日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。


 このコラムでもしばしば紹介している深谷圭助氏の「辞書引き学習」の講演会では、深谷氏が「ひとびと」という語を実際に辞書で引かせて、辞書の表示と多くの人の思い込みの違いを示し、当たり前の語を辞書で引くことの大切さを教えるコーナーがある。
 なぜ「ひとびと」かというと、通常は「人々」と書かれることが多いこの語は、辞書の見出しの漢字表記欄ではほとんどが「人人」となっていて、それにはそれなりの意味があるからである。
 というのは、「人々」の「々」はもともと漢字ではなく繰り返しを表す符号で、漢字を使った本来の表記は「人人」となるからである。「々」は、「踊り字」「畳字(じょうじ)」などと呼ばれていて、ワープロソフトなどでは「どう」「おなじ」「くりかえし」「おどりじ」と入力すると変換できる。
 この「々」という符号が広く使われるようになったのは、1952(昭和27)年の内閣総理大臣官房総務課が発した「公用文作成の要領」による。そこには、「同じ漢字をくりかえすときは『々』を用いる」と書かれていて、これによって、「人々」だけでなく「年々」「点々」「日々」なども「々」を使って書かれるようになるのである。
 しかし、これらの語を試しにお手元の辞書で引いてみてほしいのだが、見出しの漢字表記欄では「々」は使っていないはずである。ただ、語釈に添えられた例文で、見出し部分を ─ などの記号を使って省略をしていない辞書では、見出しは「人人」でも例文は「人々」のように書かれているものもある。これは例文では一般的な使い方を優先して示したからである。
 このようなわけで、表記欄にないからと言って「人々」と書くことが間違いではないのだが、最近は「ひとびと」のように訓読みの重なる語の場合は、「人びと」のように書くことも増えている。また、印刷されたものでは、行頭に二字目の「々」がくるのを避けるようにしていることも多い。
 ところで「辞書引き学習」の講演会の話に戻るのだが、ある会場で子どもが漢字テストで「いろいろ」を「色色」と書いたら × になったのだがどうしてかという質問が保護者の方からあった。どうやら正解とされたのは「色々」であったらしい。
 先生の意図はわからないのだが、実は「いろいろ」は漢字テストで出題するには適さないことばなのである。
 というのも、「いろいろ」はいろいろな色、各種の色というのが原義で、これが「さまざま」という意味になった語であるため、仮名書きが望ましいからである。多くの辞書も仮名書きされることが多い語であることを注記している。1981(昭和56)年に当時の文部省が公用文作成の際の参考にするため、大臣官房総務課から省内に配布した「文部省 用字用語例」でも、「いろいろ」と仮名書きにするものとしている。また、新聞も同様で、たとえば時事通信社の『用字用語ブック』も「いろいろ」と仮名書きにしている。
 当たり前のことばこそ辞書で引いてみるべきだと思うのだが、特に教える立場の学校の先生は、自分の思い込みでテスト問題を作成することだけはやめていただきたいのである。

