「欧州諸国はさきにローマ教皇の威力に脅かされたるごとく、その第二として仏国革命の威力に脅かされ、ふたたび国民的感情の挫折に遭遇せり」

というもの。日本カトリック教会内の文書はわからないのだが、明治時代の比較的早い時期から「教皇」も使われていたことがわかって面白い。そう感じるのは、辞書編集者だけかもしれないが。

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 この文章を読む前に、下に添えてある写真をご覧いただきたい。車を運転していて、この道路に大きく書かれた文字を見て、とっさに意味が理解できるという人はどれだけいるだろうか。この写真は、今年10月に、広島県福山市鞆港(ともこう)で撮影したものである。
 鞆港は、この地に面する海は鞆の浦と呼ばれ、古くから海上交通の要所として栄えてきた。古い町並みが残っていてとても趣があるのだが、こうした町に多く見られるように、道幅がとにかく狭い。
 鞆港には、私とほぼ同世代の男3人組で行ったのだが、揃って関東の出身である。そのため私以外のふたりは、「離合可能」なんてなんのことなのかさっぱりわからないと言っていた。私はというと、「離合」について以前このコラムで一度書いたことがあるので、意味は知っていた。そのコラムでは、「離合」は狭い道で車がすれ違うことをいい、京都、福岡、大分などで使われていると書いた。ところが今回、「離合」は、広島にも広まっていることが実見できたわけである。
 そこで、もう少し丁寧に、「離合」の使用例を探してみようと思った。すると、ちゃんと(?)小説での使用例があるではないか。
 例えば、村田喜代子の小説『人が見たら蛙に化(な)れ』(2004年)に、こんな例がある。

 「湯布院は道が狭いので有名だ。『こんな町には軽でくるのが一番いいのに、みんな大きな三ナンバーで乗り込んでくる。それみろ、また停まった』飛田が舌打ちした。前を行く大型ベンツが、対向車のBMWと離合できずに立ち往生している。」

 作者の村田喜代子は、福岡で生まれ育っている。関東人の私なら、「離合できずに立ち往生している」ではなく、「すれ違えずに立ち往生している」と書くところであるが、作者にとっては、「離合」はごく当たり前のことばだったのだろう。
 文芸作品ではないのだが、他にも面白い例が見つかった。裁判所のホームページでは、今までの判例が検索できるのだが、例えば、平成28年3月3日に東京地裁で判決が言い渡された、「運転免許取消処分等取消請求事件」の判決文の「事実及び理由」の中に、

 「原告は,本件事故当時,被害者の運転する自転車(以下「本件自転車」という。)が本件車両と離合後転倒したことは認識していたが,本件事故の発生については未必的な認識すら有していなかった。」

という、記述がある。原告の主張を記述した部分なので、原告が「離合」と言ったのかもしれないが、「離合」の意味を知らない人が多い東京都内で起こった事件で、東京地裁でもそのように記述しているところが面白い。実は、判例を検索してみると、文中に「離合」が使われているものが他にもある。法律関係者の間では、地域に関係なく、かなり認知されていることばなのであろうか。
 現行の国語辞典で「離合」にすれ違いの意味を載せているのは、私の調べた限り、『三省堂国語辞典』など、少数である。だが、共通語ではなくても、辞書に載せてもいい意味のような気がする。


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 文化庁が毎年行っている「国語に関する世論調査」の2018年(平成30年)度の結果が、10月下旬に発表された。その結果は各メディアでも取り上げていたのでご記憶のかたもいらっしゃるかもしれないが、なぜかみなそろって、「憮然」「砂をかむよう」を取り上げていた。どちらも本来の意味とは違う意味で使うという人が多かったので、目に付いたのかもしれない。
 「憮然」に関しては、このコラムの第207回で一度書いているので、今回は「砂をかむよう」について書こうと思う。
 「砂をかむよう」は、例えば『日本国語大辞典』で引用している、徳富蘆花の『思出の記』(1900~01)のように、

 「馬太伝第一章から読み始めた。宛(さ)ながら砂を噛む様だ」

のように使う。砂をかんだように味気ないという意味から、物のあじわいがない、無味乾燥で味気ないという意味で使われる。
 ところが、今回の文化庁の調査では、この「無味乾燥でつまらない様子」という意味で使うと答えた人は、32.1%、本来の意味ではない「悔しくてたまらない様子」という意味で使うという人は56.9%と、逆転した結果になったのである。
 この語に、どうして悔しくてたまらない様子という意味が生まれたのか、実はよくわからない。「悔しくて唇をかむ」という言い方があるが、それとの混同なのであろうか。そして、この意味はまだ、ほとんどの辞典に載せられていないのである。さらに、私自身も、この意味での書籍の使用例はまだ見つけられていない。半数以上の人が新しい意味で使っているというのに。
 それでは、いったいどこで使われているのかということになる。そこで、国会会議録で検索してみた。すると、確かにこの意味での使用例が存在するのである。
 例えば、2015年(平成27年)7月8日の衆議院厚生労働委員会・第29号 で、以下のような発言があった。発言者は会議録ではわかるのだが、ここでは必要な情報ではないので省略する。この厚生労働委員会の直前に判明した、年金機構から個人情報が流出した事案についての発言である。