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 「秋の味覚を味あわないなんてもったいない」という人がいるらしい。いったいこれの何が問題なのかお分かりであろうか。「味あう」の部分である。言うまでもなく「味わう」が正しく、「せっかくの秋の味覚を味わわないなんてもったいない」と言うべきなのである。
 本来の言い方である「味わう」は、古くは「味はふ」と表記されてきた。「はふ」は、動詞「はう(這・延)」から生まれた語だと考えられていて、名詞などについて、その状態が進展する、あるいは、その状態を進展させる意を表わす接尾語である。「にぎわう」の「わう(はふ)」も同様である。
 「味わう」の例は結構古くからあり、平安時代の漢和辞書『類聚名義抄(観智院本)』にも「味 アチハフ」とある。
 仮名遣いに関して言えば、「あぢはふ」の「はふ」が「わう」になるのは自然の流れであるため「味わう」と変化したのだが、いつの頃からか「味あう」という別の発音が生まれる。「はふ」は「アウ」という発音にもなりやすいようで、「にぎはう(賑)」も本来は「にぎわう」だが、「にぎあう」も見られる。
 「味あう」が生まれた時期は、「味はふ」が「味わう」になってからで、比較的最近のことだと考えられている。
 ところが、『日本国語大辞典(日国)』には本来の言い方ではない「味あう」が見出しとして立てられていて、しかも以下のようなかなり古い例が2例、載せられているのである。
A彰考館本寝覚記〔鎌倉末〕下「くちにあぢあふ所をばなむべからず」
B俳諧・口真似草〔1656〕一「あぢあふやひとくひと口鶯菜〈吉連〉」
 Aの『彰考館本寝覚記』の成立は鎌倉末とあるが、写本で伝わることの多い古典の場合、仮名遣いはそれが写された時代の仮名遣いが反映されている可能性も否定できない。この『彰考館本寝覚記』近世初期の写本だと推定されている。
ところが『日国』の「味わう」には、
*ねさめの記〔鎌倉末〕三「口にあぢはふ所をなむべからず」
というほとんど同じ例が引用されている。実はこの『ねさめの記』とは「寝覚記」の別の写本なのである。こちらの底本は、石川県立図書館蔵本で近世末期の写本である。
 Bの俳諧『口真似草』の「ひとく」はウグイスの鳴き声。「うぐいすな」はコマツナ、アブラナなどのまだ若くて小さい菜のことである。
 Aの例は誤写の可能性も否定できないが、Bの例は明らかに「味あう」の例であろう。だとすると新しいと思われていた「味あう」は、すでに江戸時代にはそう言っていた人がいたということができそうである。
 もう一つ、江戸時代のものではないが、「味あう」は「味合う」だと思っている用例を紹介しておこう。中里介山『大菩薩峠』(1913~41年)の「白根山の巻」にある例である。
  「大門口(おおもんぐち)の播磨屋(はりまや)で、二合の酒にあぶたま(=油揚げを細く切り、とき卵を混ぜて、しょうゆで煮たもの)で飯を食って、勘定が百五十文、そいつがまた俺には忘れられねえ味合だ」
 『大菩薩峠』も決して新しい使用例とは言えない。
 ことばを言いやすいように変化させてしまうのは決して現代人の専売特許ではなく、古くから行われてきたということなのである。

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 「天に唾する」の意味は、人に害を与えようとすれば、かえって自分自身に害がふりかかるというのだと思っていたら、新しい意味が広まりつつあるらしい。それは「自分より上位に立つような存在を、冒し汚すような行為をする」という意味なのだそうである。皆さんはどちらの意味で使っているだろうか。
 先ごろ文化庁から発表された2015(平成27)年度の「国語に関する世論調査」でも、この新しい意味で使っているという人が、30代以下で増えているという調査結果が出ている。なんでも30代以下では3割前後の人がこの新しい意味で使っているらしい。
 それより上の、50~60代では7割弱の人が従来の意味で使っているようなのだが、若い人に新しい意味で使う人が増加しているということは、今後さらに新しい意味が勢力を持つであろうことは確実である。
 確かに「自分より上位に立つような存在を、冒し汚すような行為をする」という新しい意味は、唾を吐(は)くという行為自体が何かを冒瀆(ぼうとく)するという意味合いを持つことがあるので、なるほどそんな意味が考えられるのかと思ってしまう。だが、だからといって感心ばかりもしてもいられない。
 実際には上を向いて唾を吐けば、他人にはかからないで自分にかかるというごくごく当たり前なことから生まれた言い方なのだが、どうやら深読みし過ぎる人が若い世代に多いということなのかもしれない。
 「天に唾する」は江戸時代頃から用例が見られる語なのだが、けっこうバリエーションの多い言い方である。
 『日本国語大辞典』を見ただけでも、

 「天に向かって唾を吐く」
 「天を仰いで唾する」
 「天に唾を吐く」
 「仰いで唾吐く」
 「あおのいで唾吐く」
 「寝て吐く唾」

とあるのだが、意味はすべて同じである。私自身も「天に向かって唾を吐く」もよく使う気がする。よく使われる語ではあるが、慣用句としてはまだ形が固定しない語なのかもしれない。
 ただし、このことば自体は、『四十二章経』という経典に出てくる。『四十二章経』は中国に最初に伝えられた経典とされているが、実際には中国で撰述(せんじゅつ)されたとも考えられている。出家後の学問の道と日常生活について教訓したものだという。
 語形の違いがたくさんあることは大きな問題ではないのだが、意味の方は従来とはまったく違う意味がさらに広まる可能性が高く、今後目の離せない語だといえそうである。