 「私は年金機構から報告を受けたのではなくて、年金局から報告を聞きました。(略)そのときのことも非常に砂をかむような思いで、私は、何ということだと思いましたが、今回も同じように、実は六月の中旬から存在自体が、誤った説明をしたという存在自体がわかっていた。」

 ここで使われている「砂をかむよう」は、明らかに、無味乾燥で味気ないという意味ではない。悔しくてたまらないという意味である。国会会議録では、他にもこの意味の使用例があるので、ひょっとすると、新しい意味は、現時点では口頭語として広まっているのかもしれない。だが、書かれた文章の中で使われるのも時間の問題だろうし、私が見つけられないだけで、実際にはもうあるのかもしれない。そして、やがては辞書にもこの意味が載ることになるに違いない。
 ちなみに私は、「砂をかむよう」の意味は、子どもの頃に聞いたフォークソングで覚えた気がする。それは、1968年に高石ともやが歌ってヒットした、「受験生ブルース」である。「砂をかむように」と「味気ない」が続けて使われているので、実に理解しやすい。ことばを覚える手本は、教科書や書籍でなくても、あちこちにあるのだと思う。

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 大正・昭和期の代表的な大衆文学作家だった吉川英治に、『折々の記』(1953年)というエッセー集がある。まずはその中の「小鳥譜二曲」と題されたエッセーの一文をお読みいただきたい。

 「目ぬきな市街の商家で、そこの御主人公が、アマチユーアといつても、ちよつと世間に少ないほど奇特な小鳥の研究家だといふのである」

 「アマチユーア」という表記も面白いのだが(原語の発音に近いのかもしれず、吉川英治以外の使用例もある)、話題にしたいのはそのことではない。文中にある「奇特」ということばの意味である。ここでは、珍しいという意味で使っている。ひょっとすると、この文章を読んで、「奇特」の使い方に違和感をもった人もいるのではないだろうか。
 「奇特」なんて語はあまり使わないという人もいるかもしれないが、普通は、「奇特な行い」のように、心がけや行いなどがすぐれていて、ほめるべきさまである、という意味で使われる。小型の国語辞典の多くは、その意味しか載せていない。
 ところが、「奇特」を、珍しいとか奇妙だとかいった意味で使っている人もいるのである。文化庁は、この語の動向がけっこう気になるらしく、「国語に関する世論調査」で、2002年度と2015年度の2回、調査を行っている。それによると、2回の調査とも「優れて他と違って感心なこと」という意味で使うという人は、49.9パーセントと変わらない。だが、「奇妙で珍しいこと」という意味は、2002年が25.2パーセント、2015年が29.7パーセントと増えてきている。この結果だけで判断するのは難しいのだが、この語を日常語として使わなくなって、意味がわからず、「奇」という漢字から、「奇妙」と結びつけて考えたという人がいるのかもしれない。
 だが、問題はこの珍しい、奇妙という意味をどう考えるかということなのである。小型の国語辞典のほとんどこの意味を載せていないと書いたが、実は『明鏡国語辞典』は、「近年、『こんな物を買うなんて奇特なやつだ』など、風変わりの意でも使われるが、誤り。」としている。だとすると、吉川英治の使用例は誤用なのだろうか。
 「奇特」は、古くは、非常に珍しく不思議なさまや、神仏などの不思議な力、霊験といった意味で使われた語である。例えば、『日本国語大辞典』で引用している平安時代後期の説話集『今昔物語集』の、

 「鼻を塞(ふさぎ)て退くに、此の香の奇特(きどく)なるを漸く寄て見れば、草木も枯れ、鳥獣も不来ず」(六・六)

という例文は、その匂いが普通でないのをどうにか近寄ってみると、といった意味で、「奇特」は普通ではないということである。
 だとすると、吉川英治の例も、この語にもともとあった、奇妙だとか、風変わりだとかいった意味で使っているだけとしか思えないのである。
 私は、それを、「誤用」「誤り」だとは言えないと思う。

◇小学館神保町アカデミーで再び講演会を開催!◇
「全然、大丈夫!」って全然+否定形でないのでオカシイ? 「破天荒」って大胆で奔放という意味ではない? 「眉をしかめる」って言い方は間違い?──誤用とされる意味や用法について、本当に誤用と断言できるのか、その曖昧な点を掘り下げ、神永さんが考察!
小学館神保町アカデミー:日本語、どうでしょう?辞書編集者を悩ます――「その日本語、ホントに誤用ですか?」
■日時:2019年11月21日(木)18:30~
■場所:小学館集英社プロダクションSP神保町第3ビル
(東京都千代田区神田神保町2-18)
■受講料:3300円(税込)
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