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 「みすず飴(あめ)」という長野県の銘菓をご存じの方も大勢いらっしゃると思う。リンゴ、ブドウ、アンズ、ウメなどの果汁液を水飴と寒天で固めた、見た目もきれいなゼリーである。「みすず」は、「みすずかる信濃(しなの)」によるネーミングだという。
 だが、名前の由来になったという「みすずかる」は、存在しなかったのに存在するという不思議なことばだということをご存じだろうか。
 「みすずかる」の「み」は接頭語、「すず」は篠竹(すずたけ)で、その「スズタケを刈る」という意味なのだが、漢字で書くと「御篶刈」となる。スズタケは日本特産の主に山地の森林の下草として生える竹である。
 「みすずかる」は、もともとは『万葉集』に出てくる語なのだが、隣接する短歌二首(巻二・九六、九七)にしか見られない。いずれも、「水(三)薦刈る 信濃(しなの)の真弓(まゆみ)」の形であるため、信濃にかかる枕詞(まくらことば)だと考えられている。「真弓」は弓の美称である。
 ところで、注意深い方ならすでにお気づきかもしれないが、「みすずかる」の漢字表記は「み篶刈」だが、『万葉集』の漢字表記は「み薦刈」で、「篶」と「薦」が異なるのである。
 「薦」は「篶」とは読みも意味も全く異なる漢字で、「こも」と読みマコモの古名である。マコモは水辺の生えるイネ科の多年草で、編んでむしろを作る。酒だるの「薦被り」の「こも」だというとおわかりいただけるかもしれない。
 「みすずかる」という語は、江戸中期の国学者賀茂真淵(かものまぶち)が『万葉集』にある「み薦刈」を「み篶刈」の誤字であるとし、それを「みすずかる」と読んだことで広まった。江戸後期の俳人小林一茶が、急死した父との最後の日々をつづった『父の終焉日記(しゅうえんにっき)』にも、「梨一参らせたく思へども御篶刈しなのの不自由なる我里は青葉がくれに雪のしろじろ残るばかり(5月7日)」とある。「御篶刈」は「篶」なので「みすずかる」と読む。食欲のなくなった父親にナシの一つも食べさせたいと思うのだが、ふるさとの信濃は不自由な場所にあると嘆いているのである。
 「みすず飴」が作られたのは「みすず飴本舗飯島商店」のホームページによると明治末年からのようだが、その時代は「みすずかる信濃」という言い方がふつうだったのである。
 ところが、昭和に入って国文学者の武田祐吉(たけだゆうきち)が『万葉集全註釈』の中で誤字説を採らず「み薦刈る」のままとし、しかも「みこもかる」と読むべきであると主張したため、現在では、この武田説が主流になっている。
 「みすずかる」は以上のような経緯で生まれた語で、万葉学的には葬り去られた語かもしれないが、辞書的には挙例のような一茶などの用例もあり、立派に存在していることばなのである。
 そんなウンチクを知っていれば、みすず飴の味も香りもさらに楽しめるかもしれない。もちろん製造元の回し者ではないのだが。

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 「やむを得ない事情で、欠席させていただきます」というときの「やむを得ない」だが、この語も声に出して言うときにかなり揺れのある語である。
 恥を忍んで言うと、私自身も小学生のときに「やもおえない」と作文に書いて母親に笑われたことがある。
 実際にどんな揺れが見られるのかというと、「やむおえない」「やもうえない」などである。「やむおえない」は語構成を「やむ」+「おえない」からなる語だと勝手に解釈して、「おえない」を「終えない」「負えない」「追えない」などと書かれることもあるようだ。
 さらには「を」が落ちてしまった「やむえない」も見かける。驚いたことには、小学生の私が間違って使っていた「やもおえない」も、インターネットで検索するとわずかではあるがヒットする。
 なんと誤用のバリエーションが多い語なのかと思うのだが、感心してばかりもいられない。
 ただ、最近のパソコンのワープロソフトはとても親切なので、さすがに「やもおえない」は反応してくれないが、「やむおえない」「やもうえない」と入力すると《「やむをえない」の誤り》であると親切に教えてくれる。だがそれはワープロソフトだからできることで、国語辞典ではたとえ参照見出しとしてであっても、「やむおえない」「やもうえない」を立項することはできない。「やむおえない」「やもうえない」だと思い込んでいる人は、辞書を引いてその語が辞書に載ってないと知るまでは、自分が間違って覚えていたことに気づかないわけで、悔しいが辞書の限界を感じる。ただし電子辞書の場合は検索キーに誤用でも引けるように処理を施しておけば「やむを得ない」に誘導することは可能なのだが。
 「やむを得ない」の「やむ」は「止む・已む」で、今まで続いてきたことがそこで終わりになるという意味である。「得ない」はできないという意味なので、「やむを得ない」で、とどまることができない、さらには、しかたがない、しようがない、そうするより他に手だてがないという意味になる。不満足ではあるがあきらめるほかはない、望まないことを消極的に受け入れるというニュアンスのある語だと思う。
 類語の「仕方がない」のほうがふつうに使われ、言い間違えることもないとは思うのだが、あえて「やむをえない」を使いたいというのなら、語形をしっかり確かめてからにすべきであろう。

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